7月5日 参勤交代
1635年(寛永12年)
歴史年表
真日本史
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江戸時代の関所の第一の目的は、江戸に人質として置かせている大名の妻子の逃亡を防ぐことであった。
通行手形は書状となっており、旅人が女性の場合は、住所氏名のほかに、人相や髪型まで書き記されていた。
関所の役人は、手形と本人を念入りに照合し、一致しなければ手形を差し返し、通行を禁止したのである。
家康は、江戸城下に大名屋敷を設け、1万石以上の大名の妻と子を、事実上の人質として住まわせている。
身をもって14年の人質生活を体験した家康は、徳川三百年の泰平の礎を、この人質政策に求めたのである。
1635年(寛永12年)三代将軍家光は、これを参勤交代制として制度化し、全国の大名にもれなく強制した。
すなわち、すべての大名の妻子は江戸屋敷に居住させ、大名は一年おきに江戸に参府することとした。
これ以降、大名の婚礼は必ず江戸で行い、大名自身は、国元と江戸の二重生活を送ることになる。
その結果、江戸にとめ置かれた大名の妻子は、まったく国元を知らず江戸に定住することになる。
参勤交代の目的は、旅費と江戸での滞在費用で、大名の財力を消耗させ、幕府に対する謀反を防ぐことであり、
幕藩体制の大名統制策の中でも、もっとも効果の大きかったものの一つであった。
参勤交代は、大掛かりな大名行列を組みことで、時代劇などでもよく取り上げられる。とにかく運ぶ荷物が多く、
武器から衣服、食料、飲料水、殿様お気に入りの鷹まで運び、鷹を飼いならす鷹匠も連れていたという。
だが大名行列といっても、国元を出てから江戸に到着するまで、ずっと行列をつくって歩いていたわけではない。
整然と軍列を組んで歩いていたのは、国元を出る時と、江戸に入る時など、要所要所だけであった。
大名行列の人数は、大半が250人から300人程度で、国元を出発する時はその人数だったが、城下に出ると人数は半減、
そして江戸に入る段になると、江戸詰めの家臣や江戸で雇用した人足が行列に加わり、再び人数が増える。
大名行列の目的の一つは、自分の藩の威容を、江戸の人々に誇示することにある。国元を出る時にしても、
領主としての威厳を領民に示すために、大人数にするわけである。
だが大名行列のため、街道や宿場町が整備され、江戸の城下町は、大名の集中によって一大消費都市として発展した。
参勤交代が、江戸にもたらした経済効果は計り知れないものとなったのである。