徳川家康 1983年(昭和58年) ドラマ傑作選
岡崎の松平家は駿河の今川家、尾張の織田家という大国の間に挟まれていた。
当主の松平広忠(近藤正臣)は、先代から今川家に随身する政策を取って来た。
やがて広忠は、水野忠政の娘、於大の方(大竹しのぶ)を娶る事になる。
二大国に挟まれた小国同志、手を携えて行こうという政略である。
最初は政略結婚に頑なだった広忠だが、於大の方の聡明さに、次第に心を開いてゆく。
天文11年(1542年)織田と今川の小豆坂の戦いがあった年に、嫡子竹千代が誕生した。
竹千代(家康)が生まれた年、今川義元は23歳、信玄は22歳、謙信は13歳、信長は9歳であった。
群雄割拠の戦国時代、各地の英傑たちが天下制覇の夢を抱くさなかの誕生。
それは弱小の松平家にとっては希望の星であった。
1950年(昭和25年)東京新聞に連載された山岡荘八の同名歴史小説のドラマ化。
戦国乱世を生き抜き、幕府を開いた徳川家康の苦難の道程を描いた意欲作。
従来のタヌキおやじ的イメージから離れ、主演の滝田栄が若々しい家康像を作り上げた。
家康の幼少期から天下統一に至るまで、その「堪忍」の思想を解釈してみせたことが
低成長時代に合い、また朝ドラ「おしん」ブームとも重なり、視聴率は30%を超えた。
滝田は家康が人質時代に住んだといわれる駿府の臨済寺にこもって、二週間の修行生活を
体験して役に臨んだという。
また「草燃える 1979年」で、滝田と共に下級武士を演じていた武田鉄矢の、自由奔放な
秀吉像も注目された。
(制作)NHK(原作)山岡荘八(脚本)小山内美江子
(配役)徳川家康(滝田栄)松平広忠(近藤正臣)於大の方(大竹しのぶ)華陽院(八千草薫)
鶴姫/築山殿(池上季実子)織田信長(役所広司)お市(真野あづさ)豊臣秀吉(武田鉄矢)
ねね/北政所(吉行和子)淀君(夏目雅子)石田三成(鹿賀丈史)納屋蕉庵(石坂浩二)
天正10年(1582年)本能寺の変で、信長の天下統一の夢が挫折し、
武将たちに天下取りの新たな展望が開けて来た。
信長の遺領をまとめ、中央を制覇した秀吉が、やがては天下統一を成し遂げたことは
歴史的事実であるが、天下を取れる可能性があったのは、秀吉だけではない。
本能寺の変以前の秀吉の地位は、織田軍団の中で、柴田勝家、丹波長秀、明智光秀、
滝川一益、についでナンバー5の位置に過ぎなかった。
力からいえば、駿河、遠江、三河の太守、家康の方が圧倒的に強く、家康は天下取りの
最短距離に居たといえる。
だが、家康は局外者の立場を堅持して、あえて中央の抗争に介入しなかった。
秀吉が、明智光秀を討ち、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家に打ち勝ち、織田の遺領をまとめ、わずか一年間で中央を制するという
華々しい活躍をよそに、家康は再び東に向かったのである。
そして、かつての武田家の遺領、甲州、信州を平定し、ゆるぎない力をたくわえた。
それにしても、なぜ家康は天下取りにチャレンジしなかったのだろうか。
彼は、自ら、「太陽の子」と称した秀吉の時の勢いに、天下をまかせるべきだと冷静に判断したからに違いない。
「天下とは、我一人の天下にあらず、これ万民のもの、天下は天下の天下なり」という家康の言葉は、彼の思想を明確に物語っている。
天下は無理して取るものではない。天下人を決めるのは万民の総意であるというのが家康の基本的な思想であった。
この時期、確かに秀吉に民衆の支持が集まっていたようである。
それでなければ、わずか一年間で中央を制するという離れ業が出来るわけがない。
家康は、待ちの政治家であると言われるが、彼はじっと待ち続けていた。
それは、家康こそが次の天下人だという気運が世に熟するのを待っていたのである。