第ニ次世界大戦        歴史年表          ヨーロッパ史       人名事典)(用語事典)
直線上に配置                                

第二次世界大戦の勃発

ナチス・ドイツをひきいるヒトラーは、共産主義に反対し、ソ連を敵と考えていました。

一方、第一次世界大戦後にポーランドにゆずられた領土をとりかえすため、ポーランドへの侵攻を計画しました。
しかし、ポーランドを助けるイギリスとフランス、そしてソ連とも同時に戦争すると、東西からはさまれてしまいます。

そこで、ヒトラーは、まずソ連に近づき、1939年8月23日「独ソ不可侵条約」を結ぶことに成功しました。
この条約で、ファシズムのナチスと共産主義のソ連とが手を結んだことで、全世界の人々はびっくりしました。

この条約が結ばれた一週間後の1939年9月1日に、ドイツ軍はポーランドに侵攻、このとき、ソ連軍もポーランドに侵入しました。
こうして、ポーランドを助ける約束をしていた、イギリスとフランスはドイツに宣戦し、
第二次世界大戦(World War II 1939年9月1日〜1945年9月2日)が始まりました。




ドイツ軍の猛進撃

1940年に入るとドイツは、デンマーク、ノルウェー、さらにオランダ、べルギーをやぶり、北フランスに侵入しました。
追いつめられたイギリス軍とフランス軍は、ドーバー海峡(Strait of Dover)に面したダンケルク(Dunkirk)からイギリスにわたりました。

このため、1940年6月14日、パリはドイツ軍に占領され、フランスは降伏しました。

つぎに、ドイツの目標はイギリスに向けられ、1940年9月7日、ドイツ軍機約1000機によるロンドン大空襲がおこなわれました。
しかし、イギリスはチャーチル首相(Winston Churchill)のもとでよくたえぬき、ドイツ軍の上陸作戦をはばみました。




ドイツ軍のソ連侵攻

ヒトラーは、共産主義勢力をたおし、石油や穀物など資源のゆたかなソ連の領土を獲得することを考えました。
1941年6月22日、ヒトラーは「独ソ不可侵条約」をやぶって、300万人の兵士、航空機2740機、戦車3580台という戦力でソ連に侵入しました。

ドイツ軍はたちまち首都モスクワにせまりました。




ヒトラーは、ソ連を3か月でたおせると予想していました。
しかし、きびしい冬の寒さとソ連軍のねばり強い抵抗で、ドイツ軍の進撃はくいとめられました。


大西洋憲章

アメリカ合衆国は、今回の戦争にも最初は中立の立場を表明していました。
そして、第二次世界大戦が始まったころも、すぐには参戦しませんでした。

しかし、1940年6月、フランスのパリがドイツ軍に占領されると、ルーズベルト大統領(Franklin Roosevelt)は、
イギリス、フランスなど連合国に武器などをかしあたえ、ファシズムに対決する姿勢をしめしました。

こうして、アメリカ・イギリス・ソ連は、この戦争を「ファシズム対民主主義の戦争」と考え、
団結を強めていきました。



1941年6月、ドイツ軍がソ連に進攻すると、イギリスはソ連を助ける同盟を結びました。
またイギリス首相チャーチルは、1941年8月9日、大西洋上でアメリカ大統領ルーズベルトと会談し、「大西洋憲章」(Atlantic Charter)を発表して、戦争の目的などを明らかにしました。

大西洋憲章では、国際連盟にかわって、新しい国際機関の国際連合をつくることが主張されました。

1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して、太平洋戦争が始まると、日本と「日独伊三国同盟」を結んでいたドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告しました。

こうしてアメリカは連合国側で参戦することになりました。




スターリングラード攻防戦

1942年11月19日、ソ連軍はスターリングラード(Stalingrad)で30万のドイツ軍をやぶり、反撃に転じました。

(スターリングラードは、ソ連の南部に位置しており、油田地帯にも近いという事から、ドイツ軍は何としても攻略しようとしていました。
スターリングラードを占領できれば、ソ連の油田を押さえ、戦局を有利に展開できると考えたのです。

1942年8月22日、ドイツ軍はスターリングラードに総攻撃を開始してこれを包囲し、9月には市内に突入し、激しい市街戦を行います。
しかし、11月になると猛吹雪のなか、ソ連軍が大反撃を開始し、戦いは長期戦となりました。

例年よりも早く冬が到来し、雪の中ドイツ軍は、孤立することとなります。
ドイツ軍は冬までに作戦を終了させる予定だったため、厳冬に対応した衣類や防寒装備を用意していませんでした。





気温がマイナス20℃以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両や火器は、寒冷のため使用不能になってしまいます。

医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続出しました。
特に軍靴は長距離進軍に耐えるため、底に鋲が打ってあり、釘が冷気を伝えるので凍傷の原因となったのです。

いっぽう、ソ連軍は靴底に鋲を打たないブーツを使い、兵士には一回り大きいサイズのブーツを支給し、
隙間に新聞紙やワラを敷き詰めるなど、防寒装備は充実していました。



ドイツ軍司令官は、スターリングラードから撤退して、戦線を立て直そうとしました。
しかし、ヒトラーはスターリングラードの死守を命じます。

1943年2月22日、ソ連軍の猛攻によって、食料も弾薬も底をついていたドイツ軍は、ついに降伏。
30万のドイツ兵は、20万が死傷し、10万が捕虜となりました。

ソ連の収容所に連行されたドイツ兵捕虜は、15年間抑留され、祖国に帰ったのはわずか6000名と言われています。
このスターリングラードの攻防戦は、第二次世界大戦の転機となり、以後ドイツ軍の敗退が始まります)


イタリアの降伏

いっぽう、アメリカ軍を中心とする連合国軍が北アフリカ、ついでイタリアに上陸して、1943年9月8日、イタリアは降伏しました。

この間、フランスをはじめ東ヨーロッパでは、占領するドイツ軍に対して市民がいろいろな方法で抵抗し、ドイツ軍を混乱させました。
これを「レジスタンス運動」(Resistance Movement)といいます。




ドイツの敗北と大戦の終結

1943年11月28日、アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンがイランのテヘランで会談し、ドイツに対して共同作戦をとることにしました。

この作戦のもとで、1944年6月6日、アメリカ軍など連合軍の32万人の兵士は、4700隻あまりの艦船で北フランスのノルマンディーに上陸し、ついにパリをとりもどしました。

1945年2月4日、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが、ソ連のクリミア半島にあるヤルタで会談を開きました。



このヤルタ会談では、戦後のドイツをアメリカなど4か国が占領すること、ドイツが降伏したあと、ソ連は日本に宣戦すること、
当時、日本の領土であった樺太(サハリン)の南部と千島列島をソ連領にすることなどが約束されました。

いっぽう、ソ連軍も、進撃をつづけました。
東西から攻撃されたドイツは、1945年5月7日、連合国に無条件降伏しました。この直前の1945年4月30日、ヒトラーは自殺しました。

また、アジアでも、1945年8月15日、日本がポツダム宣言(Potsdam Declaration)を受け入れて無条件降伏し、9月2日、戦艦ミズーリにて降伏文書に調印。
こうして人類史上、最大の犠牲をはらった第二次世界大戦は終わりました。



直線上に配置


       
             



恥じるところはない

チャーチル首相は、アメリカを訪問して、ホワイトハウスに滞在した。

ある日、ルーズベルト大統領は、会談のため、彼の部屋をノックして、ドアを開けた。

するとふろから出たばかりのチャーチルが、まっ裸でいた。


大統領はあわてて部屋を出ようとした。 

するとチャーチル 「イギリス首相は、大統領にかくしだてするものは何ひとつありませんよ」