ここにイエス、御霊(みたま)によりて荒野(あらの)に導(みちび)かれ給(たま)ふ
悪魔に試(こころ)みられんとするなり
四十日四十夜 断食して、後(のち)に飢(う)ゑ給(たま)ふ
試(こころ)むる者、来たりて言ふ
『汝(なんぢ)もし神の子ならば、命じて此等(これら)の石をパンと為(な)らしめよ』
答へて言ひ給(たま)ふ
『「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づる諸(すべて)の言葉にて生くるなり」と録(しる)されたり』
ここに悪魔、イエスを聖なる都(みやこ)につれゆき、宮(みや)の頂上(いただき)に立たせて言ふ
『汝(なんぢ)もし神の子ならば己(おの)が身を下に投げよ
それは「なんぢの為(ため)に御使(みつかひ)たちに命じ給(たま)はん
彼ら手にて汝(なんぢ)を支(ささ)へ、その足を石にうち當(あ)つること無からしめん」と録(しる)されたるなり』
イエス言ひ給(たま)ふ
『「主なる汝(なんぢ)の神を試(こころ)むべからず」と、また録(しる)されたり』
「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づる諸(すべて)の言葉にて生くるなり」
イエスは荒野で四十日の断食をされ、自らをお試しになりました。
悪魔の誘惑、すなわち人の心のうちにある「迷い」を断ち切るためでありました。
断食で空腹のイエスに、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。
イエスの意識は、強烈な誘惑のさなかに置かれました。
いっそ石をパンに変えてしまえば、この飢餓も癒されるのかと。
しかし、イエスは悪魔の誘惑を拒絶します。
イエスの良心が、石をパンに変えることを許可しなかったからです。
良心とは内在の神です。
石をパンに変えることがイエスに宿る神の御心に適わなかったのです。
石をパンに変えることに何の価値があるのでしょう。
人の肉体と魂に必要な糧は、すでに神の創造の言葉によって備えられているのです。
大地に満つる神の言葉は、すべてを造り、すべてを生かし、すべてを支えています。
神は天に命じ、雨を降らせ、地に命じて実を結ばせ、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与えるのです。
大地の実りは、人が生み出したものではなく、神から与えられたものです。
人は自分から生きることはできません。神に許されて生きているのです。
神が死ぬと言われたとき、私たちは死にます。
餓えて死ぬ、病気で死ぬ、というのは表面的な理由にすぎません。
本当の理由は「神は与え、神は奪う」(ヨブ1:21)からです。
人みづから生くるにあらず、神のすべての言葉によりて生くるなり。
人として価値ある生き方、それは神の言葉を生かしあること。
与えられた生命を通じて、この地上に神の栄えを顕すことにほかなりません。