第一次世界大戦(3)         歴史年表          ヨーロッパ史
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大きくなった戦争の被害

東部戦線では、1914年の開戦そうそうドイツがタンネンベルクの戦い(Battle of Tannenberg 1914年8月)でロシアに大勝しましたが、あとがつづかずに戦線は一進一退になります。

いっぽうの西部戦線では、パリ進撃をめざすドイツ軍をマルヌ河畔の戦い(Battle of the Marne 1914年9月)で、フランス軍が必死にくいとめました。
それ以後、両軍は塹壕(ざんごう)をほり、ここでも戦線は行きづまります。

(塹壕は、地面に穴をほってつくった通路のような溝で、敵地への攻撃基地となりました。
塹壕戦では、地面から頭だけ出して、機関銃で敵兵をねらいうつという戦い方が一般的でした。

安全な場所にかくれながら戦うことができたからです。
しかし、「敵とのにらみあい」という傾向が強く、戦争期間も長引いていったのです)

こうして、戦争は長期化し、一般の市民も武器・弾薬をつくるために軍需工場で働く「総力戦」となりました。

1916年になると、ドイツは食料などが不足しはじめ、苦しい立場に立たされました。

そこでドイツは大攻勢に出て、1916年2月、フランスのヴェルダン要塞(Verdun Fortress)を攻撃しました。
この戦いでヴェルダンの町はこわされ、ドイツ軍は34万人、連合国軍は36万人の死傷者を出しました。

いっぽう、イギリス・フランス軍はソンムの戦い(Battle of the Somme 1916年7月)で反撃に出ました。
たがいに毒ガスを使用し、飛行機や戦車など新兵器が登場して、連合国軍は90万人、ドイツ軍は60万人もの死傷者を出しました。


やっと終わった大戦

アメリカ合衆国は、戦争の始まったころは中立を守り、武器や食料などを輸出して大きな利益を得ていました。
しかし、1917年1月、ドイツが敵、味方に関係なく、すべての船を攻撃する「無制限潜水艦作戦」を発表したことに反発して、同年4月、連合国側に参加しました。

いっぽう、ロシアでは戦争の長期化と食料不足から、1917年3月、革命が起こりました。
新しく生まれたレーニン(Lenin)の政府は、1918年3月、ドイツと講和条約を結んで、第一次世界大戦からはなれてしまいました。

こうしたなかで、1918年10月、同盟国のオスマン帝国やオーストリア・ハンガリー、ブルガリアが降伏し、1918年11月3日、ドイツでも革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世は国外にのがれました。

1918年11月11日、ドイツは、パリ郊外のコンビェーニュの森(Forest of Compiegne)で連合国側と休戦条約を結び、第一次世界大戦は終わりました。


多くの犠牲者が生まれる

4年半におよんだ第一次世界大戦は、各国にたくさんの犠牲者を出しました。
ドイツやフランスでは国民の5分の1が兵士として動員されました。

また、都市の爆撃などによって、900万の人が亡くなったといわれます。
植民地のインドからは約120万人、アフリカからは1000万人以上の人が動員されました。

総兵力は、連合国側は4100万人、同盟国側は2300万人で、戦死者は、あわせて850万人にもおよびました。



イギリスの秘密外交

第一次世界大戦では、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国からなる同盟国と、イギリス、フランス、ロシアからなる連合国の総力戦となりました。

総力戦は、外交努力にも現れ、さまざまな秘密外交となって現れました。

オスマン帝国を中東から追い出そうとはかったイギリスは、1915年、中東の独立をねがうアラブ民族に対し、「独立をみとめ応援する」約束をしました。(フセイン・マクマホン協定 1915年10月)

1916年、アラブの人々は、その言葉を信じて、オスマン帝国に反乱を起こします。

(オスマン帝国がドイツ側に立って参戦したことは、ただちにスエズ運河の通行の安全にとって脅威となりました。

スエズ運河を使えないとなると、イギリスの3C政策における拠点、カルカッタとの連絡に大きな支障が生じます。
そこでイギリスは、ただちにオスマン帝国支配下のアラブ人に対し、対オスマンの戦いに立ちあがるよう要請したのです)


しかし、領土がほしいイギリスは翌年、アラブ人にはないしょで、フランス・ロシアとの協定を結びました。
三国で中東を分割し、支配する約束をしたのです。(サイクス・ピコ協定 1916年5月)

その後、さらにイギリスは、中東の一部であるパレスチナを、神からさずかった地と考えるイスラエル人にも、その地域に国家をつくることを支援する約束をしてしまいます。
この約束は、イスラエル人を味方につけるためでした。(バルフォア宣言 1917年11月)


ところが戦後におこなわれた取決めでは、中東はイギリスとフランスが委任統治の名のもとに、分割支配することになりました。
ロシアは革命で政府が交替し、この分割には参加しませんでした。

イギリスを信じたアラブ人とイスラエル人は、この取決めを「イギリスのうらぎり」だと言って非難しました。

その後、中東地域では、土地の所有をめぐって、アラブ人とイスラエル人がはげしい争いをつづけ、現在にいたっていますが、その争いのもとは、このときに生まれたのです。   

       
             




パレスチナ問題


パレスチナにおけるイスラエルとアラブ諸国の、領土や聖地エルサレムの帰属をめぐる紛争は、1948年のイスラエル建国以来、長年つづく深刻な国際問題となっている。

この中東紛争の発端には、イギリスの二股外交が大きく関わっている。

第一次大戦時、ユダヤの政商ロスチャイルドは、オスマン帝国と戦うイギリスに資金援助を行い、見返りとしてユダヤ人国家の成立の支援を求めた。

イギリスは、当時のオスマン帝国領パレスチナに、ユダヤ人国家をつくるというお墨付きを与え、これによってイスラエル建国が可能となったのである。(バルフォア宣言 1917年11月)




だが同時に、イギリスは、アラブ人に対しても、オスマン帝国内で反乱を起こす見返りに、同地にアラブ人国家を樹立するとの約束を取り交わしていた。(フセイン・マクマホン協定 1915年10月)

実際の中東の戦いでは、イギリスとの約束を信じたアラブ兵がオスマン軍に大打撃を与えてダマスカス入場を果たす。
そのときアラブ兵とともに戦ったのが、イギリス将校「アラビアのロレンス」である。

戦後、イギリスはアラブ人たちの要求を拒否し、事態は紛糾するが、結局、自治を認めていく。


一方、パレスチナでは、ユダヤ人の流入が増え、パレスチナ人(アラブ系の先住民)との対立が激しくなった。
イギリスは、ユダヤ人とパレスチナ人の間の調停を図ろうとするが、事態を収拾できず、イギリスはついに調停を投げ出してしまう。

その後、1993年になってユダヤ人とパレスチナ人との間の和平合意がなされ、ヨルダン川西岸・ガザ地区でのパレスチナ人による暫定自治政府が成立した。

しかし、現実にはその後も、和平反対勢力のテロの応酬や要人殺害などが繰り返し起こっており、中東の恒久和平への糸口はまったく見えない状況となっている。



バルフォア宣言原文(抜粋)

Dear Lord Rothschild,   His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object,

it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine,or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country.  Arthur James Balfour


親愛なるロスチャイルド卿

イギリス政府は、パレスチナにおけるユダヤ人の祖国建設を好意的に捉えており、その目的の達成のために最大限の努力を払うつもりです。

ただし、これは、パレスチナに住む非ユダヤ系の人々の公民権と宗教的権利を侵害するものではありません。
また、パレスチナ以外の国に居住するユダヤ人が享受している諸権利及び政治的地位を、害するものではありません。

アーサー・ジェームス・バルフォア