十字軍 (Crusades)      歴史年表         ヨーロッパ史
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十字軍戦争

イスラエルの都市エルサレムは、3つの宗教の共通の聖地でありました。

ユダヤ教にとっては、ソロモン神殿がある場所であり、キリスト教にとっては、イエスの死と復活の場所であり、イスラム教にとっては、ムハンマドが昇天した伝説の場所です。

この聖地エルサレムをめぐって、中世に戦われたのが「十字軍戦争」です。

十字軍は、イスラムの支配下にあったエルサレムを奪回するために編成されたヨーロッパ連合軍で、11世紀末から13世紀後半にかけて、7回の遠征が行われました。

それにしても、この時期、キリスト教国がとつぜん聖地奪回戦を始めたのはなぜでしょうか。
イスラム勢力がキリスト教徒の巡礼を妨害したからとも言われますが、事実はそうではありません。

当時、キリスト教国のビザンツ帝国(Byzantine Empire 東ローマ帝国)は、イスラム化したトルコ人の新興国セルジュク朝(Seljuq dynasty)の小アジア進出に危機を感じていました。
そこで、ビザンツ皇帝はローマ法王に援軍を頼みます。

それは、ローマ法王にとっては、ローマ皇帝に対するローマ教会の優位を示すための絶好のチャンスとなりました。

1095年、クレルモン教会会議(Council of Clermont)で、ローマ法王ウルバヌス2世(Pope Urban II)は、聖地エルサレムをイスラム教徒からとりもどそうと、全ヨーロッパに呼びかけます。

そして各国に使者を送り、十字軍をつのりました。すると、たくさんの王や諸侯が応じました。

「遠征に加われば、罪のゆるしの特権が与えられる」という法王の口説き文句がきいたのでしょう。
また、当時の西欧は封建社会が安定し、国王や諸侯は時間や力をもてあましていました。

しかも、封建制のもとでは、長男が土地を相続することになっており、騎士の家の次男以下は、家を出ていくしかありませんでした。
そんな彼らが、十字軍の話に飛びついたのです。

こうして、1096年に編成された第1回の十字軍は、総勢10万人にも達し、1099年、エルサレムを占領して「エルサレム王国」をうち建てることに成功しました。
しかし、イスラム世界に英雄サラディン(Saladin)が登場すると、この王国は、あっけなく駆逐されてしまいます。

その後、十字軍が聖地を奪回することはありませんでした。遠征は何度か行われましたが、しだいに本来の目的が見失われてしまったのです。

第4回十字軍では、エルサレムではなく、イスラムの本拠地であったエジプトを攻略しようという法王の呼びかけによって結成されました。
しかし、肝心の戦費が集まらない。

そこで、困った十字軍は、ベネチア商人らの商売敵のコンスタンティノープルを攻略してくれるのなら喜んで資金を出すという誘いに乗り、1204年には、コンスタンティノープルを占領。

もともとは、ビザンツ帝国の救援で始まった十字軍でしたが、もはや、その首都であるコンスタンティノープルまで攻撃するという当初の目的から全くはずれた、まさに 「脱線した十字軍」となりはててしまいました。

この十字軍の失敗は、ヨーロッパ世界にさまざまな影響を与えました。

まず、十字軍の指導者であったローマ法王の威信が失われました。これは後の「宗教改革」の原因のひとつとなります。
また、東方の領土や富を獲得しようとした諸侯や騎士も、得るものが少なかったため、勢力を失うことになりました。

一方、各国の王は諸侯らの領地を没収して、力を強めました。
また、兵士と物資の輸送にあたったベネチア、ジェノバなどの開港都市は、東方貿易で大いに栄えるようになったのです。



        





サラディンのエルサレム入城

1099年、第1回十字軍は、ついに聖地エルサレムを占領。市内にいたイスラム教徒を虐殺した。

これは、イスラム教徒がキリスト教徒を虐待しているという噂を彼らが信じたためであるが、
その噂はまったくのデマだった。

十字軍は、聖地を「エルサレム王国」とし、ムハンマドが昇天したとされる「岩のドーム」に
巨大な十字架を立てた。キリスト教の教会にするためである。

この状態は、その後約100年つづいた。岩のドームから十字架が下ろされるには、英雄サラディンの
登場を待たなければならない。

1187年、エジプト王サラディンは、イスラム世界に向けて聖地奪回を呼びかけた。
そして2万の軍勢を率いてダマスカスを出発した。

対するキリスト教側のエルサレム王国からも、イスラム軍とほぼ同数の主力軍が出撃。
両者はエルサレム北方の「ヒッティーンの会戦」(Battle of Hattin)で激突した。

酷暑のなかでの戦いは、イスラム軍の圧倒的な勝利に終わった。
つづいてイスラム軍は、エルサレムの包囲にかかった。

エルサレム王国軍は6万の軍勢で籠城したが、ついに抵抗をあきらめてエルサレムを明け渡した。
サラディンはエルサレムに入城したあと、岩のドームの頂上から十字架を引き下ろした。

このときイスラム教徒と十字軍の声がひとつになってわき起ったという。
イスラム教徒は歓喜の声を、十字軍はうめき声をあげたのだ。

サラディンは、イスラムの慣行にもとづいて異教徒を寛大に扱い、市民をひとりたりとも殺さなかった。
エルサレム王を捕虜にしたときも、退位を条件に釈放している。

これはかつての十字軍のふるまいと対照的だった。
彼が「イスラムの英雄」とたたえられたのも、その人格を評価されたためであった。