第一次世界大戦
1914年(大正3年)
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真日本史
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1914年(大正3年)ヨーロッパ諸国がドイツを中心とする同盟国と、イギリスを中心とする連合国に分かれ、
第一次世界大戦が始まった。
日本は1902年(明治35年)に締結した日英同盟を名目にドイツに宣戦し、中国の山東半島にあるドイツ軍基地を
攻撃するために出兵したが、主戦場とはならず、ほとんど被害を受けなかった。
日本が参戦した理由は、列強が戦争している間に中国への利権を拡大する狙いがあったからだ。
そこで日本は青島などドイツがもつ権益を接収すると、1912年の辛亥革命で成立した
中華民国の袁世凱政権に「二十一か条の要求」を突きつけ、これを承認させた。
さらにイギリスとは、山東省と赤道以北のマリアナ諸島をはじめとする南洋諸島の
ドイツ権益を日本が引き継ぐことを支持する、という密約を交わしている。
また、大戦は、日露戦争以降の慢性的な不況に苦しんでいた日本に好景気をもたらした。
ヨーロッパに軍需品を輸出したほか、戦争に忙殺されている西欧諸国にかわり、中国向けの
綿織物やアメリカ向けの生糸輸出を増大させた。
加えて、世界的な船舶不足を背景に、造船業は空前の好景気となり、多くの成金を生み出した。
1918年(大正7年)連合国側の勝利で大戦が終わると、日本は翌年のパリ講和会議に五大連合国の一員として出席し、
ほぼイギリスとの密約どおりの権益を確保した。
また、同会議を機に発足した国際連盟では常任理事国となり、世界の主要国へと浮上したのである。
租界
租界とは、阿片戦争以後、中国の開港都市に設けられた外国の租借地区をいう。1845年、イギリスが上海に設けたのが最初。
中国に進出した列強が、中国人との雑居にともなう不便をさけ、みずからの居住・貿易権を確保するために設置した。
上海のイギリス租界は、1863年にアメリカ租界を合併して共同租界となり、フランスも1849年には上海にフランス租界をつくった。
日本も日清戦争後、天津・漢口に租界を開設。第一次大戦直前までに中国に租界をつくった国は8カ国、租界総数は29カ所にのぼった。
租界は時をへるにつれ「外国の領土」と化したが、第二次大戦後、中国はすべてを回収した
夜霧のブルース
1947年 (昭和22年)2月に発表されたディック・ミネの曲。(作詞:島田磬也、作曲:大久保徳二郎)
「青い夜霧に 灯影(ほかげ)が紅い」で始まるこの曲は、彼の独特な歌唱で哀感をうまく表現している。
この曲は、戦時中の敵性音楽追放などといった日本政府の政策により、芸能活動の場を失っていたディック・ミネ自身にとっても
復活を果たした曲でもあり、彼の代表曲ともなった。
歌詞の四馬路 (スマロ) とは、四番街という意味で、戦前の上海にあった歓楽街だが、現在は福州路という名前に変っている。
また虹口 (ホンキュ) は、蘇州河という川を挟んで、その対岸にあった日本人街だった。
歌詞の 「青い夜霧に」 は、黄浦江の河口に租界 (上海バンド) があり、霧のロンドンのように霧が出やすく、そこに歓楽街の紅い灯、
青い灯が映って冒頭の表現となっている。