戦前の日本では、徴兵は20歳以上となっていた。だが戦争末期となり、戦況が悪化すると、
軍と政府は、予科練という20歳未満の若者を対象とした兵士養成コースを作った。
予科練に入った若者たちは、昨日までは学生で、軍人でも飛行機乗りでもなかった。
それがにわか仕立ての飛行兵となり、額に日の丸の鉢巻きを締め、颯爽と機上の人となり、
南の海に徘徊する敵の艦隊に体当たりするために飛んでゆくのである。
彼らは、名誉ある死の出撃命令が下るまで、どう考えたら納得して死ぬことができるかと
苦しみ続けた。そんな折、予科練の中で、好んで歌われた曲が「同期の桜」である。
「咲いた花なら 散るのは覚悟 花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう」
「同期の桜」という曲は、勇ましさや迫力に溢れた他の軍歌と違い、戦地に赴く者の
決意と悲壮さが伝わってくる歌詞と曲調になっている。
そこには、日本人のDNAに訴えかけてくる「滅びの美学」というものがあった。
若者たちは、桜のように一気に咲いて、一気に散ることを、死ぬことと置き換えて、
自らの気持ちを高揚させ、覚悟を決めて散って行ったのである。
特攻に行く前に、別れのあいさつに来た息子に、母親は「おめでとうございます」
と言わなければならなかった。
戦争反対などと言おうものなら、たちまち国賊、非国民と罵られてしまうのだった。
そもそも戦争とは、1%の人たちが、自分たちの欲望や都合のために、99%の人たちの
命や肉体を利用することではないだろうか。
彼ら日本の指導者たちは、アジアの隣国を侵略し、さらに太平洋戦争へと突き進み、
戦況の悪化と共に、国民に塗炭の苦しみを味わわせたのである。
ところが、戦争に負けるや否や、生き残った1%に属する指導者たちは、鬼畜米英だった
はずのマッカーサーに擦り寄り、媚びへつらい、自分たちの地位の保身と継続を図った。
1946年5月、戦争を遂行した日本の指導者を裁く東京裁判(極東国際軍事裁判)が開廷。
だがこの東京裁判では、米軍の政治的配慮により、天皇の戦争責任が不問にされ、岸信介、
児玉誉士夫らA級戦犯17名が不起訴・釈放となるなど、さまざまな欠陥と限界があった。
岸は講和条約発効後、政界に復帰、1957年(昭和32年)から三期にわたって首相となり、
保守政界のトップに返り咲いた。
児玉はロッキード事件で失脚するまで、政財界に隠然たる勢力をもつ黒幕となった。
戦前は反米を唱えていたが、戦後は親米派に転換することで、自らの地位を築き上げるなど
彼らの変わり身の早さに驚かされるが、こういった輩こそ、国賊と言うべきであろう。
「同期の桜」の原曲について
歌い継がれてきた「同期の桜」は、実は替え歌であり、その替え歌が
世間に広まって現在に至っているという、変わった経緯がある。
原曲は、1939年(昭和14年)7月に発売された「戦友の唄」という曲。
作詞は西条八十、作曲は大村能章、当時の流行歌歌手・樋口静雄の歌唱による
戦時歌謡曲としてキングレコードより発売された。
(戦友の唄 歌詞)
君と僕とは二輪のさくら 同じ部隊の枝に咲く
血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて離れられぬ
君と僕とは二輪のさくら 積んだ土嚢の陰に咲く、
咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましよ皇国(くに)のため
君と僕とは二輪のさくら 別れ別れに散らうとも
花の都の靖国神社 春の梢で咲いて会ふ
この「戦友の唄」をもとに、海軍兵学校の生徒が歌詞の一部を書き換え、
その替え歌が「同期の桜」の曲として世間一般に広まり、歌い継がれてきた。