ドイツ帝国(German Empire)    歴史年表         ヨーロッパ史
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ドイツの統一をめざして

1848年2月、フランスで起こった二月革命のニュースは、ヨーロッパ中に伝えられました。

1848年3月、オーストリアでは、自由と憲法を求めてウィーン暴動(三月革命)が起こり、首相のメッテルニヒ(Metternich)はイギリスへ亡命、共和政臨時政府が成立し、王政を基調とするウィーン体制は終わりを告げました。

一方、ドイツは19世紀に入るまで、40近い国々に分かれ、分裂状態にありました。
この時代、力をつけていたプロイセン王に即位したのがヴィルヘルム1世(William I)です。

彼は、軍事力の増強によって他国を圧倒し、ドイツの統一を目指していました。
そんな中、首相として起用されたのがビスマルク(Bismarck)です。



鉄血宰相ビスマルク


首相になったビスマルクは議会で、「ドイツの統一は、言論によってではなく、鉄と血によって解決される」と述べ、鉄は武器、血は戦争、つまり軍事力によるドイツ統一をうったえました。

彼は以後「鉄血宰相」と呼ばれるようになります。
鉄血政策によって、プロイセンは工業化が急速に進展し、軍需産業を中心とした富国強兵が行われるようになります。

ドイツ軍需産業の代表がクルップ社(Krupp)という企業でした。
クルップは各国に武器を販売し、死の商人の代名詞ともなりました。

強力になったプロイセン軍は、各地で戦いました。
まずデンマーク戦争(Danish War)が起こります。


デンマーク戦争


1863年、デンマークが、支配下にあったシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州(Schleswig-Holstein)の領有を正式に宣言すると、ドイツ系住民の多かったシュレスヴィヒ地域の人々の要請に応じ、1864年、プロイセンはオーストリアと共にデンマークと開戦しました。

デンマークとの戦いに勝利し、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州を獲得すると、プロイセンは急速に拡大します。
シュレスヴィヒ・ホルシュタインというのは、ユトランド半島(Jutland Peninsula)の南に位置していた小さな王国です。

このうちホルシュタイン州はもともと神聖ローマ帝国の領土で、ドイツ系住民が多い地域でした。
15世紀以降にデンマークの領土化に組み込まれ、それ以後プロイセンとの間で領有権をめぐって争われていました。

1866年には、その両州の管理権をめぐってオーストリアと開戦し、普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争)が始まりました。
プロイセンの軍事力は強力で、たった7週間でオーストリアの敗戦が決まりました。

1867年には、ドイツ連邦が解体され、プロイセン国王を盟主とする北ドイツ連邦が成立します。
ドイツ連邦とは、1815年のウィーン議定書に基づき、オーストリア帝国を盟主として発足したドイツの35の領邦と4つの自由都市との連合体でした。

一方、普墺戦争に負けたオーストリアは、領内の独立の気運が高まったため、ハンガリーの議会に行政府の権限を与え、オーストリア・ハンガリー帝国を成立させました。



ドイツが統一される


北ドイツ連邦が成立し、のこる課題は、南ドイツの国々を統一することでした。
そこでビスマルクは、統一をさまたげているフランスのナポレオン3世を、いろいろな手を使ってそそのかし、1870年、普仏戦争(ドイツ・フランス戦争)を起こしました。

この戦争で南ドイツの国々も参加したドイツ連合軍は勝利します。ナポレオン3世は捕虜にされ、フランスの帝政は崩壊しました。
後をうけたフランス共和政府は、翌年降伏し、アルザス・ロレーヌ地方を失いました。、

プロイセン占領下のベルサイユ宮殿で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ帝国皇帝となる儀式をあげ、ここにドイツの統一は完成し、ドイツ帝国が成立しました。

ドイツ帝国の宰相となったビスマルクは、産業の発展につくし、また失業や病気などに対する社会保険制度をととのえる一方、社会主義者鎮圧法を制定して社会主義運動をおさえこみました。
これを「アメとムチ」の政策といいます。

外交では、フランスの復讐をおそれ、たくみな外交によってフランスを孤立させ、ヨーロッパの安定と平和をたもちながら、国力の充実につとめました。






リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813〜1883年)

ドイツの作曲家、音楽理論家。

ワーグナーは、従来の歌劇(オペラ)に文学、演劇、絵画などの要素を総合芸術の域に高め「楽劇」という形式に発展させたドイツロマン派を代表する作曲家です。

彼は、北欧やゲルマンの神話をもとにした「ニーベルンゲンの指輪」(Der Ring des Nibelungen)を、1876年に初演して、ドイツ人の心を揺さぶり、ドイツ・ナショナリズムの高揚に貢献しました。

のち、ワーグナーの音楽を愛好するヒトラーは、ワーグナーが自分の音楽を演奏するために建てたバイロイト祝祭劇場(Bayreuth Festspielhaus)を保護しています。

「ヴァルキュリーの騎行」(Ride of the Valkyries)は、楽劇 「ニーベルンゲンの指輪」の第一夜 楽劇「ヴァルキュリー」の第三幕の前奏曲です。

「ヴァルキュリー」とは、北欧神話に登場する複数の半神を指し「戦死者を選ぶ者」という意味をもっています。
結婚式で用いられる「婚礼の合唱」と並び、ワーグナー作曲の中でも最もポピュラーな作品として知られています。


                  ワーグナー 楽劇「ヴァルキュリー」より、第三幕 前奏曲「ヴァルキュリーの騎行」





ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauss,Jr.)(1825〜1899年)

オーストリアの作曲家、指揮者、バイオリン奏者。

ヨハン・シュトラウス2世は、生涯に約170曲ものワルツを作り、「ワルツの王」と呼ばれています。
その洗練された管弦楽法はブラームスからも称賛され、広く音楽界の尊敬を集めています。

「美しく青きドナウ」は、普墺戦争でプロイセン軍に完敗したオーストリア国民を励ますべく、1867年に作られました。
当初は男声合唱団付きのワルツでしたが、後にオーケストラ曲に編曲されました。

この曲は、毎年1月1日に行われる、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートのアンコールの定番曲でもあります。
この曲の序奏部を少し奏した後、拍手によって一旦打ち切り、指揮者や団員の新年の挨拶が続くという習慣となっています。

まるで雪解けのドナウ河の源流のような冒頭の後、ゆったりとしたワルツの旋律が続きます。
ウィーンっ子ならずとも、美しいドナウ河に思いを馳せたくなる曲です。


                                   
                                   ウィーンフィル&国立バレエ団 2012  「美しく青きドナウ」

                                 




   
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