9月11日    神我一如                                  
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  神を外に求むる事なかれ。神我が内にあればなり。

 神の、いと高き処にありと求むる我は、いと低き処にあれば、
 無限の高きに神を留(とど)め、永遠(とこしえ)に近づくこと能(あた)わざるなり。

 悠久(いうきう)の太古より、無限の未来に至るまで、常に、神は我なり。
 何故(なんと)なれば、広大無辺の大宇宙、即ち神なれば、その中(うち)に存在するもの、すべてこれ神なり。

 人、申すに及ばず。我、神の中(うち)に在(あ)りて、神の御言葉生かしあるものなれば、
 我が内にあるもの、すべてこれ、神なり。

 神にあらず、と囁く悪魔の声を、真実(まこと)なりと思ひ違ひて幾星霜。
 こびりつきたるこの妄念(まうねん)の過誤(あやまち)に気付きしは、即ち神たる我に目覚めし証(あかし)なり。

 目覚めて見れば、四次元、五次元、六次元、皆これ異境(いきゃう)にあらず、
 我が身を留むるこの場こそ、即ちその次元なり。

 内在の我に徹して、その本心を探求(たんきう)いたしゆく時、我、即神なり、との自覚に到らん。
 されば、その探求(たんきう)こそ、信仰と申すなり。

  只(ただ)魂の 浄(きよ)めのために現(うつ)し身の 在(あ)りとこそ知り この身尊し

                                 (真言宗 照真正道会 乾 光照)



世の宗教が犯した最大の罪は、神を自らの外側に置き、なおかつ崇める対象にしてしまったことです。
神を外側に置き、誰が神に一番近いかという競争が生じ、教会と聖職者による権威が幅を利かせるようになってしまったのです。

教会へ行くとキリストの像や聖画が数多く飾られています。いわゆる偶像です。

神様は、目にみえず想像するしかないため信仰を向けにくい。
それよりも現実に見える形で存在する偶像に祈る方が分かりやすいということです。

しかし聖書を見てみると偶像崇拝は禁じられています。

「汝、自己のために何の偶像をも刻むべからず」(出エジプト20-4)

そこで牧師さんは言うのです。像や聖画は神様の象徴です。
偶像を拝んでいるのではなく、その向こうの聖なるものに対する崇拝だと言う。

でも本当のことを言えば、神は崇める対象ではないのです。
神はいつでもどこでも、いつもあなたのそばにおられるのですから。

「神は我が内にあり」の意味は、あなたの内に神が宿っているということです。
あなたの内に神がいるのですから、教会も要らなければ、聖職者も要りません。

神はあなたと共に歩き、あなたと共に語り、あなたと共に喜ぶのです。
あなたは神から生まれたのです。そして真実は、あなたが神なのです。


         
                         (神我一如)