7月21日   歴史のヒーロー(1)アレクサンドロス (Alexander)     歴史年表     ヨーロッパ史
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アレクサンドロスの大遠征

BC334年、ギリシア世界に現れたひとりの若者が、ユーラシア大陸を駆け抜け、強敵ペルシアを倒して、ギリシアから北インドにいたる空前の帝国を築き上げました。

33歳の若さで亡くなるまで、短くも波乱に満ちた生涯を送った若き将軍アレクサンドロスの遠征は、人類の戦いの歴史がそこに始まったといっても過言でないほどの際立った出来事でありました。


ギリシアの北方マケドニア(Macedonia)は、ギリシアのポリスに比べると後進地域でした。
ギリシアからはバルバロイ(Barbaroi 野蛮人)と呼ばれ軽蔑されていました。

しかし、ギリシアのポリスが覇権争いで衰退していく間に力をつけ、フィリッポス2世(Philip II)[BC382−BC332年] のときに一大強国となります。

BC338年、フィリッポス2世は、カイロネイアの戦い(Battle of Chaeronea)でアテネ・テバイ連合軍を破り、ギリシア各地を併合しました。
しかし、BC336年、彼はマケドニア貴族によって毒殺されてしまいます。

フィリッポス2世亡き後、アレクサンドロスが王位を継ぎます。
彼はただちに内外の反乱をしずめ、強大な指導者の地位を確立しました。

そして、軍隊をひきいてエジプト、ペルシアに遠征、BC323年に33歳で死去するまでに、地中海東部沿岸地域から、インド北部にいたる広大な領土を支配下におさめます。
以後、300年にわたるヘレニズム(Hellenism ギリシア様式)時代の基礎を築いたアレクサンドロスの遠征は、東西の交流にとって大きな意味があったのです。

一例を挙げれば、約800年後の日本の飛鳥時代、法隆寺の仏像に伝わった微笑をたたえる表情は、ヘレニズム時代にギリシアから伝わった文化が5世紀のモンゴルを経由して日本まで伝わってきたものと考えられています。

ギリシア文化と東方世界を結びつけたアレクサンドロスの功績は、世界史上だけでなく現在にも多大な影響を残しつづけているのです。


アレクサンドロス大王(Alexander the Great) [BC356−BC323年]

BC336 父王フィリッポス2世の暗殺、アレクサンドロスの即位。
BC334 アレクサンドロスの東方遠征開始。

BC333 イッソスの戦い(Battle of Issus)でペルシア軍を撃破。 ダレイオス王(Darius III)は敗走。
BC331 ガウガメラの戦い(Battle of Gaugamela)で、 ダレイオスに対する二度目の勝利。ダレイオス王は東に逃亡。

BC330 ペルセポリス占領。ダレイオス王は側近に暗殺される。ペルシア帝国滅亡。
BC323 アレクサンドロス病死。大王の領土は、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプトに分裂。


哲人アリストテレス

ギリシアの哲学者アリストテレス(Aristotle)は、マケドニア王フィリッポス2世に招かれ、13歳の王子アレクサンドロスの家庭教師になります。

次代の王を教育することになった彼は、弁論術、文学、科学、医学、哲学など、自らが学んだ様々な知識を、アレクサンドロスに教えていきます。

アリストテレスが、ホメロスの「イリアス」を、アレクサンドロスにプレゼントしたことはよく知られています。

アレクサンドロスは、夜寝る時も、イリアスを枕元において寝るほど愛読したといわれています。
また彼は、自然科学や天文学、生物学にも興味を示しました。

アレクサンドロスが、遠征地にあっても、探究心を発揮して博物学的な知識の習得につとめたのも、アリストテレスの教育によるところがおおきいといわれています。

アリストテレスは、将来のペルシア遠征にあたって、アレクサンドロスにアドバイスしています。
それは、異民族を支配するときには「徳をもって統治せよ」というものでした。

のちに、アレクサンドロスがペルシア帝国を滅ぼしたとき、敵の王であったダレイオスの遺体を丁重に扱いました。
また捕虜としたダレイオス王の母や妃、王女たちには王族にふさわしい扱いをするなど、寛大な勝者であることを強調しました。

すると、それを知ったペルシアの貴族が続々と投降してきました。
結果として、アレクサンドロスこそが、ダレイオスの後継者として印象づけることになったのです。


   
              





イスカンダル

ペルシア王ダーラーブ(Darius I)は、マケドニア王の娘ナーヒード(Nahid)を王妃として迎えた。

かくて、この二つの国は血縁関係を結ぶことになった。
しかし、王妃には不快な口臭があったため、離縁されてマケドニアに帰された。

そのとき王妃ナーヒードは、妊娠していたが、父の宮殿でひそかに子供を生み、
イスカンダル(Iskandar)という名前をつけた。

王妃の口臭がイスカンダルス(iskandarus)という香草で完治したので、それにちなんだ名前であった。
ペルシア王ダーラーブは新しい妃を迎え、一子ダーラー(Darius III)をもうけた。

イスカンダルはギリシアの哲人アリストテレスを師として成長し、20歳にして父の跡を継いで王となった。
のちにペルシアに攻め入ったイスカンダルは異母弟ダーラー王の死を看取ることになった。

                                                   (フェルドウスィー「王書」)


(Alexander before the Dead Body of Darius III, the Last King of Persia)