黒船来航  1853年 (嘉永6年)     歴史年表      真日本史       人名事典)(用語事典
直線上に配置                            

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀沖に姿を現した。

圧倒的な軍事力の前に、幕府はなす術もなく、6月9日、久里浜で大統領の親書を受け取った。

産業革命を迎えていた当時のアメリカは、巨大市場である清との貿易のため、太平洋航路の開発を急いでいた。

だが貿易に不可欠の蒸気船は、大量の石炭を必要とし、その補給基地として、日本は最適の位置にあったのだ。


親書には、石炭の確保とともに、日本と通商したい旨が記されていた。幕府側は「将軍が病気であり決定できない」
として返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは、翌年再び来航することを告げ、3日後日本を出航した。

あたかも日本の立場を尊重したかのようだが、滞在に必要な食糧不足が深刻という、ペリー側の事情もあったのだ。

外交問題には挙国一致で臨むことが必要と考えた幕府は、親書を諸大名に提示し、広く意見を求めた。

だがこうした措置は、諸大名の発言権を増大させることになり、その後の幕藩体制をゆるがす契機となった。


多くの大名は、アメリカの要求を拒絶すべしとしたが、軍事力を見せつけられた幕府は、要求を拒むことができず、
嘉永7年(1854年)3月3日、再来航したペリーとの間で日米和親条約を締結し、やむなく下田と函館を開港した。

ここに3代将軍徳川家光以来200年続いた鎖国政策は、外国の武力の威嚇によって終結を迎えることになる。

徳川幕府は、その政治的主導力と影響力の低下を、如実に露呈することになったのである。


浦賀に来航したペリーは、当時の浦賀奉行所与力、香山栄左衛門らを黒船に乗せて見学させている。

そのときペリーは、自身の日記の中で、日本の奉行たちについて次のように述べている。

「日本の役人たちは、きわめて紳士的な態度で、節度あるマナーを終始崩すことはなかった。
彼らはみな社交的で洗練されており、知識や教養も相当高かった」(ペリー提督日本遠征記)


香山らは、地球儀を見せられると、ワシントンとニューヨークを即座に指さし、またヨーロッパの国々
についても正確に示した。パナマ運河が完成したかどうかまで尋ねて、ペリーを驚かせた。

また蒸気船の艦内を見学した時も、冷静で最新式の大砲の名も正確に言った。

対外的に危機意識が強かっただけに、武士たちはかなり勉強していたのである。


直線上に配置


                                             


1853年 (嘉永6年) 6月3日 ペリー、浦賀に来航
1854年 (嘉永7年) 3月3日 日米和親条約調印、下田と函館を開港
1854年 (嘉永7年) 3月27日 吉田松陰、ペリー艦隊で密航を企てるが失敗
1856年 (安政3年) 8月5日 アメリカ総領事ハリス、下田着任
1858年 (安政5年) 4月23日 井伊直弼、大老となる
  1858年 (安政5年) 6月19日    日米修好通商条約を締結、4港を開港
1858年 (安政5年) 9月7日 安政の大獄始まる(〜1859)
1860年 (万延1年) 1月13日 咸臨丸、アメリカへ出航(勝海舟)
1860年 (万延1年) 3月3日 桜田門外の変、井伊直弼、暗殺される
1862年 (文久2年) 1月15日 坂下門外の変、老中・安藤信正、襲撃される
1862年 (文久2年) 2月11日 皇妹和宮、第14代将軍徳川家茂に降嫁
1862年 (文久2年) 8月21日 生麦事件、薩摩藩士がイギリス人を殺傷
1863年 (文久3年) 5月1日 長州藩、下関で外国艦を砲撃
1863年 (文久3年) 3月13日 芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら新選組結成
1863年 (文久3年) 7月2日 薩英戦争、英軍艦、鹿児島を砲撃
1864年 (元治1年) 6月5日 池田屋事件、新選組が尊王攘夷派志士を殺傷
1864年 (元治1年) 7月19日 蛤御門の変、長州藩、御所を攻撃し敗れる
1864年 (元治1年) 8月2日 第1次長州征伐
1864年 (元治1年) 8月5日 四国艦隊下関砲撃事件
1866年 (慶応2年) 1月21日 薩長同盟成立
1866年 (慶応2年) 4月19日 第2次長州征伐
1866年 (慶応2年) 12月5日 徳川慶喜、第十五代将軍に就任
1867年 (慶応3年) 10月13日 薩摩・長州藩に討幕の密勅
1867年 (慶応3年) 10月14日 第15代将軍徳川慶喜、大政奉還
1867年 (慶応3年) 11月15日 坂本龍馬暗殺
1867年 (慶応3年) 12月9日 王政復古の大号令
1868年 (慶応4年) 1月3日 戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)
1868年 (慶応4年) 3月13日 勝海舟と西郷隆盛、会談
1868年 (慶応4年) 3月14日 明治天皇、五箇条の御誓文を発する
1868年 (慶応4年) 4月11日 江戸城無血開城
1868年 (慶応4年) 5月15日 彰義隊、上野で新政府軍と戦い敗退
1868年 (慶応4年) 7月17日 江戸を東京に改称
1868年 (慶応4年) 8月23日 新政府軍、会津若松城を攻撃、白虎隊自刃
1868年 (明治1年) 9月8日 元号を明治と改元
  1869年 (明治2年) 5月18日   箱館・五稜郭陥落、榎本武揚ら降伏



ペリー、浦賀に来航

1853年6月、アメリカの提督・ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖(横須賀)に来航し、
開国を迫った。

これ以上、外国人を追い出そうとする攘夷を続けるのは不可能と考えた幕府は、
翌年1854年、日米和親条約を調印し、下田と函館を開港した。


安政の大獄

大老・井伊直弼が反対派に下した弾圧事件(1858〜1859年)

将軍継嗣問題で井伊が紀州の徳川家茂を擁立、また天皇の許可を得ずに日米通商条約
を調印した。これを徳川慶喜を推す一橋派が批判。

これに対し井伊が同派の公卿・諸大名らを罰し、吉田松陰・橋本左内ら多数の尊王攘夷派
の人士を投獄・処刑した。


桜田門外の変

1860年3月3日、大老・井伊直弼の安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸・薩摩の浪士ら
18人が、桜田門外で直弼を暗殺。


坂下門外の変

井伊直弼の後をうけた老中・安藤信正の公武合体の政策に反対して、水戸浪士ら6人が、
1862年1月15日、坂下門外で信正を襲撃した事件。信正は負傷、老中を辞職。

公武合体政策とは、朝廷の権威と結びつくことによって幕藩体制を建て直そうとした政策で、
1862年孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂との結婚は、この政策の一つであった。


生麦事件

1862年8月21日、薩摩藩士が起こした英国人殺傷事件。

薩摩藩主・島津久光の行列が生麦(横浜市鶴見区)にさしかかった際、イギリス人4人が
騎馬のまま行列に遭遇、怒った従士が無礼打ちにし、1名を斬殺、2名を負傷させた事件。

幕府は英国の要求に応じて賠償金を支払ったが、薩摩藩は犯人逮捕に応じなかったので、
翌年、英軍艦の鹿児島砲撃(薩英戦争)の原因となった。








池田屋事件

1864年6月5日、長州・土佐・肥後各藩の尊攘派志士約30名が、京都三条小橋の旅宿池田屋に集まり謀議中、
新選組に襲撃され、尊攘派志士ら多くの死傷者を出した事件。
長州藩の憤激を呼び、蛤御門の変のきっかけとなった。



蛤御門の変

1864年7月、長州藩が池田屋事件の形勢挽回のため京都に出兵、京都守護職・松平容保の率いる諸藩の兵と
宮門付近で戦って敗れた事件。禁門の変ともいう。



第1次長州征伐

蛤御門の変で、長州藩が皇居へ発砲したことを理由に幕府が長州藩へ出兵。これに対し長州藩は、蛤御門の変の
責任者として家老3名を切腹させ、幕府に謝罪の意を示したため、幕府側の不戦勝に終わった。



四国艦隊下関砲撃事件

1864年8月5日、英・米・仏・オランダの四国連合艦隊が下関海峡から長州藩を攻撃し、一部は上陸して
藩兵と戦い、沿岸の砲台を全滅させた事件。

前年長州藩が攘夷決行のため海峡航行中の米・仏・オランダの船舶を砲撃したことへの報復と、
長州藩や幕府の攘夷主義を粉砕するのが目的であった。

この事件は、長州藩内尊攘派が攘夷を捨てて開国に転ずる契機となった。



薩長同盟

1866年1月21日、長州再征を前に、対立していた薩長両藩が幕府に対抗して協力することを約束した攻守同盟。
坂本竜馬が仲介した。



第2次長州征伐

長州藩では、急進派の高杉晋作らが奇兵隊以下諸隊の軍事力を背景に打倒幕府の姿勢を示した。

そのため、幕府は1866年4月、長州再征を行ったが、洋式の兵器を備えた長州軍を相手に苦戦し撤兵。
以後、幕府の権威は急速に失われた。



大政奉還

1867年10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し入れ、翌15日、
朝廷はそれを受け入れた。

これによって鎌倉幕府以来、約700年続いてきた武家政治は終了した。



王政復古

1867年12月9日、天皇は王政復古の大号令を発した。これは、徳川慶喜の将軍辞職と、徳川家の
領地没収を意味するものであった。

これにより、天皇が総裁・議定・参与の三職を通じて行政権を行使する明治政府が発足
(1867年12月9日)した。



戊辰戦争

1868年1月3日から1869年5月18日まで行われた新政府軍と旧幕府側との戦いの総称。
鳥羽・伏見の戦い、上野戦争(彰義隊の戦)、会津戦争、箱館戦争などを含む。