昭和の時代は、日本の中国大陸侵略と共に始まった。第一次世界大戦後の経済恐慌に加え、
関東大震災で受けた深刻な痛手から立ち直るため、日本は中国大陸に権益を求めたのである。
中国満州に動員された兵士の大半は、貧しい農家の子弟だった。かけがえのない働き手を失った
農村は疲弊し、著しい貧困に陥った東北の農村では、女子の身売りや欠食児童が続出した。
だが一方で、三井、三菱、安田などの財閥資本は、折からの軍需景気で巨大な利益を貪り、
これらの財閥と癒着した政治家の汚職事件が頻発し、国民の政治不信はその極みに達していた。
明治憲法により、軍人は政治行為を禁止されていた。だが軍人たちの中に、政治の腐敗が進行すればするほど、
政治への中立を建前とする軍人こそが、唯一の汚れていない強固な権力層であるという自覚が生まれてきた。
彼ら軍人は、現在の悪しき状態を一挙に解決して、より良き日本に造り変えること、そのためには
政財界を牛耳る権力者たちを一掃して、天皇親政の新しい政治体制を作らねばならないと考えたのである。
昭和11年(1936年)2月26日未明、20数名の急進的な陸軍青年将校が、1300名余りの下士官兵を率い、
時の岡田内閣をはじめとする重臣たちを襲撃、殺害するというクーデター未遂事件が発生した。
決起部隊は、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣らを殺害後、国会議事堂・首相官邸周辺を占拠。
この異常事態を受け、翌27日には、東京市に戒厳令が公布される。
青年将校たちは、政党や財閥を解体し、天皇親政の国家を再建し、軍が政治の実権を握ることを目指していた。
軍部の中には、彼らを義挙として高く評価する者、治安を乱す反乱兵士と看做す者と、まっ二つに分かれた。
だが天皇の断固とした指示で、鎮圧軍が出動し、数日間で青年将校たちは降伏した。
クーデターは失敗に終わり、彼らは軍法会議にかけられ、叛乱罪で銃殺刑に処された。
軍法会議はその判決理由の中で「国法を無視し、天皇の大命なくして皇軍を率い、叛乱行為に及んだことは、
その罪、極めて重大である」と判示した。
明治憲法下では、軍は天皇の指揮権の下にあった。天皇の命令もなく、千数百名に及ぶ正規軍を不法に出動させ、
無防備の官邸で残虐な殺人に至った彼らの行為は、独善かつ無謀の極みだったという他はない。
公娼制度
戦前の日本は、公娼制度を採用しており、公認遊郭での売春は適法であった。
遊郭を営む業者と公娼(売春婦)は、国の認可制であり、営業エリアも一定の場所が指定されていた。
当時の日本社会は、貞操観念が強く、自由恋愛を不道徳としており、また多くの人々が生活に困窮
していた。そこでは、社会の安定上、公娼制度は必要な役割を果たしていたのである。
だが公娼になると、外出は制限され、給与の大部分も前借金の返済に充てられ、経済的な自由は
ほとんどなかった。彼女たちは、束縛一色の日々を送りながら、客をとり続けたのである。
1931年(昭和6年)東北地方の大冷害のため、東北六県の農村は窮乏を極めた。
働き手の兄が兵隊に取られ、その妹がついに公娼に身売りという悲劇が珍しくなかった。
こうした事態は、農村出身の青年将校たちに、日本の資本主義社会の矛盾を痛感させ、
ついに「二・二六事件」決起の一因となった。
当時の指導者は、まず農村救済に着手すべきであった。だが彼らは、国内矛盾の解決を大陸に求めた。
近代日本が失敗した原因は、ここにあったのである。