イスラム教の成立 (Muslim religion)       歴史年表     ヨーロッパ史       人名事典)(用語事典)
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イスラム教の成立

イスラム教の創始者ムハンマド(Muhammad)は、572年、アラビア半島の西部に位置するメッカ(Mecca)に生まれました。

メッカは当時すでに聖地として知られ、カーバ神殿(Kaaba)を多くの巡礼者が訪れていました。
ただし、当時のアラビアでは、偶像崇拝や多神教があたり前だったため、神殿の内部にはさまざまな神の彫像がおかれ、アッラー(Allah)はその中の主神という位置づけでした。

それを、アッラーを唯一絶対神とする一神教にしたのが、ムハンマドです。


ムハンマドは、メッカの名門の家に生まれ、六歳で孤児になり、長じると商人として活動するようになります。
そこまでは、奇跡もなければ伝説もない、ごく普通の人生でありました。

ところが、610年、彼はとつぜん神の啓示を受け、自分は「預言者」(神の言葉を預かり、民に伝える人)だという自覚をもつようになります。
ムハンマドは、613年からメッカで布教活動を始めましたが、偶像崇拝を否定したことや、すべての人は平等であると説いたことが、メッカの有力者の反感を買ってしまいました。


メッカでの布教に限界を感じたムハンマドは、622年、メッカを見限ってメディナ(Medina)に移住します。

この移住を「ヒジュラ」(Hegira 聖遷)といい、ムハンマドがメディナに到着した西暦622年7月16日は、イスラム暦における紀元元年1月1日となります。

メディナで勢力を伸ばしたムハンマドは、630年、ついにメッカを征服。
632年に没するまでに、アラビア半島をイスラム教のもとに統一しました。

ムハンマドの死後も、ムハンマドの後継者が教団を率い、もっぱら征服による領土拡大を行いました。
これを「ジハード」(Jihad 聖戦)といいます。





イスラム教の発展

7世紀半ばから8世紀末の100年あまりのあいだに、イスラム帝国は、北アフリカ、イベリア半島、西アジア、
中央アジアまで支配するようになりました。イスラム世界の基礎は、この一世紀でほぼ固まったといえます。


ムハンマドの後継者(Caliph カリフ)が支配して、西アジアからイベリア半島までひろまったイスラム教徒の国を
「イスラム帝国」(661−1258年)といいます。


(正統カリフ時代)(632−660年)

ムハンマドの時代に、イスラム教徒は全アラビア半島を支配するようになり、632年に彼が死んだあとは、4代にわたって、
選挙されたカリフがイスラム教団国家を指導しました。

聖戦(ジハード)をつづけ、651年にササン朝ペルシアをほろぼし、ビザンツ帝国の勢力をシリア・エジプトから追いはらいました。
アラブ人は戦士となり、征服地の住民からは税金をとりました。


(ウマイヤ朝時代)(661−750年)

7世紀後半になると、今度はイスラムの指導者カリフの座を巡る権力争いが起き、カリフ暗殺事件が多発。

第4代カリフが暗殺されたあと、見かねたウマイヤ家のムアーウィヤ1世(Muawiyah I)がカリフを名乗ってウマイヤ朝を起こします。
彼は首都をダマスクスに定め、以後その子孫がカリフをつぎます。

ウマイヤ朝は征服活動を進め、西北インドからイベリア半島まで進出し、更にピレネー山脈を越え、
現在のフランス南部にまで進出しました。

しかし732年、トゥール・ポワティエの戦い(Battle of Tours)で、フランク王国のカール・マルテル軍に敗れました。



(アッバース朝時代)(750−1258年)

750年、ウマイヤ朝は内輪揉めで衰退し、アッバース家に取って代わられます。
アッバース家は、バグダッドを建設して首都とし、官僚機構と常備軍をそなえて、イスラム法によって政治を行い、当時の中国の唐とならぶ繁栄をほこりました。

一方、ウマイヤ朝の一族は、イベリア半島にのがれ、コルドバを都に、後ウマイヤ朝(756−1031年)を起こしました。

アッバース朝は、第5代カリフのハールーン・アッラシード(Harun al-Rashid 在位:786−809年)の時代に最盛期をむかえ、中央集権的な支配体制が確立しました。
しかし、9世紀なかごろから地方に独立政権が生まれ、カリフは名ばかりの存在になり、1258年モンゴル軍に滅ぼされました。


アッバース朝が滅びたあと、トルコ人、モンゴル人、イラン人、ベルベル人などによるイスラム国家が各地に建てられました。
イスラム帝国は崩壊しましたが、各地の政権下でもイスラム法が施行され、イスラム世界は拡大していきました。



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アラビアン・ナイト(Arabian Nights)

アラビア文学を代表するアラビアン・ナイト(千夜一夜物語)は、ハールーン・アッラシードの時代につくられました。
大臣の娘シェヘラザードが、王に千一夜にわたりいろいろな物語を聞かせるという設定で書かれています。

妻の不貞を見て女性不信となった王が、国の若い女性と一夜を過ごしては翌朝に処刑していました。
これを止めさせるため、シェヘラザードが自ら王の元に嫁ぎます。

シェヘラザードは婚礼の夜、王に物語をはなして聞かせます。
夜明け近くに話がちょうど佳境にはいったところでうちきってしまい、続きは翌日の夜にはなすことにしたのです。

彼女は、毎夜アリ・ババ、アラジン、シンドバッドなどのおもしろい物語をはなしては、翌日も王が聞きたがるようにしむけました。
そして最後には、王は残酷な考えをあらため、この賢い妃と幸福にくらすことにしたということです。


物語は、架空の人物だけでなく、カリフであるハールーン・アッラシードも登場します。
彼は、従者を連れて、夜な夜なバグダッドの街をぶらぶらし、 ちょっかいをかけてあるくという風流な(?)君主として描かれています。


       
           





聖戦

ムハンマドは、メッカの住民に信仰を説いた。

だが、メッカの住民たちは、ムハンマドの信仰をあざわらった。
そればかりか、彼らは、ムハンマドの少数の信者たちを迫害した。

絶望したムハンマドは、メッカの外の人々にも信仰を説きはじめる。

ある日、メディナからやって来た巡礼者が、ムハンマドの説教を聞き、感銘を受けた。
彼はムハンマドに、メディナの街で、イスラムの教えを広めるようにすすめる。

622年、ムハンマドは、メッカを棄て、北方のメディナの地に、少数の信者とともに移住した。

ムハンマドの教えは、農耕民族であったメディナの人々に受け入れられる。
やがてムハンマドは、宗教だけではなく、メディナの人々の指導者となった。

移住から五年目、宗教上のいさかいから、メッカとメディナは戦争になった。
ムハンマドは、メディナの民を率いて、メッカの一万の大軍を打ち破った。

ムハンマドの名は、アラビア全土に広まり、数多くのアラブ人がイスラム教に帰依した。