イラク戦争とイスラム国    歴史年表    ヨーロッパ史
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9・11同時多発テロ


2001年9月11日、イスラム過激派にハイジャックされた旅客機よる同時多発テロがアメリカのニューヨークとワシントンで勃発。

アメリカ資本主義を象徴する世界貿易センタービルと軍事大国アメリカを象徴するペンタゴンが、旅客機の突入で破壊されました。
この9・11事件は世界中を震撼させた大事件でありました。

アメリカ政府は、このテロ攻撃がサウジアラビア人のオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織「アルカイダ」によって計画・実行されたと断定。
彼らが潜伏するアフガニスタンのタリバン政権に引き渡しを要求しました。

しかし、タリバン側は、アルカイダのやったこととは断定できないと主張し、引き渡しを拒否。
このため、アメリカ軍は、アフガニスタンのタリバン政権に対して攻撃を開始します。

周辺のアラブ諸国も、テロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出しました。

アメリカの最新兵器の空爆により、タリバンはあっという間に壊滅状態になりました。
しかし、ビンラディンは逃げおおせてしまいます。

結局、最後ビンラディンは、2011年5月、パキスタンの隠れ家で見つかり、アメリカ軍の特殊部隊によって殺害されました。


イラク戦争

湾岸戦争後、アメリカのブッシュ大統領は、イラクがテロ組織の背後にいるとして「悪の枢軸」と決めつけ、武力攻撃の道を探りはじめます。

2003年3月、アメリカはイラクが大量破壊兵器を貯蔵して中東地域に脅威を与えているとして、イギリスとともにイラク攻撃に踏み切りました。
イラクのサダム・フセイン政権はあっけなく倒れました。

クルド人による新生イラク政府が樹立され、サダム・フセインは新政府による裁判の結果、クルド人虐殺の罪で死刑判決を受け、直ちに処刑されました。

結局、ブッシュ大統領が開戦の理由にした大量破壊兵器は発見されませんでした。
イラク戦争は、2010年に終わり、2011年にはアメリカ軍も撤退しました。

しかし、けっしてイラクに平和が戻ったわけではありません。
フセイン政権崩壊後、イラクは、イスラム教スンニ派とシーア派の対立が激化します。


イスラム国

シーア派を基盤とするイラク新政府は、スンニ派を押さえこむ形で政治を行おうとしましたが、「イスラム国」(Islamic State)を自称する武装組織が勢力を伸ばし、内戦状態に突入しました。

2014年6月、スンニ派の過激派組織「イスラム国」が、イラク北西部からシリア東部にかけての一帯でイスラム国家の樹立を宣言します。
このイスラム国が台頭するきっかけとなったのが、シリアの反政府運動でした。

シリアは、イスラム教シーア派を信奉するアサド大統領が独裁政権を維持していました。
反米、反イスラエルをかかげていたため、ロシア・ソ連の支持を得て国内統治をしてきました。

しかし、イラクのフセイン政権が倒れると、シリア国民によるアサド独裁政権打倒の機運が高まり、反政府運動が起こります。

この反政府運動につけこんだのが、イラク国内で活動していたイスラム国でした。
イスラム国は、シリアの反政府組織が獲得した地域を横取りし、反政府組織を攻撃しながら支配地域を拡大していきました。

またイスラム国は、イラクのスンニ派住民からも支持を受けたため、イラク国内でも勢力を拡大していきました。
イスラム国の目的は、イスラム圏を統一し、イスラム法に沿った国家を建設することでありました。


テロの拡大

19世紀まで、シリアとイラクは、イスラム教国であるオスマン帝国の領土でした。
しかし、第一次世界大戦中に、イギリスとフランス、ロシアがこの地域を分割して取り分ける秘密協定「サイクス・ピコ協定」を結びます。

イスラム国は、イラクとシリアに分断された状態を「サイクス・ピコ体制」と呼び、異教徒であるキリスト教国や共産主義国を打倒し、自分たちの国、かつての「イスラム帝国」を建設することを悲願としています。

カリフによって導かれたかつての強大なイスラム帝国の栄光を取り戻そうというという呼びかけに、現在の社会に不満を持つ若者たちの心をとらえたという側面も否定できません。

事実、イスラム国には、アメリカやヨーロッパなどから、若者たちが志願兵となって集まってきています。
難民となって欧米に渡っていたイスラム教徒の中には、差別や貧困を経験し、イスラム世界に希望を求めている人もいます。

イスラム国側も、インターネットやSNSを駆使して、こうした若者たちを戦略的に集めているのです。

イスラム国を軍事的に追いこむことは可能なのかもしれません。
しかし、イスラム国が崩壊しても、彼らの掲げた大義や理念が、イスラム世界には広く浸透しています。

同じ思想・イデオロギーを持つ「第二、第三のイスラム勢力」が台頭し、ジハード(聖戦)で巻き返そうとするために、世界各地でテロが拡大することもありえます。

19世紀から20世紀にかけて欧米列強によって作られた国境線が、現在も維持されている中東世界。
その歴史の根底には帝国主義、民族差別、宗教の対立など様々な問題が絡んでいるのです。

こうした抜本的な問題の解決なくして、中東地域に本当の意味での平和が訪れることは難しいといえるでしょう。

     
           中東・アフリカ諸国の概況
     

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チャドル事件

チャドルとは、イスラム教徒の女性が、頭から全身を覆うように着用する布である。

1989年10月、フランスの公立学校に通う3人の女子中学生がチャドルを着用して登校し、
学校からの再度の勧告にも関わらず、チャドル着用を通したため退学処分となった。

これに対して、背後にあるイスラム団体から反発の声があがり、大きな問題となった。
これが「チャドル事件」と呼ばれる事件である。

学校側は、校内でのチャドル着用は政教分離の原則に反すると考えて、
3人を退学にしたと発表している。

フランスでは、あらゆる公機関から一切の宗教性を排除している。

かつてローマ法王を頂点とするカトリック教会が、個人の行動や価値観まで干渉し、
人生そのものを支配しようとして、人民を抑圧してきた。

フランス国民は、革命以来、教会から離れることによって、個人の自由と平和を実現した。
政教分離の原則は、フランスにとって、普遍的な理念となったのである。

一方、チャドル着用はイスラムの法。女性は人前で髪を露出してはならないのである。
イスラム教において信仰とは法の遵守であり、この法は本質的に国家を凌駕する。

欧米人からみれば、チャドル着用など歴史の遺物、女性に対する差別と思うかもしれない。
だがイスラム教徒に言わせれば、資本主義社会こそ弱肉強食の貧富格差を生む元凶なのだ。

イスラムにも民主主義の原則がある。だが欧米のように多数決で物事を決定しない。
全員一致がイスラムの民主主義である。人は神の前にみな平等だからである。

もちろん、全員一致で合意するまで時間がかかるかもしれない。
だがこうした平等原則のもとに、確固として築きあげられたものがイスラム法なのだ。

イスラム法が国家と個人の生活を支配する。これはフランスだけでなく、近代国家では許されない。
近代国家のあり方だけではない。その底にある宗教的文化的な違い。これがチャドル事件の核心にある。

グローバル社会は、異なった諸文明の接触と衝突を生む。
テロと戦争が、新たな分野の戦いの始まりだとするなら、チャドル論争もまた、一つの避けられない衝突の始まりなのかも知れない。