古代ギリシア世界
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都市国家ポリス
BC800年頃から、バルカン半島を中心にギリシア人のポリス(Polis 都市国家)がたくさん建設されました。
ほとんどのポリスは人口が2万にみたない小さなものでしたが、アテネとスパルタは、奴隷をふくめて20〜30万人くらいと思われます。
そして、どのポリスにも神殿が建てられた「アクロポリス」(Acropolis 城山)の丘があり、そのすそのには、裁判民会などをおこなう「アゴラ」(Agora 公共広場)とよばれる場所がありました。
ポリスの政治をおこなったのは、ポリスを守る人たちです。
はじめのうち、武器は高価だったので、ゆたかな貴族しか持てませんでした。
そのため貴族が政治の実権をにぎっていました。
やがて、経済が発展して、平民もゆたかになり、よろいやかぶと、長い槍などを用意して、戦争に参加するようになりました。
やがて、平民も政治に参加する権利を要求するようになりました。
東方のアケメネス朝ペルシア(Achaemenid Persian)との戦争が起こると、とくにBC480年のサラミスの海戦(Battle of Salamis)で、多くの平民が軍艦の漕ぎ手としてポリス防衛に活躍しました。
戦争が終わると、平民にも平等に政治に参加する権利があたえられました。
こうしてペルシアに勝利し、アテネの自由と独立が守られると、市民が話し合いによって政治をおこなう民主政治が始まりました。
アテネでは、将軍ペリクレス(Pericles)の指導により、18歳以上の男子市民が参加する「民会」で、政治が決定される仕組みが完成しました。
また、役人や裁判官は、希望する市民のなかからくじ引きでえらばれました。
しかし、女性やアテネに住む外国人、さらに総人口の3分の1をしめる奴隷には、政治に参加する権利はありませんでした。
経済も文化もおおいに栄えたアテネに対してスパルタが反発し、BC431年からペロポネソス戦争(Peloponnesian war)が起こりました。
この戦争はスパルタの勝利に終わりましたが、その後もギリシアでは、たびたび戦争が起こり、やがて民主政治も失われ、ポリスはおとろえていきました。
(ポリスとは、城壁内部と周辺の農村をあわせたものです。ポリスの数は、最盛期には1500以上あったとみられています。
それだけ多くのポリスが誕生したことには、ギリシアの複雑な地形が関係していました。
ギリシアは、多くの島があるうえ、陸地の地形は、山がちで、しかも海岸線が複雑に入り組んでいるため、古代では各都市間の交流が困難でした。
そのため、統一国家としてまとまりにくく、数多くの都市国家が並び立つことになったのです。
それらのポリスは、互いに戦争や同盟に明け暮れていましたが、統一されることはありませんでした。
しかし同時に、各ポリスの人々は「ギリシア人」としての同胞意識を抱き、その象徴が4年に一度のオリンピックでした。
この大会は、神に捧げる儀式として共同で営まれ、その期間中は、ポリス間のいかなる戦争も休戦状態になりました)
習い性となる
ある人がペリクレスの悪口を言った。
「人気取りのために無理してまじめな顔をしている」
すると哲学者のゼノン
「君もそうして人気を集めるようにするがいい。
まじめな顔をしていれば、だんだん本当にまじめになるさ」
アテネ市(Athens)
ギリシアの政治、経済、文化の中心地。名称は守護神「アテナ Athena」にちなむ。
市内は、北東をペンテリコン山(Pentelikon 1109m)、南東をヒュメトス山(Hymettus 1027m)に囲まれ、
南西部をサロニコス湾(Saronikos)に向かって開くアテネ平野のほぼ中央に位置している。
市の中心にけわしい石灰岩の岩山アクロポリス(Acropolis 156m)が、また北東部には
同じく急峻なリュカベトス山(Lycabettus 277m)がそびえて、この町の景観に著しい特徴を与えている。
アクロポリスは、城壁で囲まれた細長い丘(東西約300m、南北約150m)に神殿が設置されている。
ここでは、市政にかかわる重要な祭儀が行なわれ、また危急の際の避難所ともなった。
アクロポリスのふもとには、アゴラ(Agora)とよばれる公共広場がある。
アゴラの周囲には、ブレウテリオン(Bouleuterion 評議会場)、トロス(Tholos 円堂、評議員詰所)、
ヘリアイア(Heliaia 裁判所)、ストア(stoa 集会所)など、政治的に重要な種々の建物が立っていた。
市民はここで政治、学芸を語りあい、また裁判や交易などもここで行われた。
BC449年、アテネは、ペルシア戦争に勝利してギリシアの指導的ポリスとなり、デロス同盟(BC478 Delian League)
の盟主としてペリクレス(Pericles BC490〜BC429)のもとで最盛期を迎え、
古典文化の中心地としてソクラテス、プラトンなど数多くの哲学者、芸術家が輩出。
ペロポネソス戦争(Peloponnesian War BC431〜BC404)でスパルタに敗れてからしだいに衰え、
BC338年カイロネイアの戦い(Battle of Chaeronea)でフィリッポス2世(Philip II of Macedon BC382〜BC336)に敗れ、
マケドニア(Macedonia)の支配下に入った。
のち共和制ローマ領(BC146)、東ローマ帝国領(395年)などを経て、1460年オスマン帝国(Ottoman Empire)に占領された。