7月4日   大坂冬の陣 1614年(慶長19年)   歴史年表    真日本史      人名事典)(用語事典
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関が原の戦いから10年以上の歳月が流れ、徳川家康は天下統一を目前にしていた。
最後に残ったのは、豊臣秀吉の遺児・秀頼と付き従う側近たちであった。

秀頼の母・淀君は、豊臣家の再興に執念を燃やし、ついに家康との対決が避けられない状況となった。
慶長19年(1614年)10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を発した。世にいう大坂冬の陣の始まりである。

淀君の呼びかけを受け、次々と大坂城に入城する武将たち。だが大多数は甲冑さえ持たない浪人衆であった。
彼らは関が原で敗北し、没落して不遇を囲っていたが、好機到来とばかりに参集してきたのだ。

浪人たちのなかで、真田幸村、後藤又兵衛など、戦略を語れる者が数名いた。軍議では幸村と後藤又兵衛が、
地の利を活かした野戦で徳川軍を迎撃する作戦を主張。だが秀頼の側近たちが籠城戦を唱えたため退けられた。

一介の浪人である幸村たちの思う通りにはいかなかったのだ。そこで幸村は、代わりの策として、
防御の弱い大坂城の南側に大きな砦をもうけた。これが後に「真田丸」と呼ばれる出城である。

11月19日、豊臣方10万、徳川方20万の両軍が激突、散発的な小競合いの後、豊臣方は城に籠城。
戦いは膠着状態が続いたが、12月4日、徳川方の前田利常軍が先駆けの功名に走り、真田丸まで前進してきた。

そこで幸村は、前田軍をじっくりと引きつけた後で、嵐のように一斉射撃をあびせる。
つるべ撃ちに遭った前田軍の先鋒隊300名は全滅、真田丸の前方は死傷者で埋まり、豊臣方は最大の戦果を挙げた。

難攻不落の城に攻めあぐねた家康は、淀君の住む城郭に大砲を浴びせ、和睦を迫るという作戦にでる。
幸村たちは、和睦が謀略であることを見抜いたが、大砲の音に恐れをなした淀君は、和睦を受け入れてしまう。

12月22日、和睦が成立。城の堀は埋められ、真田丸も解体、大坂城はほとんど丸腰にさせられた。

だが和睦は束の間に終わり、翌年(1615年)4月、大坂夏の陣が勃発、真田幸村らの奮戦もおよばず、
ついに城は陥落。秀頼は母の淀君とともに自害し、ここに豊臣家は滅亡したのである。

豊臣方の敗因は指揮の不徹底にある。軍議で主導権を握ったのは、戦の現場を知らぬ淀君と凡庸な側近たちであり、
幸村たちの献策は度々退けられてしまった。まともな指揮官がいないことは組織にとって悲劇以外の何ものでもない。

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