ロマノフ朝
13世紀以来、ロシアは長いあいだモンゴル人の支配を受けていました。
1480年、モスクワ大公イヴァン3世(Ivan III)が、周囲の小さな国々をしたがえて、独立を宣言しました。
イヴァン3世は、ビザンツ帝国の「双頭のワシ」の紋章を受けつぎ、全ロシアの君主として皇帝(Tsar ツァーリ)を名のりました。
ついでイヴァン4世(Ivan IV 雷帝)は国内の大貴族をおさえて皇帝の権力をさらに強め、シベリアにも領土を広げました。
イヴァン4世の死後、貴族や農民の不満が爆発して、国内は混乱をきわめます。
1613年、ミハイル1世(Michael I)が皇帝になり、ここにロマノフ朝(House of Romanov)の幕が開きます。
ロマノフ王朝は、農奴制を強化しました。
農奴というのは、土地を持たず、大土地所有者に隷属する農民のことです。
大土地所有者は、当然少しでも多く搾取しようとします。
そのため、1670年にコサック(Cossacks)の首長ステンカ・ラージン(Stenka Razin)と
農民が合流して起こした反乱に代表されるように、たびたび反乱が起こります。
(コサックとは、中央アジアで活躍した戦闘集団のことです)
ピョートル大帝
そんなロマノフ朝ロシアが転期を迎えたのはピョートル大帝(Peter I 在位1682〜1725)の治世でした。
ヨーロッパの国々が近代化をとげているころ、ロシアはまだまだ後進国でした。
ピョートル大帝は、ロシアの近代化のため、ヨーロッパに使節団を送り、みずから参加しました。
そして、プロイセンでは砲術、オランダとイギリスでは造船術などを学びました。
帰国後、大帝はロシアを強大な国家にしようと改革にのりだします。
その中心は、国庫をうるおすための税金の徴収や、正規軍をつくるための徴兵令の発令でした。
そのほか、教育にも力を注ぎ、学校を建てたり、研究所を創設しました。
産業の育成にも力を入れます。外国人を多くやとって、技術や資本をとりいれたのです。
またウラル地方での鉱山の開発、造船や兵器工場を進んで建設しました。
1700年から、スウェーデンと北方戦争(Northern War)を起こし、バルト海(Baltic Sea)沿岸に領土を得ました。
この戦争中、大帝はバルト海に面した地に新しい都づくりにとりかかりました。
あれはてた沼地をうめたて、宮殿を建てました。
大帝は、ペテルブルク(Saint Petersburg)と名づけられたこの都市に、都をうつしました。
ペテルブルクは、「ヨーロッパへ開かれた窓」の役割をはたしました。
こうして、ピョートル大帝のもと、ロシアは大いに発展を遂げ、じょじょに国際的な地位を高めていったのです。
女帝エカチェリーナ
東ヨーロッパの大国となったロシアに、1762年、エカチェリーナ2世(Catherine II 在位1762〜1796)が即位しました。
エカチェリーナ2世は、フランス文化にあこがれ、啓蒙思想家ヴォルテール(Voltaire)と文通しておおいに影響を受け、政治改革にとりくみました。
しかし、農奴制は彼女の時代に強化され、農奴の生活は、ますます苦しくなりました。
こうした状況の中で、1773年、プガチョフの反乱(Pugachev's Rebellion)が起こります。
コサックの農民反乱軍の指導者となったプガチョフは、1774年、5万の大軍を率いて、モスクワに進撃する動きを見せました。
エカチェリーナ2世は、軍隊を出してこれを鎮圧し、プガチョフは処刑され、反乱はおさまりました。
反乱鎮圧後、農民への締め付けはさらにきびしくなりました。
1783年、エカチェリーナ2世は、オスマン帝国支配下のクリミア・ハン国(Crimean Khanate)を打ち破り、クリミア半島を制圧。
この結果、黒海はロシアの内海となりました。
クリミア・ハン国とは、15世紀中頃、チンギス・ハンの子孫がクリミア半島にきずいた国です。
これによって、ロシアに対するモンゴル人の脅威は最終的にのぞかれました。
こうしてピョートル大帝が残していった事業は、彼女によってほぼ完成され、ロシアは名実ともにヨーロッパの強国のひとつとなりました。
分割されたポーランド
16世紀以後、ポーランドでは貴族の力が強く、争いがたえませんでした。
1772年、エカチェリーナ2世は、プロイセンとオーストリアをさそって、ポーランド分割をおこなって領土をうばいとりました。
これに対し、ポーランドの人々は民族運動の指導者コシチュシュコ(Kosciuszko)を先頭に戦いましたが敗れ、1795年、ポーランド王国は滅亡してしまいました。
深刻なる住宅問題
ヴォルテールは、ルイ15世の摂政オルレアン公を中傷したかどで、バスチーユ牢獄に一年半も入れられた。
出獄後、摂政殿下にあったヴォルテールは、うやうやしく殿下に挨拶して言った。
「殿下、なにとぞ今後は、わたくしの住宅につきましては、ご配慮下さいますな」