古代ローマ世界        歴史年表     ヨーロッパ史
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ローマの地中海支配

ローマは、イタリア半島中部のティベル川(Tiber)の河口近くに、ラテン人が建てた都市国家でありました。

長いあいだ、エトルリア人(Etruscan イタリア半島の先住民族)の支配下にありましたが、BC509年に独立し、政治体制も共和政を採用しました。

ローマでも、はじめは貴族が元老院(Roman Senate 行政機関)を中心に政治の権力をにぎっていましたが、平民がこれに反対し、貴族とはげしく争いました。

その後、BC287年、平民の地位向上を求めたホルテンシウス法(Lex Hortensia)で平民の意見が反映されるようになると、平民と貴族の対立は、ほぼ終わりました。

この間、ロ−マはイタリア半島の都市国家をつぎつぎに支配下におさめました。

BC264年、イタリア半島の統一をなしとげたローマは、地中海の支配をめざして、北アフリカのカルタゴ(Carthage)と、ポエニ戦争(Punic Wars)を起こしました。

この戦争は3回にわたって戦われ、結局、ローマが勝利しました。
さらに、ローマは地中海東部のヘレニズム諸国(ギリシア、マケドニア、シリアなど)の征服に乗り出しました。


こうして、ローマが対外的に発展しているなか、国内では、軍隊の中心だった農民たちは苦しい生活を送っていました。
彼らの中には、土地を手放し、無産市民としてローマにやって来る者も多くありました。

シーザーなど貴族出身の有力者は、無料で食料や剣闘士競技などの娯楽を提供し、彼ら無産市民の人気を集めていました。

これは、無産市民の欲求を満たし、満たされた彼らの熱狂を権力の支持基盤とするためでした。
そしてしだいに元老院に対抗する勢力となっていきました。


ラティフンディウム

一方、戦争により領土を拡大したローマは、多くの奴隷を獲得しました。
富裕層(貴族など)は、没落していった農民の土地を手に入れ、奴隷たちを農作業に従事させました。

奴隷は、家畜と同様に扱われ、土地からの収穫物はすべて農場主のものとなります。
こうした奴隷使用に基づく大農場経営をラティフンディウム(Latifundium)といいます。

ラティフンディウムでは、ぶどう・オリーブなどの利潤の高い果樹栽培が行われ、農場主となった貴族は、巨大な富を得ていたのです。


スパルタクスの乱

こうしたなか、BC73年、スパルタクスの乱(War of Spartacus 奴隷の反乱)が起こりました。

剣闘士奴隷のスパルタクスを指導者とする奴隷たちが、剣闘士施設から脱走し、武器を奪い、他の奴隷などを仲間にしながら勢力を拡大させていきました。

これに対しローマ軍は、スパルタクス軍討伐にあたりましたが何度も大敗しています。

最終的に、貴族出身のポンペイウス(Pompey)とクラッスス(Crassus)が傭兵や私兵を使い、スパルタクスの乱は鎮圧されました。
こうして、名を上げて力を持ったポンペイウスとクラッススは、市民の人気を集めることになります。


三頭政治

BC60年、彼らは、ヒスパニア(現在のスペイン)総督として功績をあげたジュリアス・シーザー(Julius Caesar)とともに、三頭政治(Triumvirate 政治同盟)を結成します。

(三頭政治とは、有力政治家の私的な連携による政治同盟です。、
クラッススとともにスパルタクスの乱を鎮圧したポンペイウスは、BC67年、地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐。
さらに小アジアやシリアに遠征し、黒海沿岸からコーカサスまでローマの領土を拡大しました。

飛ぶ鳥を落とす勢いだったポンペイウスの権勢に恐れをなした元老院は、ポンペイウスから軍事権を取り上げようとしました。
この時、ポンペイウスに手をさしのべたのがシーザーで、資産家であったクラッススを加えた三人で、元老院に対抗する目的で結成されたのです)


BC58年、シーザーが、ガリア(Gallia いまのフランス)へ遠征し、その地を平定すると、クラッススが遠征先のパルチア(Parthia)で戦死し、三頭政治が崩壊します。
その後、ポンペイウスとシーザーの対立が表面化しました。

元老院と手を結んだポンペイウスでしたが、ローマに帰国したシーザーの軍に敗北し、BC48年、亡命したエジプトで謀殺されました。

シーザーは、エジプトの女王クレオバトラと結んで、その後の内乱をおさめ、ローマの独裁者となります。
しかし、シーザーは、共和政の伝統を守ろうとするプルータス(Brutus)らによって暗殺されました。

(ローマという国は、共和政の都市国家として、BC509年にスタートしました。
プルータスたちの共和派は「共和政の都市国家ローマ」に誇りを持ち、それを維持することが使命だと考えていました。
だから、シーザーの独裁政治によって、元老院の権限が奪われ、共和政治が否定されることを恐れたのです)


シーザーの死後、BC43年、シーザーの養子だったオクタヴィアヌス(Octavius)は、シーザーの部下であったアントニウス(Antonius)とレピドゥス(Lepidus)とともに第2回三頭政治を成立させます。

BC42年、三者は協力して、フィリッピの戦い(Battle of Philippi)でプルータスらを破り、反対派の共和主義者を一掃しました。

その後、三者は協定を結び、ローマの領土を分割して統治することになりました。
オクタヴィアヌスはヨーロッパを、アントニウスはエジプト・ギリシアを、レピドゥスはアフリカを、それぞれ支配することになります。


アクティウムの海戦

しかし、エジプトの支配権を得たアントニウスは、エジプト女王のクレオパトラの魅力に取りつかれてしまいます。
アントニウスは彼女のために、妻オクタウィア(Octavia オクタヴィアヌスの姉)を捨て、さらにローマの領土まで彼女に譲ることを約束してしまいます。

このことがローマ市民の反感を買ってしまうことになりました。
公私ともども、アントニウスを許せないと思ったのはオクタヴィアヌスです。

BC31年、ついに、オクタヴィアヌスvsアントニウス・クレオパトラ連合軍の戦争が勃発します。
決戦の場となったのは、ギリシア西岸でのアクティウムの海戦(Battle of Actium)です。

しかし、世紀の決戦も半日足らずで決着しました。アントニウスは自決。クレオパトラも猛毒コブラに自身を噛ませて自殺しました。


帝政ローマ

こうして、オクタヴィアヌスは、ローマの支配者となり、ローマは、地中海を「われらの湖」とよんで手中におさめ、繁栄をほこりました。
オクタヴイアヌスは、BC27年、元老院から「アウグストゥス」(Augustus 尊厳者)の称号をおくられます。

アウグストゥスは「市民の第一人者」として、元老院の承認のもとで統治するという「プリンキパトゥス」(Principate 元首政)という政治体制を採用しました。
これは、シーザーの失敗を繰り返さないため、元老院に一定の配慮をし、それを存続させ、尊重する姿勢をとったのです。

しかし、国の政治の重要な地位は、ひとりじめしていたので、独裁政治と変わりありません。
こうして、ローマはアウグストゥスを初代皇帝とする帝政がはじまりました。


(ちなみに、8月をオーガスト「August」というのは、アウグストゥスが 8月生まれだから。
ジュリアス・シーザーは、7月生まれなので、7月が、ジュライ「July」になったのです)


   
          





部下に丸投げの人心掌握術

オクタヴィアヌスは、戦争はあまりうまくなかった。

シーザー暗殺者ブルータスと戦ったフィリッピの戦いの勝利は、パートナーのアントニウスの指揮によることが多かった。
アクティウムの海戦の勝利は、部下の将軍アグリッパの力量と、敵将アントニウスの自滅的行動のせいであった。

だが、オクタヴィアヌスは、最大の敵であったアントニウスの自決後、彼の功績を讃えて最大限の賛辞を贈ったのだ。
すると、それを知ったアントニウス派の残党たちが、続々と投降してきた。

結果として、オクタヴィアヌスこそが、彼らの新たな統率者として印象づけることになったのである。