太平記   1991年(平成3年)       ドラマ傑作選

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鎌倉時代に中国から朱子学が伝わった。そのなかに「大義名分論」という考えかたがある。


大義名分とは「身分をわきまえることが人の道」であり、これが本来の意味となっている。

これに影響をうけたのが後醍醐天皇(片岡孝夫)である。


彼は、君主たる天皇こそが政治を行うべきだと考えるようになった。

つまり、臣下である幕府は身分をわきまえておらず、これは人の道に反している、というわけだ。


そこで後醍醐天皇は、本来あるべき上下関係に戻そうとした。すなわち「倒幕」である。





正和5年(1316年)北条高時(片岡鶴太郎)が14代幕府執権に就任すると、独裁的な政治を行った。


彼は、腐敗する幕府・北条家の象徴であり、闘犬と田楽にうつつを抜かす暗君であった。

このため、御家人の幕府に対する忠誠心は次第に薄れていった。


後醍醐天皇は、幕府の支配に陰りが見えた今こそ、幕府打倒の好機到来と判断したのである。


だが側近とともに、二度にわたって倒幕計画を立てたものの、どちらも事前に発覚して失敗した。

元弘2年(1332年)二度目のときには、天皇自身もつかまって、隠岐島に流されてしまった。





元弘3年(1333年)2月、後醍醐天皇に忠誠を誓う武将・楠木正成(武田鉄矢)が挙兵した。

彼の軍勢は、河内の山城に立てこもり、幕府軍と対峙する。


山城を守る楠木軍はわずか千人足らずの小勢。これを囲む幕府軍は、二十万という大軍であった。

だが楠木軍は、奇襲作戦など知略の限りを尽くし、数か月にわたって幕府軍を翻弄し続けたのだ。


すると幕府に不満を持っていた御家人の武士たちが、あちこちで反幕府の兵を挙げはじめた。


楠木正成の奮闘で幕府打倒の機運が高まるなか、後醍醐天皇は、隠岐を脱出して再び兵を挙げた。





元弘3年(1333年)4月、北条高時は、後醍醐天皇討伐のため、足利尊氏(真田広之)を派遣する。


だが尊氏は途中で、天皇側に寝返ってしまう。

尊氏は、かねてより北条高時の専横を快く思わず、幕府離反を考えていた。

彼はまた源氏の嫡流であり、源氏による幕府再興の野望もあったのだ。


さらに尊氏と同じ源氏の名門・新田義貞(根津甚八)も、尊氏に呼応して倒幕の兵を挙げた。


足利尊氏は京に向かい、六波羅探題(幕府の警護機関)を一気に壊滅する。

一方、新田義貞は、幕府軍が、楠木正成の山城攻略に手間取っている間、手薄になった鎌倉に攻め込んだ。





怒涛のごとく鎌倉に押し寄せる新田義貞軍に追いつめられ、北条高時をはじめ、北条一族数百人が
東勝寺にて自刃。

元弘3年(1333年)5月、ここに140年間続いた鎌倉幕府は滅亡した。



鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は、建武の新政と称し、権力のすべてを自らに一元化して政治を行った。


しかし天皇は、武士に冷たかった。論功行賞では、自分の一族や公家に厚く施して武士を冷遇した。

さらに「すべての土地の所有権は天皇のものである」と宣言し、武士たちの反発を招いた。







倒幕をなし得たのは、楠木正成をはじめ、武士たちの尽力によるものである。

だが後醍醐天皇は、自分の理想が正しかったから実現できたものと錯覚してしまったのだ。


やがて武士の中で最大の勢力をもつ足利尊氏が、天皇に反旗をひるがえし、大軍を率いて挙兵する。

これを迎え撃つは、後醍醐天皇の忠臣・楠木正成の軍勢である。

建武3年(1336年)5月、両軍は湊川(兵庫県)で対峙する。


戦は死闘が繰り広げられたが、やはり多勢に無勢、正成軍は残兵73騎となり、自身も傷を受け自害した。

湊川の戦いは、足利尊氏軍の圧勝に終わった。


後醍醐側にとっては最も強力な武将・楠木正成を失った戦いであり、尊氏側にとってはまもなく成立する
室町幕府への道を開いた重要な戦いの一つとなった。





建武3年(1336年)11月、足利尊氏は、光明天皇を京都に擁立。建武の式目を制定し、室町幕府を開いた。

一方、京都を追われた後醍醐天皇は、奈良県の吉野に南朝を開き、正統な天皇は自分だと主張した。


かくして、京都と吉野に二人の天皇が存在することになり、南北朝時代の幕開けとなった。


その後、全国の武士は、領地を広げるため、南朝か北朝のいずれか有利な方について戦ったため、
争乱は長期にわたり全国に広がっていった。


暦応2年(1339年)8月16日、後醍醐天皇が病死。延文3年(1358年)4月30日、足利尊氏も病死した。

そして、尊氏の死から、ちょうど百日後に、孫の義満が生まれている。





明徳3年(1392年)10月、南朝の後亀山天皇は、第3代将軍足利義満の招きに応じて京都へ戻り、
北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が行われた。

ここに56年間続いた南北朝動乱の時代(1336〜1392年)は終止符が打たれた。




南北朝動乱の主人公となったのは、やはり後醍醐天皇と足利尊氏であった。

北条氏を打倒し、源氏による幕府再興を目指していた尊氏が、征夷大将軍に任命されていれば、
武士と朝廷の連立政権ができるはずだった。


だが幕府そのものを否定していた後醍醐天皇は、それを決して許さなかった。

後醍醐天皇が目指していたのは、かつて醍醐天皇が行っていたという天皇親政の再興であった。


楠木正成が、二人の和睦を進言したことがある。

だがそれがもとで、正成は勝ち目のない戦(湊川の戦い)に追いやられ、戦死してしまったのだ。


後醍醐天皇と足利尊氏、二人はいわば水と油の関係であり、それぞれの理想を達成する手段と過程が、
互いに相容れない性質のものだったのである。





鎌倉幕府を滅亡させ、室町幕府の初代将軍となった足利尊氏の生涯を描いた大河ドラマ。


主人公の足利尊氏に人間的な弱さを巧みに描きこみ、真田広之がそれに応えた繊細な
演技を披露して、男のロマンチシズムを駆り立てた。


また、後醍醐天皇を演じた片岡孝夫の気品とカリスマ性、北条高時を演じた片岡鶴太郎の
狂気に満ちた怪演など、個性豊かな俳優陣による濃厚な芝居が展開された。


池端俊策の脚本では、表舞台の歴史を生きた人物以外にも、宮沢りえが演じた藤夜叉など
旅芸人を登場させることで、無名の多くの庶民の感情や暮らしにも目を注いでいる。


本作に華をそえたのは、稀代の名将・北畠顕家を演じた後藤久美子、北条高時の愛人・顕子
を演じた小田茜ら美少女たち。


ビジュアルの魅力のみならず、それぞれに難しい役どころを演じきり、以降大河ドラマは
若手女優の登竜門となった。 
   

 
(制作)NHK(原作)吉川英治(脚本)池端俊策

(配役)足利尊氏(真田広之)赤橋登子(沢口靖子)足利貞氏(緒形拳)足利直義(高嶋政伸)足利直冬(筒井道隆)
高師直(柄本明)桃井直常(高橋悦史)佐々木道誉(陣内孝則)後醍醐天皇(片岡孝夫)護良親王(堤大二郎)

楠木正成(武田鉄矢)新田義貞(根津甚八)北畠親房(近藤正臣)北畠顕家(後藤久美子)千種忠顕(本木雅弘)
北条高時(片岡鶴太郎)赤橋守時(勝野洋)金沢貞顕(児玉清)顕子(小田茜)長崎円喜(フランキー堺

花夜叉(樋口可南子)藤夜叉(宮沢りえ)猿の石(柳葉敏郎)



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