ベルサイユ体制 (Versailles Settlement)       歴史年表          ヨーロッパ史
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ベルサイユ条約

1918年、第一次世界大戦が終わり、翌年1月からパリで講和会議が開かれました。

この会議には、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本などを中心とする連合国32か国が参加しました。
しかし、ドイツなど敗戦国やソビエト政府の参加は認められませんでした。

パリ講和会議は、アメリカ大統領ウィルソンの「14か条平和原則」の精神は無視され、イギリスとフランスのドイツに対する復讐ばかりがめだちました。

1919年6月28日、ベルサイユ宮殿の「鏡の間」で、ドイツとの講和条約(ベルサイユ条約)が調印されました。


この条約でドイツは、フランスにアルザス・ロレーヌ地方を返還し、チェコスロバキア・ポーランドの独立をみとめて領土の一部をあたえること、海外の植民地はすべて手ばなすことが決められました。

また、ドイツの軍備は、陸・海軍とも制限され、ライン川左岸の地域には、軍隊をおかないことなどが定められました。

そして連合国に、賠償金を支払うことも決められました。
ベルサイユ条約は、敗戦国ドイツに、一方的に責任をおわせるものでした。

ウィルソン大統領は、「14か条平和原則」で、民族の自決をとなえました。
大戦後、この原則により、東ヨーロッパでは、チェコスロバキアやポーランド、フィンランドなどの国々があいついで独立しました。

こうして第一次世界大戦が終了して出来上がった国際秩序は、その中心となったドイツとのベルサイユ条約からベルサイユ体制といいます。

しかし、この民族自決の考え方は、アジアやアフリカの植民地にはあてはめられませんでした。
そのため、インドや中国では、民族運動がはげしくなりました。


国際連盟

いっぽう、ウィルソン大統領の提案した国際的な紛争を戦争によってではなく、平和的に解決するための国際連盟(League of Nations)が、1920年、スイスのジュネーブを本部に成立しました。

しかし、アメリカは議会が反対したため参加できず、ドイツやソ連もはじめは加入がみとめられませんでした。

ウィルソン大統領の「14か条平和原則」のおもな内容は、秘密外交をやめる、海洋の自由、軍備の縮小、民族の自決、国際連盟の設立などでした。
しかし、国際連盟の最大の問題点は、アメリカ・ドイツ・ソビエト政府の大国が不参加または排除されたことにありました。

さらに、武力制裁がなく、経済制裁のみであったこと、総会の議決が全会一致で意思統一が困難であったことなどの問題を抱えていたため、国際連盟は、のちに発生する第二次世界大戦を防止することができなかったのです。 


また敗戦国のドイツとオーストリアに対する制裁は、かなり厳しいものがありました。
ドイツは海外植民地を喪失し、アルザス・ロレーヌをフランスに割譲、軍備制限により軍が弱体化し、1320億マルクに及ぶ賠償金の支払いが課せられました。

ドイツに課された賠償金1320億マルクのうち、フランスの取り分は52%と最大でした。
しかし、ドイツは支払延期を要求しました。

1923年、しびれを切らしたフランスは、ベルギーとともに、ドイツ最大の工業都市ルールを占領しました。
ドイツは、サボタージュと不服従で対抗しましたが、経済への打撃も大きく、インフレが一気に加速しました。





サン・ジェルマン条約

オーストリアとは、サン・ジェルマン条約が締結されました。

条約により、多民族国家であったオーストリアは解体され、ハンガリー、ユーゴスラビアが独立し、オーストリアの国土は4分の1に縮小し、ドイツとの合併も禁じられました。
また、オーストリア皇帝は正式に退位し共和政となりました。

また、600年余の命脈を保ったオスマン帝国は、1922年11月、スルタン制の廃止により滅亡、1923年7月のローザンヌ条約に基づき、新たに「トルコ共和国」として建国を宣言しました。

ベルサイユ条約の最大の問題点は、ドイツへの対応が報復的で、あまりに過酷だったことです。
この処置が、ドイツ人に大きな屈辱感を伴わせ、のちにベルサイユ体制打破をとなえるナチスの台頭をまねくことになります)


       
           





賠償金の返済

ドイツ軍に蹂躙された隣国フランスでは、ドイツに対して、1320億マルクという法外な賠償金を要求した。
これは当時のドイツのGDPの20年分に相当する金額である。(約330億米ドル)

しかしその金額はドイツの支払能力をはるかに上回っていたため、支払いが滞ることになった。
するとフランスはベルギーと共同出兵し、ドイツ最大のルール工業地帯を丸ごと差し押さえた。

鉱工業製品を現物賠償として取り立てるためである。
ドイツ政府は労働者にストライキを呼びかけ、工場も鉱山も無期限で操業を停止した。

その一方で、賃金支払いのため、紙幣の発行を続けたため、カネ余りモノ不足の大インフレーションが始まってしまう。

コーヒー1杯飲むのに、トランク一杯分の紙幣が必要だったとか、酒場の客は、値段が上がらないまだ早い時間のうちに、
数杯のビールを一度に注文したとか、笑い話のような話しが伝わっている。

資金難で困惑していたドイツ政府に、資金援助を申し出たのはアメリカのモルガン銀行だった。
欧州はアメリカにとって大切な顧客であり、欧州が再生しなくては、アメリカの農産物や鉄鋼などが輸出できないからだ。

アメリカの援助により、ドイツ政府はようやく賠償金返済を再開することができた。
だが1933年、べルサイユ体制打破を掲げるナチス・ドイツが政権に就くと、賠償金返済は、いったん踏み倒される。

第二次大戦とその後の混乱期を経て、東西に分割されていたドイツが再統合されると、再び賠償金の支払いが再開した。
そして2010年、第一次世界大戦から、実に90年間の歳月を経て、ついにドイツは、賠償金の完全返済を達成したのである。