7月26日   シルクロード (絲綢之路)
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シルクロード とは、中国、中央アジア、西アジア、ヨーロッパを結ぶ通商路の総称である。

この優雅な名称は中国から輸出された代表的な産物である絹にちなんでヨーロッパで命名された。


紀元前から広大なユーラシアの主要都市を結ぶ通商路があり、そこにはさまざまな産物や文化が行き来していた。

ある地域の産物を遠い地域に運ぶと何倍もの高値で売ることが出来る、この商業原理に基づき多くの商人が荷物を運んだ。

そこにはユーラシアを東西に分断するパミール高原(Pamir Mountains)、炎熱の砂漠など多くの難所があり、

盗賊も出没する危険なものであった。



                   



シルクロードは一本の道ではなく、気候の激変や戦火によって、度々ルート変更を余儀なくされた。
現在明らかになっている代表的なルートは、概ね以下のとおりである。

まず中国側の出発点は諸説あるが、唐の都長安 (現在の陝西省西安市) が有力である。
この西安を出て西に向かうと、甘粛省蘭州に達する。


ここで最初の難関である黄河を渡る事になるが、その場所は蘭州郊外の炳霊寺 (へいれいじ) 石窟付近とされている。

北にゴビ砂漠、南に祁連(きれん)山脈に挟まれた細く長い回廊 (河西回廊 かせいかいろう) を通り抜ける。

敦煌に出ると、砂漠の中で道がいくつかに分かれる。



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絲綢之路」  (喜多郎)





西域南路


敦煌からタクラマカン砂漠(Taklamakan Desert)南縁のオアシスを辿って

ホータン(和田 Hotan)、パミール高原に達するルート。

オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。


このルートは、敦煌を出てからロプノール(Lop Nur ロプ湖)の北側を通り、

楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈

(阿爾金山脈 Aerjin Mountains)の北麓に沿って進む方法とがあった。

しかし、4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、

前者のルートは往来が困難になった。距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で

過酷なルートであるが、7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、

楼蘭の廃墟に立ち寄ったと  『大唐西域記』 に記されている。



天山南路

敦煌からコルラ(庫邇勒 korla)、クチャ(庫車 kuqa)を経て、天山山脈の南麓に沿って
カシュガル(喀什 Kashi)からパミール高原に至るルート。


このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌から北上し、ハミ(蛤密 Hami)から
西進してトルファン(吐魯番 Turpan)を通り、コルラに出る方法とがあった。

しかし、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。


天山北路

敦煌から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチ(烏魯木斉 Urumqi)を通り、
天山山脈の北麓沿いにイリ河(伊犁河 Ili River)流域を経てサマルカンド(Samarkand)に至るルート。

砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、
平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もなかった。






炳霊寺石窟 (へいれいじせっくつ  Bing ling Cave Temple)

蘭州の南西、黄河の北岸側の峡谷の中にある石窟で、「炳霊(へいれい )」とは、チベット語で「十万の仏」を意味する。

炳霊寺は世にも珍しい奇景のなかにあるため、古来から神仙や霊異の住む霊地とされていた。

この石窟寺院は、西秦の時代(4世紀末)に開窟され、元に至るまで造営が続き、総窟数は184を数える。

また古来シルクロードに入る旅人が必ず渡らなければならない黄河の渡河点として有名である。
玄奘三蔵もそのひとりであった。







楼蘭 (ろうらん Loulan)  
バインゴリン・モンゴル (巴音郭楞蒙古) 自治州 庫爾勒 (コルラ) 市

敦煌の西600km、タリム盆地(Tarim Basin)の東端にあるかつてのオアシス国家の遺跡。

建国の時期は不明で、紀元前2世紀には匈奴(Xiongnu)の支配下にあった。

「楼蘭」 の名前が始めて歴史上に現れたのは、司馬遷の 「史記」 の 「匈奴伝」。

紀元前176年、匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)が前漢の文帝に送った親書に 「楼蘭以下二十六国を完全支配下に収めた」 と記したことを伝えている。





漢と匈奴との絶え間ない争奪の舞台となった楼蘭は、人口の五分の一が兵士という軍事国家だった。

最盛期の人口は2万人以上もあり、古代シルクロードの有数の商業都市で活気に満ちていた楼蘭だった。

外敵の侵入や交易路の変化などにより衰え、廃墟と化し、次第に砂漠の中に埋もれていった。

再び楼蘭が脚光を浴びるきっかけとなったのは、20世紀初頭スウェーデンの探検家スウェン・ヘディン(Sven Hedin)と、
イギリスのオーレル・スタイン(Aurel Stein)がこの地を探検。

偶然楼蘭を初めとする多くの遺跡を発見したことだ。

この世紀の大発見は世界中を驚愕させ、その後発掘が開始された。





砂漠の中に330m四方の城壁、仏塔、住居跡などが残る。周辺には烽火台や古墳群も残っている。

3000年前の女性のミイラが発掘されたこともよく知られている。


また、さまよえる湖として知られる 「ロブノール」(Lop Nur 罗布泊)は楼蘭の東にある。(現在は完全に干上がっている)

観光は、敦煌やトルファンなどから片道4~5日かけて砂漠を4WD車で走り続ける探検ツアーになる。















火焔山  (かえんざん  Flaming Mountains)

トルファンのシンボルともいえる山。

トルファン盆地の中部にあり、平均海抜は約500m、全長は約100km、最高峰は勝金口近くの851m。


赤い泥岩の山肌に深い縦シマが刻まれ、陽が当たると燃えているように見える。

実際に地表温度は90度、気温は40度を越えるというまさに火焔地帯。

西遊記で孫悟空が、涼をもたらす芭蕉扇を巡って牛魔王と戦った場所でもある。






サマルカンド(Samarkand)


標高約 700mの地に位置するサマルカンドは、中央アジア最古の都市の一つで、シルク・ロードの要地である。

BC 4世紀に、ソグディアナ(Sogdiana)の中心都市として栄えたが、BC 329年、アレクサンドロス3世 (大王) に征服された。

14世紀末から 15世紀初めにかけてティムール朝(Timurid Empire)の首都となり、中央アジア最大の経済・文化中心地として繁栄した。

この地域は現在のウズベキスタン共和国にあたる。