ソ連の崩壊          歴史年表         ヨーロッパ史       人名事典)(用語事典)
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ソ連のアフガン侵攻


ソ連では、1964年にフルシチョフにかわってブレジネフが書記長となり政権を担当しました。

1979年、ブレジネフは、弱体化した親ソ政権支援の名目で、アフガニスタンに軍隊を侵攻させました。
しかし、これにイスラム教徒が反対して内戦が起こり、長い戦争になりました。

(当時は東西冷戦の真っ只中で、米ソは一カ国でも自分の陣営に入ってもらおうと各国に援助をしていました。
この米ソの陣どり合戦にアフガニスタンも標的になったのです。



ソ連の援助攻勢でアフガニスタン政府はソ連の陣営に入りましたが、共産主義に反対するイスラム教徒の勢力は、
反政府ゲリラとして抵抗を続け、内戦に発展しました。

この反政府ゲリラをアメリカが支援していました。
冷戦でソ連と対立する立場のアメリカとしては、「敵の敵は味方」という論理だったのです。

さらに1979年は、アフガニスタンの隣国イランでイスラム革命が起こった年です。
イスラム法を規範とし、神を唯一の主権者とするイスラム原理主義は、共産党一党独裁をめざす共産主義とは真っ向から対立する思想でありました。

ソ連のアフガン侵攻は、イスラム革命がアフガニスタン国内にも飛び火することを恐れたという側面もあったのです)






ペレストロイカ

この間に、ソ連の経済は日ましに悪くなって物資が不足し、国民は食料など生活に必要なものを求めて、店の前に長い行列をつくる毎日でした。

1985年、ゴルバチョフがソ連の新しい指導者になり、「ペレストロイカ」とよばれる改革に乗り出しました。
外交でも、アフガニスタンから軍隊をひきあげ、アメリカとの友好関係を進めました。

1989年、地中海のマルタ島でアメリカのブッシュ大統領と会談し、「冷たい戦争」を終わらせることを世界に発表しました。
国内でも国民の権利と自由をみとめました。


1991年、ゴルバチョフの改革に反対する一部の人々のクーデタは失敗に終わりますが、ゴルバチョフは失脚し、
ソ連から多くの共和国が自立し、ロシア共和国などが独立国家共同体(CIS)をつくったため、ソ連は崩壊しました。

ゴルバチョフの「ペレストロイカ」は、ソ連の影響を受けていた、東ヨーロッパの国々にも大きな影響をあたえました。
1989年、東ヨーロッパの国々では、国民の自由を求める動きが高まり、共産党だけによる政治がくずれました。

なかでも、ドイツをふたつに分けていた「ベルリンの壁」が市民の手によってとりこわされ、1990年にドイツはひとつの国に統一されました。
そして、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどでも民主的な国づくりが進みました。






ベルリンの壁崩壊

第二次世界大戦後、ドイツは、自由主義陣営に属すドイツ連邦共和国(西ドイツ)と
社会主義陣営に属すドイツ民主共和国(東ドイツ)のふたつに分かれました。

これとともに東ドイツにあるベルリンも、西ベルリンと東ベルリンに分けられました。

東ドイツの一部の市民は、西ベルリンをへて、西ドイツにのがれようとし、
多いときには1日150人もの人々が西ドイツに逃げ出しました。



1961年、東ドイツ政府は、とつぜん、東西ベルリンの境界線にそって、
全長160kmにおよぶコンクリートの壁をつくりました。

この「ベルリンの壁」は、長いあいだ、ドイツをふたつにへだてる存在でした。
1989年、自由を求める市民の手によって、「ベルリンの壁」は打ちこわされ、翌年ドイツは統一されました。



第二次世界大戦は、戦場となったヨ一ロッパの国々に大きな傷をのこしました。
そして、戦後は、アメリカ合衆国とソ連のふたつの大国が、世界を動かすようになりました。

なかでも、19世紀には世界中に植民地をもち、世界の政治や貿易を動かしてきたイギリスやフランスでは、
アジアやアフリカにあった植民地が独立したこともあって、その力はおとろえてしまいました。

西ヨーロッパの指導者は、ふたつの世界大戦はヨーロッパの国々や、フランスとドイツが石炭や鉄資源をめぐって
衝突したことから起こったことをきびしく反省しました。

そこで、1951年、フランス・西ドイツ・イタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの6か国は、
「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」(ECSC)を結成して協力関係をきずきました。





ヨーロッパ経済共同体

1957年、これらの6か国は、国のわくをこえて「カネ」(資本)や「モノ」(商品)、「サービス」(情報)、「ヒト」(労働力)
などの自由なな移動をめざして、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を結成しました。


その後、ヨーロッパ経済共同体は、経済だけでなく、政治の面でも協力をめざして、1967年にヨーロッパ共同体(EC)に発展しました。
1970年代から、イギリスやデンマーク、スペイン、ポルトガルなども加盟してヨーロッパの統合は、さらに進みました。

1992年、ヨーロッパ共同体に参加している国々の代表者によってマーストリヒト条約が結ばれて、ヨーロッパ連合(EU)が生まれました。
ヨーロッパ連合議会が生まれ、いままで国別に発行されていた通貨を廃止して、ヨーロッパ共通の通貨として、「ユーロ」を使うことにしました。

ヨーロッパ連合は、「ヨーロッパ合衆国」といってもいいでしょう。
「ユーロ」は、2002年に発行され、およそ3億6000万の人々が使うようになりました。


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ソ連の崩壊

「情報公開」と「言論の自由」これがペレストロイカの二大政策である。

それまで秘密のベールに包まれていたソ連共産党中央委員会にテレビカメラを入れ、
会議の模様を全国中継するなど、グラスノスチ(情報公開)を推進した。

また人々は、検閲や弾圧を怖れずに、政治的な問題について公然と語り、自身の意見を
述べることができるようになった。これがシナトラ・ドクトリン(言論の自由)である。


グラスノスチ(情報公開)は、国家の行動における公開性であり、自らの決定を説明し
国民の意見を尊重することを、ソ連指導部に対して求める要求でもあった。

シナトラ・ドクトリン(言論の自由)では、ソ連指導部は、東欧諸国の自主性を重んじ、
各国は自らが信じる道を行けばよく、いちいちモスクワにお伺いを立てる必要がないとされた。

ソ連指導部が軍事介入をしないと声明した途端、東欧諸国の民族自立意識が急激に高まり、
ソ連邦からの独立運動や民族運動が、雪崩を打って起ったのである。


対外的には、アフガニスタンからの完全撤退、アメリカとの協調外交により冷戦を終結させた。
この偉業が高く評価され、1990年、ゴルバチョフ大統領は、ノーベル平和賞を受賞する。

また当然のことながら、ゴルバチョフ大統領に対する、ソ連指導部からの大反発が起こった。
彼らは、国民の自由な選択を認めず、既得特権にしがみついている保守派の人間たちであった。

そして彼ら保守派のクーデターにより、ゴルバチョフは捕らえられ、軟禁されてしまう。



だがゴルバチョフは、ペレストロイカが、ソ連邦の体制崩壊につながることを知っていた。
彼は、意識的にそこへ向かわせたのである。

1991年12月25日、74年に及ぶ共産党一党独裁下におけるソビエト連邦は崩壊、消滅した。

ペレストロイカによって、国を崩壊させてしまったゴルバチョフ。
ソ連の存続を望んだ者にしてみれば、彼は指導者として失格かもしれない。

だが「情報公開」と「言論の自由」によって、共産主義政権は倒れてしまうこと。
彼の最大の功績は、これをペレストロイカで証明したことである。