七月革命  (July Revolution)      歴史年表           ヨーロッパ史       人名事典)(用語事典)
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七月革命

ナポレオンの退位後、フランスでは亡命していたルイ16世の弟ルイ18世(Louis XVIII)が即位し、ブルボン朝が復活しました。
これを復古王政(1814〜1830年)といいます。

ルイ18世は、即位後間もなく新憲法を発布して立憲君主制を敷き、革命中に土地を没収された亡命貴族に多額の賠償金を支払う一方、
労働者や農民などの下層階級に対しても穏和な政策を取ることで国内の安定に努めました。



しかし、1824年、ルイ18世にかわってシャルル10世(Charles X)が国王になると、市民の選挙権の大幅な制限、言論の弾圧、
また亡命貴族や聖職者を保護し、多額の保証金を支払うなど反動政治が押し進められます。

フランスの人々のあいだには、すでに自由や平等の思想が根づいていて、議会ではブルジョワジー(Bourgeoisie 有産市民)
を中心とする反政府派が勢力を増していました。


1830年7月、国民の不満をそらすためにアルジェリア出兵を行った王は、反政府派が多数を占める議会を強引に解散します。
だが、これは火に油を注ぐ結果になり、27日、民衆はついに決起して、パリの街頭にバリケードを築き始めます。

そして(栄光の3日間)といわれる戦闘のすえ、シャルル10世を退位させます。
これを(七月革命)といいます。

七月革命の結果、議会は自由主義者であるオルレアン公ルイ・フィリップ(Louis Philippe II)を新国王にむかえ、7月王政(1830〜1848年)がはじまります。




民衆を導く自由の女神(ルーブル美術館)

自由の女神は、革命期のフランスにおける自由を象徴する女性像として、ロマン派の画家ドラクロワ (Eugene Delacroix) によって描かれました。







七月革命の影響

七月革命の成功を受けて、各地でさまざまな運動がおこります。

(イギリス)イギリスの選挙は、長年地主階級が有権者でしたが、有権者に比べ議員定数が多い腐敗選挙区が増えていました。

こうした選挙制度の欠陥により市民の不満が高まったため、1832年、選挙法改正により、
腐敗選挙区の廃止とともに自営業者にも参政権が与えられました。

(ベルギー)オランダでは、1830年8月、支配下にあった南ネーデルラント(ベルギー)で暴動が発生し、
翌1831年、ベルギーの独立が達成されます。ベルギーはその後第一次世界大戦まで永世中立国になりました。

(ポーランド)ポーランドでは、1830年11月、ロシアの支配からの独立を求め暴動が起きましたが、
ロシア軍によって鎮圧され、失敗します。

(イタリア)イタリアでは、1830年、市民的自由と民族の独立をめざすカルボナリ党(Carbonari)
が武装蜂起を企てましたが、オーストリア軍によって鎮圧されました。

しかし、党員であったマッツィーニ(Mazzini)が1831年、亡命先のマルセイユで青年イタリア党(Young Italy)を結成。
残存勢力の多くがこれに合流し、後のイタリア統一の中心組織となっていきます。


七月革命は、ヨーロッパ各地に様々な影響を与え、ウィーン体制に大きな動揺を与えました。







ショパン (1810〜1849年)

「ピアノの詩人」といわれるショパンの祖国ポーランドは、18世紀の終わりころ、ロシア・オーストリア・プロイセンの3国によって領土を奪われて滅びました。

ポーランドの人々は、祖国をとりもどしたいという、あふれるばかりの熱い願いをもちつづけました。

1830年11月、ポーランドで、ロシアから独立をめざす暴動が起こりました。(11月蜂起)
そのころ、20歳になったばかりのショパンは、ウィーン留学のため、祖国ポーランドを離れ、パリへと 向かっていました。

旅の途中、彼は故郷ワルシャワがロシア軍に陥落されたというニュースを耳にします。
このとき、ショパンが祖国の悲劇を悲しみながら作った曲が(革命エチュード)といわれています。








二月革命

フランスでは、新国王ルイ・フィリップによる7月王政がはじまりました。
しかし、フィリップの政治は主として銀行家その他の大資本家の利益にもとづいて行われ、普通選挙を要求する市民の運動を弾圧しました。

そのため、1848年2月、ついに労働者、農民、学生の怒りが爆発して、デモ、ストライキ、武装蜂起へと発展します。

事態の沈静化に失敗したルイ・フィリップはイギリスへ亡命し、共和政による臨時政府が発足しました。
これを(二月革命)といいいます。

二月革命後、詩人ラマルティーヌを首班とする臨時政府が発足し、フランス第2共和政(1848〜1852年)が成立しました。




二月革命の影響

二月革命は、七月革命以上に各地のナショナリズムや自由主義運動に影響を与えました。
各地では、以下のような運動が展開しました。

(プロイセン)1848年3月、いくつかの中小国に分裂していたドイツでは、ドイツの統一と憲法制定を求める市民革命が起こり、
プロイセンの首都ベルリンで市民と軍隊が衝突しました。(ベルリン三月革命)

しかし、武力によって鎮圧され、革命は失敗に終わりました。



(ボヘミア)プラハを中心に、ボヘミア人やチェック人が、オーストリアからの独立をもとめますが、オーストリア軍によって鎮圧されます。

(オーストリア)1848年3月、ウィーンで市民、学生が暴動を起し、宰相メッテルニヒはその収拾に失敗してイギリスに亡命。(ウィーン三月革命)
これによってウィーン体制は完全に崩壊してしまいました。

(ハンガリー)マジャール人による民族運動が起こり、コシュート(Kossuth)を指導者としてオーストリアからの独立を目指しました。
最終的には、ロシアの援助をうけたオーストリア軍によって鎮圧され、失敗します。

(イタリア)ミラノ・ベネチアを中心に、反オーストリアの民族独立運動がおこります。
また、サルデーニャ王国がオーストリアと戦争を始めますが、翌年1849年に敗北します。(第一次イタリア独立戦争)
さらに、ローマでは、マッツィーニ率いる青年イタリア党がローマ共和国を樹立しますが、保守的なローマ法王の要請でフランス軍が介入し、崩壊しました。


このように、ヨーロッパ各地で起こった運動は、鎮圧されたものも多くありましたが、ウィーン体制の崩壊は決定的となりました。
これらの動きは、1848年の春にたて続けに起こったことから、総称して「諸国民の春(The Spring of Nations)」と呼ばれています。



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                                            フランス王国歴代君主、生没年、在位期間






スメタナ(Smetana)(1824〜1884年)

チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。チェコ国民楽派の祖。

19世紀半ば、ベルギー、ポーランド、ハンガリー、ボヘミアなど、他国の支配下にあった国々では民族自決の機運が高まり
「国民楽派」と呼ばれる作曲家が音楽で後押ししました。

オーストリア支配下のボヘミア(チェコ)に生まれたスメタナは、1848年の「二月革命」に身を投じるも失敗。
その後、一時期は祖国を離れることもありましたが、一貫してボヘミアの民族運動をさまざまな形で支援しました。

彼はボヘミアの民族意識に基づく作品を多く手がけ、そのもっともよく知られた作品が、連作交響詩「我が祖国」です。

「我が祖国」は、ボヘミアの古い歴史や文化、美しい自然を表現した6つの描写的な作品で、
特に第2曲(モルダウ Moldau)はその気高く美しい旋律で広く知られています。

                               



                                                           合唱曲(モルダウ)