歴史のヒーロー(1)アレクサンドロス (Alexander)     歴史年表     ヨーロッパ史      人名事典)(用語事典
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アレクサンドロスの大遠征

BC334年、ギリシア世界に現れたひとりの若者が、ユーラシア大陸を駆け抜け、強敵ペルシアを倒して、
ギリシアから北インドにいたる空前の帝国を築き上げました。

33歳の若さで亡くなるまで、短くも波乱に満ちた生涯を送った若き将軍アレクサンドロスの遠征は、
人類の戦いの歴史がそこに始まったといっても過言でないほどの際立った出来事でありました。


ギリシアの北方マケドニア(Macedonia)は、ギリシアのポリスに比べると後進地域でした。
ギリシアからはバルバロイ(Barbaroi 野蛮人)と呼ばれ軽蔑されていました。

しかし、ギリシアのポリスが覇権争いで衰退していく間に力をつけ、フィリッポス2世(Philip II)[BC382−BC336年] のときに一大強国となります。

BC338年、フィリッポス2世は、カイロネイアの戦い(Battle of Chaeronea)でアテネ・テバイ連合軍を破り、ギリシア各地を併合しました。
しかし、BC336年、彼はマケドニア貴族によって毒殺されてしまいます。


フィリッポス2世亡き後、アレクサンドロスが王位を継ぎます。彼はただちに内外の反乱をしずめ、強大な指導者の地位を確立しました。

そして、軍隊をひきいてエジプト、ペルシアに遠征、BC323年に33歳で死去するまでに、地中海東部沿岸地域から、
インド北部にいたる広大な領土を支配下におさめます。


               



以後、300年にわたるヘレニズム(Hellenism ギリシア様式)時代の基礎を築いたアレクサンドロスの遠征は、東西の交流にとって大きな意味があったのです。

一例を挙げれば、約800年後の日本の飛鳥時代、法隆寺の仏像に伝わった微笑をたたえる表情は、
ヘレニズム時代にギリシアから伝わった文化が5世紀のモンゴルを経由して日本まで伝わってきたものと考えられています。

ギリシア文化と東方世界を結びつけたアレクサンドロスの功績は、世界史上だけでなく現在にも多大な影響を残しつづけているのです。




アレクサンドロス年表

フィリッポス2世(Philip II of Macedon)[在位BC359〜BC336年]

BC359 フィリッポス2世(23歳)、マケドニアの王となる。
BC357 フィリッポス2世(25歳)、オリュンピアス(18歳)と結婚。
BC356 アレクサンドロス誕生。
BC343 哲学者アリストテレス(41歳)、アレクサンドロス(13歳)の家庭教師となる。
BC338 フィリッポス2世(44歳)、カイロネイアの戦いでギリシア同盟軍を破る。
BC337 フィリッポス2世、ギリシア諸国家と平和同盟をコリントスで結ぶ。


アレクサンドロス大王(Alexander the Great) [在位BC336−BC323年]

BC336 父王フィリッポス2世の暗殺、アレクサンドロス(20歳)の即位。
BC336 アレクサンドロス、コリントス同盟会議でギリシアの代表と認められる。
BC336 アレクサンドロス、コリントスで哲学者ディオゲネス(76歳)と出会う。
BC335 アレクサンドロス、反旗を翻したテバイを占領し、破壊する。
BC334 アレクサンドロス(22歳)東方遠征開始。

BC333 イッソスの戦いでペルシア軍を撃破。 ダレイオス王(3世)は敗走。
BC331 メンフィスを平定。ペルシア支配からエジプトを解放する。
BC331 アレクサンドロス、エジプト王ファラオに就任。アレクサンドリア建設。
BC331 ガウガメラの戦いで決定的な勝利を得る。ダレイオス王(3世)は逃亡。
BC331 バビロン、スサ占領。

BC330 ペルセポリス占領。ダレイオス王(3世)は側近に暗殺される。ペルシア帝国滅亡。
BC329 中央アジアのペルシア系ソグド人を平定。サマルカンド占領。
BC327 アレクサンドロス、ソグド人王族の娘ロクサネ(Roxana 16歳)と結婚。

BC326 ヒュダスペス河畔の戦いで、インド諸侯の連合軍に勝利。遠征継続を断念。
BC323 アレクサンドロス(33歳)、マラリアのためにバビロンで病死。

大王の領土は、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプトに分裂。








哲人アリストテレス

ギリシアの哲学者アリストテレス(Aristotle)は、マケドニア王フィリッポス2世に招かれ、
13歳の王子アレクサンドロスの家庭教師になります。

次代の王を教育することになった彼は、弁論術、文学、科学、医学、哲学など、
自らが学んだ様々な知識を、アレクサンドロスに教えていきます。

アリストテレスが、ホメロスの「イリアス」を、アレクサンドロスにプレゼントしたことはよく知られています。

アレクサンドロスは、夜寝る時も、イリアスを枕元において寝るほど愛読したといわれています。
また彼は、自然科学や天文学、生物学にも興味を示しました。


アレクサンドロスが、遠征地にあっても、探究心を発揮して博物学的な知識の習得につとめたのも、
アリストテレスの教育によるところがおおきいといわれています。

アリストテレスは、将来のペルシア遠征にあたって、アレクサンドロスにアドバイスしています。
それは、異民族を支配するときには「徳をもって統治せよ」というものでした。

のちに、アレクサンドロスがペルシア帝国を滅ぼしたとき、敵の王であったダレイオスの遺体を丁重に扱いました。

また捕虜としたダレイオス王の母や妃、王女たちには王族にふさわしい扱いをするなど、
寛大な勝者であることを強調しました。

すると、それを知ったペルシアの貴族が続々と投降してきました。
結果として、アレクサンドロスこそが、ダレイオスの後継者として印象づけることになったのです。



(マケドニア史 Macedonia BC700〜BC168)

BC700 ペルディッカス1世 (Perdiccas I 在位BC700〜BC678)マケドニア建国。
BC359 フィリッポス2世、マケドニアの王となる。
BC356 アレクサンドロス3世(大王)誕生。
BC337 フィリッポス2世、ギリシア諸国家と平和同盟をコリントスで結ぶ。
BC336 フィリッポス2世の暗殺、アレクサンドロス3世(大王)の即位。
BC334 アレクサンドロス3世(大王)の東方遠征。(〜BC323)
BC323 アレクサンドロス3世(大王)、マラリアのためにバビロンで病死。
BC168 共和政ローマとのマケドニア戦争で敗れ、マケドニア滅亡。
BC146 マケドニア全土は共和政ローマの属州の一つとなる。


(セレウコス朝シリア史 Seleucid Empire BC312〜BC64)

BC312 セレウコス1世(Seleucus I Nicator 在位BC312〜BC281)セレウコス朝シリア建国。
BC64 共和政ローマのポンペイウスに敗北し滅亡。以後、全土は属州となる。


(アンティゴノス朝マケドニア史 Antigonid dynasty BC306〜BC168)

BC306 アンティゴノス1世(Antigonus I 在位BC306〜BC301)アンティゴノス朝マケドニア建国。
BC168 共和政ローマとのマケドニア戦争で敗れ、滅亡。
BC146 マケドニア全土はローマの属州となる。


(プトレマイオス朝エジプト史 Ptolemaic dynasty BC305〜BC30)

BC305 プトレマイオス1世(Ptolemy I Soter 在位BC305〜BC282)プトレマイオス朝エジプト建国。
BC51 クレオパトラ7世(Cleopatra VII 在位BC51〜BC30)ファラオに即位。
BC30 共和政ローマのオクタヴィアヌスにアクティウムの海戦で敗北し滅亡。




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アレクサンドロス(Alexander)が、東方遠征に出発して間もなくのこと。
彼は、ゴルディオン(Gordion)という街で奇妙な伝説を耳にします。

「ゴルディオンの結び目を解いた者はアジアの王になる」

ゴルディオンの結び目とは、特殊な方法で繋がれた牛車の結び目のこと。
この結び目を、うまく解くことができれば、アジアの支配者になれるというわけです。

多くの勇者が、この「ゴルディオンの結び目」に挑戦しました。
しかし、結び目が分からぬほど固く結んであったため、誰も解くことができなったといいます。

そこへ、アレクサンドロスは進み出てきます。
なんと、彼は結び目を、剣で一刀両断してしまいました。

アレクサンドロスは、その場にいた群衆に宣言します。
「我こそが全アジアを治める王となるであろう!」

アレクサンドロスは、遠征の際に、博物学者や測量士、建築家などを伴っていたといわれています。
彼は新たに征服した領土に、自分の名まえをとって、アレクサンドリア(Alexandria)という都市を建設しました。

この新しくつくった都市に誰が住むかというと、アレクサンドロスがギリシアから連れてきたギリシア兵達に住まわせました。
中央アジアに近いアレクサンドリアに住んだギリシア人達は、現地の人々と結婚してやがて土地の人たちに吸収されていきます。


               



また、アレクサンドロス自身もペルシア王族の女性を妻にしました。
彼は、かって敵対していた人々と、共に栄える共存共栄の統治方法をとったのです。

古代のギリシア人にとっては「ポリス」は命をかけて守るべきものでした。
また、ギリシア人以外の人々を「バルバロイ」(Barbaroi 野蛮人)とよんで軽蔑しました。

しかし、アレクサンドロスは、このような考えは否定したのです。
彼は、民族などをこえた人間そのものを大切にすること、それができる国こそが繁栄するのだと考えたのです。

ローマの歴史家アリアノス(Arrian)の「アレクサンドロス遠征記」(The Anabasis of Alexander)は次のように記されています。

「諸国をアレクサンドロスが秩序よく統合できたのは、他のどんな施策にもまして、まさしくこの厳正なやり方のおかげだった。
アレクサンドロス王権の下にあっては、支配される側が、支配する側から不正不当な扱いを受けるといったことは、まったく許されなかった」



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砂漠の水

インド遠征からの帰路、アレクサンドロスの本隊は不毛な砂漠を行軍してペルシア本国へ向かった。

兵士たちが飢えと渇きに苦しんで倒れていく中、一人の兵士が王のために一杯の水を見つけてきた。

しかしアレクサンドロスは「私は皆と共に渇きに苦しむ方を選ぶ」といって水を捨てた。








イスカンダル

ペルシア王ダーラーブ(Darius I)は、マケドニア王の娘ナーヒード(Nahid)を王妃として迎えた。

かくて、この二つの国は血縁関係を結ぶことになった。
しかし、王妃には不快な口臭があったため、離縁されてマケドニアに帰された。

そのとき王妃ナーヒードは、妊娠していたが、父の宮殿でひそかに子供を生み、
イスカンダル(Iskandar)という名前をつけた。

王妃の口臭がイスカンダルス(iskandarus)という香草で完治したので、それにちなんだ名前であった。
ペルシア王ダーラーブは新しい妃を迎え、一子ダーラー(Darius III)をもうけた。

イスカンダルはギリシアの哲人アリストテレスを師として成長し、20歳にして父の跡を継いで王となった。
のちにペルシアに攻め入ったイスカンダルは異母弟ダーラー王の死を看取ることになった。

                                                   (フェルドウスィー「王書」)


(Alexander before the Dead Body of Darius III, the Last King of Persia)