10月18日  宗教改革 (Protestant Reformation)      歴史年表      ヨーロッパ史
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ルターの「九十五か条の意見書」

中世ヨーロッパでは、キリスト教の総本山はカトリック教会でした。
カトリック教会の強さは、ピラミッド階層による組織力だったのですが、次第に聖職者の世俗化が始まり、教会内の腐敗が広がっていきました。

そんななか、大商人のメディチ家(House of Medici)出身で、はでずきの法王レオ10世(Pope Leo X)は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂(St. Peter's Basilica)の建設資金を集めるため、これを買えば罪がつぐなえ、死んだのち天国へ行けるという、免罪符(Indulgence お札)をドイツで売り出しました。

当時のヨーロッパは、ペストの流行がしばしば起き、人々は常に死への不安を抱えていました。
免罪符を買えば、罪が軽減され、死後の裁判でゆるされ、地獄行きを回避できると信じ、人々はこぞって免罪符を買い求めました。

1517年、ドイツ(神聖ローマ帝国)の大学教授のマルティン・ルター(Martin Luther)は、この免罪符に反対して「九十五か条の意見書」を発表しました。

彼は、人は信仰によってのみ救われると主張しました。
やがてローマ法王から破門されたルターは、聖書だけを信仰のよりどころとして、当時のカトリック教会への批判をつづけました。

ルターの教えは、法王や皇帝と対立するドイツの諸侯、市民、農民に広まりました。

このころ、スレイマン1世(Suleiman I)のもとで最盛期をむかえたオスマン帝国が、オーストリアのウィーンに攻めこんできました。
神聖ローマ皇帝カール5世(Charles V)は、ルターの教えを一時ゆるして、諸侯の協力を得ました。

しかし、オスマン帝国の軍がひくと、ふたたびルターの教えを禁止したため、ルター派の諸侯は皇帝に抗議しました。
この抗議のため、ルター派は、プロテスタント(抗議する人)とよばれるようになり、のちにはカトリックに対抗する新教徒の総称になりました。


カルヴァンの宗教改革

フランス人のカルヴァン(Calvin)は、スイスのジュネーヴで宗教改革を始めました。
カルヴァンは人が死後に救われるかどうかは、神によってあらかじめ決められているという「予定説」をとなえました。

また、人が神の救いを信じて自分の仕事にうちこみ、その結果、利益を得ることはよいことだといいました。
カルヴァンの教えは、商工業にたずさわる市民のあいだに広まりました。

宗教改革が始まると、カトリック教会の側でも、立てなおしをはかりました。
スペインのイグナティウス・ロヨラ(Ignatius of Loyola)は、きびしい規則をもつイエズス会(Society of Jesus ヤソ会)をつくり、カトリック勢力のまきかえしの先頭に立ちました。

イエズス会は、大航海によって新しく知られたアメリカ大陸やアジアにもキリスト教を広めました。
1549年、イエズス会の宣教師、フランシスコ・サビエル(Francis Xavier)は、日本の鹿児島をおとずれ、キリスト教の布教につとめました。


フランスの宗教戦争

フランスでは、国の迫害にもかかわらず、「ユグノー」(Huguenot)とよばれるカルヴァン派の新教徒がふえつづけました。
1562年、ついに新教徒とカトリック教徒が対立して、「ユグノー戦争」(French Wars of Religion)とよばれる内乱が起こりました。

国王の母カトリーヌは、カトリック教徒の貴族と手を結び、自分の娘の結婚でお祝いにかけつけた新教徒を数千人も殺す事件「サン・パルテルミの虐殺」(St. Bartholomew's Day Massacre)を起こし、戦いは長引きました。

(サン・パルテルミの虐殺は、1572年8月24日、国王シャルル9世の母カトリーヌ・ド・メディシスが、聖バルテルミを祝う教会の鐘を合図に、パリに集まっていた新教徒、約3000人を虐殺した事件です)

やがてアンリ4世(Henry IV)がブルボン朝(Bourbon Dynasty)を開き、1598年、ナントの勅令(Edict of Nantes)を出して国民に信仰の自由をみとめ、やっと戦争は終わりました。


三十年戦争

宗教的に分裂していた神聖ローマ帝国では、1555年のアウグスブルグ宗教和議(Peace of Augsburg)で、諸侯たちにルター派か、カトリックをえらぶ権利があたえられました。
しかし、カルヴァン派はみとめられず、新教徒とカトリックの対立はつづいていました。

1618年、ボヘミア(いまのチェコ)で起こった新教徒の反乱をきっかけに、三十年戦争(1618〜1648)が起こりました。
この戦争は、新教徒とカトリックとの対立をきっかけに始まった戦乱でしたが、のちに新教派のデンマーク・スウェーデンが、新教徒保護を名目に参戦し、国際戦争となっていきます。

戦いの後半では、カトリック国のフランスが、同じくカトリックの神聖ローマ帝国を打倒するために、新教側に立って参戦するなど、宗教上の目的から政治的な目的へと変わっていきました。
当時のヨーロッパでは、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家と、フランスのブルボン家が二大勢力を誇っており、政治的な覇権争いを繰り広げていました。

ハプスブルク家は、スペインも領有していたため、フランスは、ハプスブルク両家によるフランス包囲を非常に恐れていました。
このような状況を打開しようと考えていたフランスは、三十年戦争を機会に、新教側に味方して、ハプスブルク家の弱体化を図ろうとしたのです。



ウェストファリア条約

長引く三十年戦争を終わらせるため、西ドイツのウェストファリア地方で、ヨ一ロッパではじめての国際会議が開かれました。

会議は5年間もつづき、ようやく1648年、ウェストファリア条約(Peace of Westphalia)が結ばれました。
この条約で、カルヴァン派もみとめられました。

また、スイスとオランダの独立をはじめ、諸侯の国は独立した国家としてみとめられたため、神聖ローマ帝国は、100以上の国の連合体となりました。

こうして、それまで支配力が大きかった神聖ローマ帝国や教会は力を失っていきました。
代わって、それぞれの国が支配力を高めていく時代へと突入することになります。





バッハ(Johann Sebastian Bach 1685〜1750年)の宗教音楽の大半はルター派教会のための音楽でした。
当時のクラシック音楽は王侯貴族の邸宅で演奏されるのが普通で、庶民が音楽を聴けるのは教会だけだったのです。

ザクセン王フリードリヒ3世など、ルターを信奉するドイツ諸侯は、プロテスタントを保護して独自の教会を立ち上げました。
彼らは庶民の信仰を助けるための清貧で質素なルター派教会を創始したのです。

東ドイツのザクセンは、ルター派の根強い土地柄で、この地でバッハは生涯の大半を過ごしました。
ここで暮らした27年の間、バッハは聖トーマス教会の音楽主任として、聖歌隊の指揮、カンタータ作曲等、音楽家としての功績を残しました。

G線上のアリアは、イエスの受難の物語を扱った曲であり、ルター派の教会音楽の頂点とされています。
バッハが40歳ごろの作品で、管弦楽組曲第3番二長調の第2楽章(Air)として書かれたものが原曲となったものです。


                             G線上のアリア(Air on the G String)


                       神聖ローマ帝国 歴代君主、生没年、在位期間





関所あり

プレーボーイで知られたフランス王アンリ4世は、例によってある婦人にいいよった。

「お願いです。あなたの寝室に行く道を、どうか教えて下さい」

すると彼女 「わたくしの寝室へは、教会を通らなくては行けませんの」