ウィーン包囲
オスマン帝国は、16世紀にはアジア・アフリカ・ヨーロッパの3大陸にまたがる大帝国をきずきました。
しかし、17世紀末、ウィーンへの攻撃に失敗し、オスマン帝国の国力は大いにおとろえてしまいます。
オスマン帝国は、スレイマン1世の時代、2度に渡ってオーストリアのウィーンを攻撃しています。
1529年、オスマン軍は、ハンガリーを支配下においた勢いで、2ヶ月近くに渡りウィーンを取り囲みました。
しかし、冬が到来し、寒さに不慣れなオスマン軍は、しぶしぶ撤退することになります。
1683年、オスマン軍は、威信をかけて20万を超える軍勢で再びウィーンを包囲します。
しかし当時最新の築城法で築かれたウィーンの要塞は堅固で、攻城戦は長期化。
そのうちに、ウィーンの救援にやってきたポーランド・ドイツ連合軍が到着。
連合軍の総攻撃で、包囲陣を寸断されたオスマン軍は、散り散りになって逃げだしてしまいました。
この戦いの後、オーストリアは反撃に転じ、オスマン帝国は、攻略したハンガリーを失ってしまいます。
しかし、オスマン帝国の宮廷も貴族も帝国のおとろえているのに気がついてはいませんでした。
貴族たちは、フランスの文化にあこがれ、またチューリップの栽培に熱中していました。
クリミア戦争
19世紀になると、領土をねらうオーストリアやロシアの進出に苦しめられるようになりました。
1829年、支配下にあったギリシアがロシア・フランス・イギリスの支援により独立しました。(ギリシア独立戦争)
ヨーロッパの国々はこれを利用して、ますます口出ししてきました。
1853年、ロシアが地中海への進出をねらい、クリミア半島で戦争をしかけました。
この戦争でオスマン帝国は、イギリスやフランスなどの助けを受けて戦いには勝ちましたが、国家財政はいっそう悪くなりました。
ミドハト憲法
第34代スルタンのアブデュル・ハミト2世(Abdul Hamid II)は、西ヨーロッパの国々をモデルに、国の政治や社会などの近代化にとりかかりました。
1876年、アジアで最初のミドハト憲法(Midhat Constitution)を制定し、議会政治への取り組みが始められました。
(立憲君主制を定めたミドハト憲法は、イスラム教徒と非イスラム教徒との平等・宗教別比例代表制による
議会・責任内閣制・個人の自由などを定めた民主的な憲法です。
しかし、翌年ロシアとの戦争が勃発したため、非常事態という口実のもとにミドハト憲法は停止され、けっきょく専制君主制に戻ってしまいました)
露土戦争
1877年、バルカン半島でスラブ民族が独立を求めて反乱を起こしました。
これを支援したロシアとのあいだで、ふたたび戦争になり、オスマン帝国は大敗します。(露土戦争 Russo-Turkish War 1877〜1878年)
オスマン帝国は露土戦争に敗れた結果、翌1878年のベルリン会議でルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立を認めることになりました。
また、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国の統治下とされました。
これ以降、オスマン帝国は西欧列強から「瀕死の病人」と見なされるようになります。
オスマン帝国は、対外的な失点が続いただけでなく、スルタンを頂点とした政治や官僚制の腐敗(官職の売買や同族登用)がはびこり、
国力は次第に衰退しており「瀕死の病人」の病巣は内部にあったのです。
青年トルコ革命
20世紀に入ってまもない1908年、青年トルコ党による青年トルコ革命(Young Turk Revolution)が起こり、
アブデュル・ハミト2世は退位、オスマン帝国は立憲君主制となります。
青年トルコとは、1876年に公布されたミドハト憲法の復活をめざす青年将校達の秘密結社です。
彼らは、政権を獲得後、西欧近代文明を導入し、オスマン帝国の改革を図ろうとしました。
一方、この革命の混乱に乗じて、オーストリア・ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナ併合を強行します。
これは統治下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人に、イスラム教徒が多かったため、彼らに青年トルコ革命の影響が及んで、
オスマン帝国への回帰の動きが出るのではないか、と恐れたためでありました。
(このボスニア・ヘルツェゴヴィナは、同じ民族であるセルビアも併合を狙っており、このことでオーストリアを恨んだセルビアが
6年後に第一次世界大戦を引き起こすことになります)
またそれまでオスマン帝国内の自治国であったブルガリアが完全独立を宣言します。
第一次バルカン戦争
1911年にはイタリアがオスマン帝国領のトリポリとキレナイカ(現在のリビア)に侵攻してイタリア・トルコ戦争がおこります。
(Italo-Turkish War 1911〜1912年)この戦争は、イタリアが勝ち、ローザンヌ講和会議(1912年)でイタリアによる両地方の領有が承認されました。
続いて、セルビア・ブルガリア・ギリシアなどバルカンの諸国は、1912年、バルカン同盟を結成してオスマン帝国領に侵攻。(第一次バルカン戦争)
青年トルコ党による内乱に加えて、イタリアとの戦争に煩わされていたオスマン帝国は、バルカン同盟に敗北し、ロンドン条約でバルカン半島の領土の大半を失うことになりました。
一方、奪った領土をめぐってバルカン諸国の中で、内輪もめが発生しました。
最も多く領土を増やしたのがブルガリアでしたが、このブルガリアの領土の大幅拡大を快く思わなかった国がありました。それがセルビアです。
第二次バルカン戦争
セルビアはモンテネグロ・ギリシアを誘いブルガリアに報復しようとします。これが第二次バルカン戦争(1913年)です。
この戦争で敗北したブルガリアは、セルビアに東マケドニアを、ギリシアに南トラキアを奪われ、そのことに対して反感をもちました。
(その後発生した第一次世界大戦では、反セルビア、反ギリシアの立場から、ブルガリアはドイツ・オーストリアの同盟国側として参戦することになります)
このような情況の中で、1914年、青年トルコはスルタンから実質的権限を奪うクーデターを敢行し、青年トルコ政権を樹立、立憲君主政・議会制を形骸化させて軍部独裁政権としました。
その後、第一次世界大戦が勃発すると、この青年トルコ政権は、露土戦争以来の反ロシアの立場から、ドイツ・オーストリアの同盟国側として第一次世界大戦に参戦します。
スエズ運河(Suez Canal)の開通
地中海と紅海を結ぶ運河を建設する夢は、古くからありましたが、1854年、フランスの技師レセップス(Lesseps)は、
エジプト政府からスエズ運河建設の許可を得ました。
当時のエジプトは、宗主国であるオスマン帝国から自立する道を模索していたので、レセップスに許可を与え、
完成後、エジプトは毎年その利益の15%をうけとることとしたのです。
運河建設は、12万人の労働者が生命を落とすという難工事で、10年かけて完成しました。
1869年、開通したスエズ運河は、「西洋と東洋の結婚」といわれ、
ロンドンとインドのあいだは、アフリカ南端回りにくらべ、およそ1万qも短くなりました。
1869年11月17日、スエズ運河開通式典が華々しく挙行されました。
午前8時、大砲と汽笛が鳴りわたり、フランス皇后ユージェニーをのせたフランス船エーグル号を
先頭にして、48隻の各国船がつぎつぎにポートサイドから運河に入りました。
皇后は「生まれていらいこんな美しい光景をみたことはありません」といって泣いていました。
このウージェニー皇后とは、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后です。
ナポレオン3世とユージェニーはこの時人生の最も華やかな時でありましたが、翌年には普仏戦争が起こり、皇帝・皇后の地位を追われることになります。
オスマン帝国 歴代君主、生没年、在位期間
マクハー
オスマン帝国の市民たちの社交の場といえば、マクハー(maqha 喫茶店)である。
1517年、セリム1世がエジプトを征服し、コーヒーがオスマン帝国に伝わって以来、
コーランで酒を禁止されているイスラム教徒に嗜好品として愛飲されるようになった。
やがて、200人以上の客を収容することのできる大規模なマクハーが各地に現れる。
芳香ただようマクハーは、イスラム教徒たちの、欠かせない情報交換の場所となった。
店内は、チェスやバックギャモンなどのゲーム会場であり、物語師、詩人、楽器奏者、
人形使い、道化、旅芸人、奇術師が技芸を披露する芸能空間でもあった。
マクハーは喫煙所でもあった。
近代のアラブ社会では、水タバコ(Sheesha シーシャ)がよく知られている。
だが当時は、いわゆるトルコ式の長ギセル(chibouk シブク)が主流であり、
イスラムの紳士たちは、その柄の長さを競い合ったのである。