フランス第二帝政 (Second French Empire)       歴史年表         ヨーロッパ史      人名事典)(用語事典)
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第二帝政

1848年2月、フランスでは二月革命(Revolutions of 1848)が成功し、第二共和政(French Second Republic)が成立しました。

革命が起こるまでイギリスにいたナポレオンのおいルイ・ナポレオン(Louis Napoleon)が、この年の末におこなわれた大統領選挙に立候補し、
総投票数の75%を獲得して大統領になりました。

その後、ルイ・ナポレオンは、国民のあいだにのこっていたナポレオンの人気をたくみに利用して、
1852年12月には、ナポレオン3世(Napoleon III 在位1852〜1870年)として皇帝になりました。これを「第二帝政」といいます。



ナポレオン3世は、フランスの人たちの人気をとるためにパリをつくりかえ、1855年にはパリ万国博覧会を開きました。
また、フランスの栄光をとりもどすため、ナポレオンをまねて、いくつもの戦争を起こしました。

クリミア戦争(Crimean War 1853〜1856年)ではロシアをやぶり、また、ベトナム南部に進出しました。
そして、アメリカで南北戦争が起こったすきに、メキシコに出兵しましたが、これは大失敗に終わりました。


メキシコ遠征の失敗でフランスの国力が衰えると、あせったナポレオン3世は、スペイン王位継承問題をめぐってプロイセンとの戦争に突入します。
(普仏戦争 Franco-Prussian War 1870年7月〜1871年5月)

しかし、ベルギーとの国境に近いセダンの戦い(Battle of Sedan 1870年9月)で、ドイツ軍にとらえられ、皇帝の位をしりぞきました。





普仏戦争


普仏戦争のいきさつは、次のようなことでありました。

1868年、スペインでクーデターが起こり、スペイン・ブルボン家のイサベル2世(Isabel II)がフランスへ亡命。
空いてしまったスペイン王位をめぐり、スペイン王位継承問題が発生しました。

一時はプロイセン家のレオポルト公(Leopold)がスペイン王に即位すると決まったのですが、その話を聞いたナポレオン3世が猛反対します。
レオポルト公がスペイン王になると、フランスはプロイセン王による国に挟まれてしまうからでした。



プロイセン王ヴィルヘルム1世(William I)は、ナポレオン3世の抗議を受け入れて、レオポルトに即位の取りやめを勧告します。

これによって事件は終わったかに見えましたが、 ナポレオン3世は、プロイセン王のもとに、さらに大使を送り、
将来にわたってプロイセン家からスペイン王を出さないよう保障を迫りました。

温泉地で療養中であったプロイセン王は、とりあえず検討するからと言って、大使を返させます。



しかし、このいきさつを聞いたプロイセン宰相ビスマルク(Bismarck)は、すぐさまナポレオン3世あてに電報を打ちました。
「フランス大使はプロイセンを脅迫しようとし、王はこれに激怒して追い返した」という内容です。

ビスマルクは、ナポレオン3世を怒らせ、戦争にまきこむために、わざとウソの電報を送ってよこしたのです。
ナポレオン3世は、その電報の内容をまんまと信じ、プロイセンに対し宣戦布告したのです。


ナポレオン3世が、皇帝をしりぞいたのち、フランスで生まれた臨時政府(国防政府)は、1871年2月、プロイセンに降伏しました。



しかし、愛国心にもえるパリの民衆は、武器を持って立ち上がり、1871年3月には自治政府(コミューン)をつくって、あくまでも戦う決意をしめしました。
これが、「パリ・コミューン」(Paris Commune)とよばれる、世界ではじめての労働者を中心とする政府でした。

このコミューンに対して臨時政府は、ドイツ軍と手を結び、攻撃をくわえました。
はげしい戦いの末、コミューンは1871年5月、2か月あまりでくずれさり、その後、第三共和政(French Third Republic)が成立しました。





ナポレオン3世のパリ大改造


パリを訪れると、その美しい街並に目を奪われます。

凱旋門を中心に放射状に伸びるシャンゼリゼを中心とした大通り、整った建物、街を彩る街路樹。

ナポレオン3世は、当時のセーヌ県知事「オスマン」(Haussmann)に命じて、
中世都市のままだったパリの再開発を行いました。


景観の美しさを整えただけではありません。
不衛生だった上下水道を整備し、道路や橋を整備し、犯罪の温床になっていたスラム街を一掃しました。

これによってパリは清潔な街になり、通りにはガス灯が並び、夜も安心して歩けるようになりました。

パリを近代都市として生まれ変わらせた、この一連の計画を「パリ大改造」と言います。






自由の女神とエッフェル塔

アメリカのニューヨーク港の入り口に立つ「自由の女神」は、右手を高くかかげて自由のたいまつを、
左手には独立宣言が発表された「1776年7月4日」ときざまれた石板を持っています。

女神は、1886年にフランス国民からアメリカ国民にプレゼントされたものです。
女神像の台座は、フランスのエッフェル(Eiffel)が設計しました。

それから3年後の1889年、フランス革命100年を記念して、第四回パリ万国博覧会が開かれました。
そのシンボルとして、エッフェルによってエッフェル塔が建てられました。

しかし、当時のフランスの知識人や芸術家は、「鉄のレース編み」みたいな巨大な塔を「パリの名誉をけがす」といって非難していました。


   
          




アキレス腱

鉄血宰相とよばれたビスマルクは、案外縁起かつぎだった。

宴会でたまたま13人が同じテーブルについたりすると、ひとりに出ていくことを命じた。

またある時、将校たちが、普仏戦争のある戦闘の敗因を論じていた。

するとビスマルク「あれはちょうど金曜日だったからだ」