ゲルマン民族の大移動     歴史年表          ヨーロッパ史      人名事典)(用語事典)
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ゲルマン人の移動とローマ帝国の分裂


ゲルマン民族は、いまのドイツやフランス、イギリスやオランダなどの国々をつくった人々です。

ゲルマン民族は、はじめ東ヨーロッパに住んでいましたが、ケルト人(Celts 西ヨーロッパの先住民族)を圧迫しながら西へ広がり、
ライン川やドナウ川の周辺に住みついて、いくつかの部族ごとに牧畜や農業をしてくらしていました。



ローマ帝国がおとろえた4世紀後半、北アジア遊牧騎馬民族のフン族(Huns)がヨーロッパに侵入し、
ゲルマン人の住む東ヨーロッパに定住しました。

居住地を追われたゲルマン人の一部族がローマ帝国内への移住を開始し、これにつられて、ほかのゲルマン民族も故郷をすて、
家族ぐるみでローマ帝国内へ大移動しました。

異民族による帝国領内への侵入は、ローマの東西分裂以後も続きました。

これらゲルマン民族の侵入によって、ローマを首都とする西ローマ帝国は大混乱におちいり、476年西ローマ帝国は滅亡してしまいます。



西ローマ帝国が滅んだあとも、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、およそ1000年間つづきました。

とくに、6世紀のユスティニアヌス帝(Justinian I)は、北アフリカやイタリアにあったゲルマン人の国を滅ぼし、
ふたたび地中海を東ローマ帝国の支配下にとりもどしました。

首都コンスタンティノープルに巨大なハギア・ソフィア大聖堂(Hagia Sophia)を再建し、「ローマ法大全」をつくるなど、帝国の黄金時代をきずきました。



その後、イスラム教徒の進出でシリアやエジプトを失い、帝国の領土は、小アジアとバルカン半島だけになりました。

11世紀になると、バルカン半島にはスラヴ民族(Slavs 黒海周辺の先住民族)がうつり住み、
また、小アジアにはセルジュク・トルコ(Seljuq dynasty イスラム系のトルコ民族)が侵入しました。

さらに13世紀初め、第4回十字軍がコンスタンティノーブルを攻撃して支配しました。

その後、東ローマ帝国はコンスタンティノ−プルをとりもどしましたが、帝国のおとろえをくいとめることはできず、
1453年、オスマン帝国(Ottoman Empire)によって滅ぼされました。






パンとサーカス(Bread and Circuses)


ローマの豊かさを示す言葉に「パンとサーカス」があります。

ローマの市民は「パン」(食糧)が、無料で配布されたため、あくせくと働くことから解放されました。

国防を担っていたローマ市民は、戦争での怪我や戦死が避けられず、彼らに対する国家としての保障という側面もあったのです。

食料に困らなくなった民が次に求めたのは「サーカス」(娯楽)でありました。
その欲望に応えるため、帝国内の至るところにコロセウム(闘技場)が建造され、民衆たちは剣闘士たちのアクションに熱狂しました。

一方、貴族の宴会と言えば、ぜいたくを極めた料理を、夕方早くから夜中まで延々と食べ続け、
さらに食べるために「吐く」ということが普通に行われ、吐くことが健康に良いとまでされていました。

さらには、食べカスを床に撒き散らすことは、豊かさの象徴とまで言われていたのです。
「人類が最も幸福だった時代」とまで称せられるのが、この時代なのです。







ローマ帝国の崩壊

ではなぜ、最も豊かだったローマが、衰退の道を転がり落ちていったのでしょうか?

その衰退の一因には、「領土拡大」政策の限界があります。
ローマ帝国が富の拠り所としたのは、次々に獲得していく「属州」でありました。

属州からは、奴隷や税、穀物などがローマ帝国に送られました。
属州民は、収穫の1/3にあたる直接税や、収入の10%にあたる属州税を納めるなど、厳しい収奪を強いられました。

奴隷たちの多くは、農場や鉱山で過酷な肉体労働を強いられました。
また、「剣奴」としてコロセウムで、死ぬまで戦わされた奴隷たちもいました。

皇帝は、収奪した財力で都市を飾り立て、市民には食事や浴場などの快適な都市生活が保証されました。
「ローマの平和」とはこのように、属州民と奴隷の犠牲のうえになりたっていたのです。

しかし、属州を獲得し続けることには明らかな限界がありました。
富の源泉を「領土拡大」に求めたことは、拡大をやめれば豊かさを維持できないということでもありました。

当時の広大な「国境線」を守るための維持費と軍事費は、いつの間にか国家予算の半分を占めるようになっていました。
折しも、国外からの異民族(ゲルマン人)の侵入が起こりました。

その結果、財政は困窮から破綻へ向かい、ローマ帝国は崩壊への道を歩み始めることになります。



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ユスティニアヌスとテオドラ

テオドラは、サーカスの熊使いの娘で、自身も踊り子だった。
皇帝になる一歩手前だったユスティニアヌスは、テオドラに一目惚れ。

元老院議員と踊り子の結婚を禁止する法律を変えてまで、結婚。
ユスティニアスと結婚後、妃テオドラは、公私ともに夫を支えた。

皇帝は、古代ローマ帝国の栄光を取り戻そうと、領土の拡大に励む。
だが、戦費がローマ市民への負担となり、民衆の不満が積もっていった。

532年、戦車競技場で、市民の大暴動が起こった。ニカの乱である。
事態を収拾できなくなったユスティニアヌスは、亡命を決意する。

テオドラは「逃亡するより名誉ある死を」と、皇帝を叱咤激励した。

この言葉に、ユスティニアヌスは踏みとどまることを決意する。
そして3万人とも言われる犠牲者を出しながら、反乱を鎮圧した。

                                (プロコピオス「戦史」)








(西ローマ帝国史 Roman Empire 395〜476)

395年 ホノリウス帝(Honorius 在位395〜423年)即位。
410年 ゲルマン系西ゴート族、ローマ侵入、西ローマ帝国、ラヴェンナ(Ravenna)に遷都。

475年 ロムルス帝(Romulus 在位475〜476年)即位。
476年 ゲルマン人オドアケル(Odoacer)の反乱により西ローマ帝国滅亡。




(東ローマ帝国史 Byzantine Empire 395〜1453)

395年 アルカディウス帝(Arcadius 在位395〜408年)即位。首都コンスタンティノープル。
527年 ユスティニアヌス帝(Justinianus I 在位527〜565年)即位。

529年 ユスティニアヌス帝、ローマ法大全の編纂(〜533)
532年 ニカの乱。重税に反対する市民の反乱。

534年 ユスティニアヌス帝、北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼす。
537年 ユスティニアヌス帝、ハギア・ソフィア大聖堂再建。

553年 ユスティニアヌス帝、イタリア半島の東ゴート王国を滅ぼす。
637年 エルサレム(東ローマ領)イスラム帝国に奪われる。

642年 アレクサンドリア(東ローマ領)イスラム帝国に奪われる。
1096年 第一回十字軍遠征。(〜1099)セルジュク朝に攻められ十字軍に救援を求めた。

1204年 ベネチア主体の第四回十字軍、コンスタンティノープルを占領。(〜1261)
1261年 東ローマ帝国、コンスタンティノープルを奪還。

1453年 オスマン帝国の侵攻により、東ローマ帝国滅亡。