イングランド議会の始まり      歴史年表     ヨーロッパ史 
直線上に配置                


ノルマンディー公国


グレートブリテン島には、紀元前9世紀から紀元前5世紀にかけて、ケルト系民族(Celts)が侵入し、鉄器を持って先住民族を支配し、ブリテン島各地にケルト人の部族国家をつくりました。

西ローマ帝国が5世紀に滅亡すると、グレートブリテン島には、ゲルマン人のアングロサクソン諸部族(Anglo-Saxons)が侵入し、ケルト人と戦い、イングランド王国を建国しました。
イングランドとは「アングロ人の土地」という意味で、グレートブリテン島の南西部の広い範囲をさす地名でありました。


このころ、ノルマン人(Normans)は、フランス北西部にノルマンディー公国(Duchy of Normandy 911〜1204)を建て、フランス王にしたがっていました。

(ノルマン人は、北方の人の意味で、スカンディナビア半島周辺にいたゲルマン民族です。
彼らは、航海術にすぐれ、川や海をゆき来して商売をしていました。

しかし、ときには武力を使ってうばい取ることもしたため、ヴァイキング(海賊)を意味するようになりました。

当時のフランスでは、ノルマン人が北部を荒らしまわっていました。
西フランク王シャルル3世(Charles III)は、やっかいなノルマン人を手なづけるために、一策を案じました。

911年、ノルマン人の首長ロロ(Rollo)に対して、主従関係を結ぶことを条件に、セーヌ川の下流のノルマンディーに領土を与えて定住を許したのです。
こうしてノルマンディー公ロロは、フランス内の諸侯となり、形式上、フランス国王の臣下となりました)


ノルマン・コンクェスト

1066年、ノルマンディー公国のウィリアム1世(William I)が、グレートブリテン島に侵攻。
歩兵中心のイングランド軍に対し、ノルマン軍は「ノルマン騎士」とよばれる騎士軍が主力部隊でした。

へイスティングスの戦い(Battle of Hastings)で勝利を収めると、ウィリアム1世は、イングランド国王として即位し、ノルマン朝(House of Normandy)を開きました。(1066年)

これをノルマン・コンクェスト(Norman Conquest ノルマン人の征服)と呼びます。

こうして、イングランドの国王は諸侯をおさえることになり、フランスなどにくらべて強大な権力をもつことになりました。
この結果、フランスの文化がイングランドにもたらされました。

しかし、ウイリアム1世は、ノルマンディーも領地としたため、フランス国土のなかにイングランド領が生まれました。


プランタジネット朝

ノルマン朝は、3代90年あまりつづきましたが、12世紀半ば、フランスの大貴族ヘンリー2世(Henry II)が、イングランドにプランタジネット朝(House of Plantagenet)を開きました。

これによってイングランドはフランスにも大きな領土をもつことになります。

ヘンリー2世の跡をついだイングランド王リチャード1世(Richard I)は、第三回十字軍でエジプトのサラディン(Saladin)と戦って活躍しました。

その後、弟のジョン(King John)がイングランド王に即位しましたが、王は、リチャード王の子を殺して、王位をついだともいわれ、家来に人気がありませんでした。
さらに、ジョン王はフランスと戦って敗れ、フランス国内にあった領地を多く失いました。

ノルマンディー公国も、1204年、フランス王フィリップ2世(Philip II)に奪われ、3世紀の歴史に幕を下ろしました。


マグナ・カルタ

1215年、この失敗ばかりの政治に憤慨したイングランド貴族や都市の大商人たちは、自分たちにみとめられる権利を明らかにした文書を提出し、ジョン王にみとめさせました。
これが「マグナ・カルタ」(Magna Carta 大憲章)です。

(マグナ・カルタでは「国王は、戦争のためにかってに税金をかけないこと」「だれでも正当な裁判をして、処罰されないこと」など、国王でも、法律にしたがうことが決められました)

ジョン王の跡をついだヘンリー3世(Henry III)は、「マグナ・カルタ」の約束をほとんど守りませんでした。
そこで、指導者シモン・ド・モンフォール(Simon de Montfort)を中心に貴族たちは反乱を起こしました。

1265年、シモン・ド・モンフォールは、貴族や教会の聖職者、地方の騎士や都市の市民の代表を集めました。
これが、イングランド議会の始まりです。これは次のエドワード1世(Edward I)のとき、模範議会に発展します。


模範議会(Model Parliament)

1295年、イングランド王エドワード1世が対外遠征費調達の必要から召集した議会。
大貴族のほか、各州および各都市からそれぞれ市民の代表を加えて開ました。後の英国議会構成の模範とされたのでこの名があります。

エドワード1世は、羊毛や酒の生産を奨励し、産業の発展にも尽くしました。
またウェールズを征服し、スコットランドにも出兵して王の主権を認めさせましたが、併合にはいたりませんでした。

息子のエドワード2世(Edward II)がウェールズで生まれたため、イングランド皇太子の称号として「プリンス・オヴ・ウェールズ」と名乗る習慣ができました。
さらに14世紀になると貴族院(上院)と庶民院(下院)からなる二院制議会ができ、議会政治の原則が次第に整えられていきました。




              イングランド王国歴代君主、生没年、在位期間







プリンス・オヴ・ウェールズ(Prince of Wales)

1284年、ウェールズはエドワード1世によってイングランドに併合された。

ゲルマン系のアングロサクソン人にとって、ケルト系のウェールズやスコットランド人は、
フランス人と同じく厳然と外国人だった。

とくにウェールズ人は、エドワード1世に征服され、過酷な統治を受けたため、
イングランドには強い反感を持っていた。

そこで彼らをなだめようと、歴代の英国皇太子を「プリンス・オヴ・ウェールズ」と呼ぶことにした。
王は、身重の妻をわざわざウェールズで出産させて、その子に称号を与え、つじつまを合わせたのだ。

この時「イングランド王は、ウェールズで生まれ、ウェールズ語を習得するであろう」と宣言した。
ウェールズ人たちもこれを歓迎したという。

こうした懐柔策が功を奏して、ウェールズはどうにか平定された。
今も英国皇太子が「プリンス・オヴ・ウェールズ」を名乗るのはこうした故事にちなんでのことである。

(King Edward I presents his son by Hulton Royals Collection)