5月18日      革命エチュード (Etude op.10-12 「Revolutionary」)
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1830年、20歳になったショパンは祖国ポーランドを離れ、ウィーン経由でパリへと 向かいました。

旅の途中、彼は故郷ワルシャワがロシア軍に陥落されたというニュースを耳にします。

ショパンが祖国の悲劇を悲しみながら作った曲が「革命エチュード」です。

この時の気持ちが強く表れたのか、ショパンの曲としては珍しく力強い激しい曲調となっています。


不安を胸に、繊細な感性を持ったショパンは、パリに来てピアノ曲を集中的に作曲し始めます。

当時のパリには ヨーロッパ中から優秀な音楽家が集まり才能を競い合っていました。



                         



パリでショパンが親しく交友を持った音楽家にリストがいます。

リストはハンガリーの演奏家で、「ピアノの魔術師」と呼ばれ、貴族のサロンでも有名なピアニストとして知られていました。


ショパンより1才年下のリストはショパンに好意を寄せ、彼の成功を助けることになります。

ショパンが パリ・デビューに際して準備した「革命」を含む「12曲のエチュード」。
ショパンは この「エチュード」をリストに献呈しています。


ある時、有力者たちの集まるサロンで、リストがショパンの「エチュード」を見事な演奏で披露したことから、ショパンの作曲家としての才能はパリに知れわたりました。
良き友であり良きライバルとなったショパンとリストは、その後も切磋琢磨しお互いの実力を磨いていくことになります。



フレデリック・ショパン Frederic Chopin (1810〜1849)

ロマン派時代を代表する作曲家。ポーランド出身。ピアノ曲を中心に民族精神に富んだ200曲あまりの作品を発表、「ピアノの詩人」と称される。


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         ショパン「革命エチュード」 (Etude op.10-12 Revolutionary)




モテすぎるのも罪

ショパンは女流作家のジョルジュ・サンドと出会い、二人は恋に落ちた。

ジョルジュには二人の連れ子がいたが、娘のソランジュは年頃になると、
ショパンに恋心を抱くようになった。

この三角関係が原因なのか、ショパンとジョルジュの仲は険悪になり、けっきょく別れてしまった。