「判官びいき」という言葉がある。戦の天才で、平氏追討の大功を果たしたものの、
兄の頼朝の反感をかって、非業の最期を遂げた義経に、同情心をよせる言葉である。
だが義経をひいきするあまり、兄の頼朝のほうは「憎まれ役」になっているようだ。
肉親である弟を滅ぼしてしまったことから冷酷さ、非情さを感じてしまうのだろう。
ならば何故、頼朝は義経を破滅に追い込んだのか。義経さえ適当に処遇しておけば、
後世の人々から、あまりに非情すぎると、批判されることはなかったのではないか。
だが武家社会の歴史を振り返ってみれば、肉親の殺害などはむしろ日常茶飯事といえるのだ。
頼朝の父の義朝は、保元の乱で、敵方についた父と弟たちを斬らねばならなかった。
足利尊氏も、織田信長も、毛利元就も、伊達政宗も、家督争いで弟を殺害している。
血縁者、すなわち権力者に取って代わる位置にある者は、粛清される危険を有しているのだ。
もしこのまま義経を生かしておけば、頼朝がまとめあげた東国の武士団はどうなっていたか。
彼らはやがて義経派と頼朝派に分裂して相争い、組織は崩壊して統治不能になるであろう。
武士団を統率する棟梁として、殺すべき者は殺す、ここに権力闘争の悪を見ることができる。
義経の死後、静御前は男児を出産するが、無理やり奪われ、由比ヶ浜に捨てられる。
やがて、頼朝から「白拍子を舞え」と命ぜられた静は、義経を慕う和歌を歌い舞う。
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき … 」
頼朝の面前で、堂々と義経をなつかしみ、慕う歌を歌って頼朝を激怒させてしまう。
そのとき、頼朝の妻、北条政子が「静が義経どのをなつかしく思うのはあたりまえ。
私も静であったなら、同じように歌うでしょう」そう言って、頼朝を諫めたという。
歴代将軍、執権名、生没年、在位期間
壇ノ浦で平氏滅亡の宿願を果たした義経だったが、かえって政局は緊迫の度を増す。
天下創建への時流を掴んだ頼朝。これに対し新たな手を打つ後白河法皇。
頼朝の勢力増大を恐れた後白河法皇は、軍事に優れた義経を重く用い、頼朝追討の命令を下す。
だが頼朝を重んじる武士たちは動かず、孤立した義経は、奥州藤原秀衡の元に落ち延びる。
文治3年(1187年)頼朝に追われた義経が奥州平泉にたどり着いた時、秀衡は暖かく迎え入れた。
平氏が滅んだ今、頼朝が新政権を確立すれば、奥州藤原氏は崩壊の危機に直面することになる。
そんなところへ、頼朝が恐れる軍事の天才・義経がころがりこんできたのである。
すなわち義経が奥州にあるかぎり、奥州の安全は保証されたも同然であったのだ。
だが同年、義経と藤原氏、双方にとって不運なことに、藤原秀衡は病死してしまう。
新たに当主となった秀衡の息子・泰衡は、凡庸の徒であった。
これを奥州制圧の絶好の機会とみた頼朝は、泰衡に次のような書状を差し出す。
「義経を匿った罪は許し難い。だが義経の首を差し出せば、事を穏便に済ませてやる」
書状の文言に恐れをなした泰衡は、義経の居住する衣川の館を攻め、義経は自刃する。
泰衡は義経の首を鎌倉へ送った。「これで藤原氏も安泰だ」と思ったろう。
だがこれは頼朝の策略だった。文治5年(1189年)頼朝は大軍を率いて奥州を攻め、藤原氏を滅ぼす。
建久3年(1192年)法皇の死去にともない、頼朝は、後鳥羽天皇より征夷大将軍に任ぜられた。
頼朝は、源氏ゆかりの地、鎌倉を根拠地として政権を樹立、ここに鎌倉幕府が成立したのである。
平安時代(794年〜1192年) | ||||||
794年 | (延暦13年) | 平安京遷都 | ||||
802年 | (延暦21年) | 坂上田村麻呂 蝦夷を降伏させる | ||||
866年 | (貞観8年) | 藤原良房が摂政となる | ||||
887年 | (仁和3年) | 藤原基経が関白となる。摂関政治が始まる | ||||
894年 | (寛平6年) | 菅原道真が遣唐使の廃止を提唱 | ||||
1016年 | (長和5年) | 藤原道長が摂政となる | ||||
1051年 | (永承6年) | 前九年の役(〜1062) | ||||
1083年 | (永保3年) | 後三年の役(〜1087) | ||||
1086年 | (応徳3年) | 白河上皇が院政を開始 | ||||
1095年 | (嘉保2年) | 北面の武士を置く。武士の台頭 | ||||
1156年 | (保元1年) | 保元の乱 | ||||
1158年 | (保元3年) | 後白河天皇、上皇に | ||||
1159年 | (平治1年) | 平治の乱 | ||||
1160年 | (永暦1年) | 源頼朝、伊豆に流罪 | ||||
1167年 | (仁安2年) | 平清盛が太政大臣となる。平氏全盛期 | ||||
1169年 | (嘉応1年) | 後白河上皇、法皇に | ||||
1179年 | (治承3年) | 平清盛、後白河法皇を幽閉 | ||||
1180年 | (治承4年) | 安徳天皇即位 | ||||
1180年 | (治承4年) | 以仁王、源頼朝挙兵 | ||||
1180年 | (治承4年) | 富士川の合戦 | ||||
1181年 | (養和1年) | 平清盛死去 | ||||
1183年 | (寿永2年) | 後鳥羽天皇即位 | ||||
1184年 | (寿永3年) | 一ノ谷の戦い | ||||
1185年 | (元暦2年) | 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡 | ||||
1185年 | (元暦2年) | 源頼朝、守護、地頭の任命権を得る | ||||
1185年 | (元暦2年) | 源義経、奥州へ落ちる | ||||
1187年 | (文治3年) | 藤原秀衡、義経を匿う | ||||
1189年 | (文治5年) | 源義経、自害 | ||||
鎌倉時代(1192年〜1333年) | ||||||
1192年 | (建久3年) | 源頼朝、征夷大将軍となる(鎌倉幕府) | ||||
1221年 | (承久3年) | 承久の乱 幕府軍が朝廷軍を破る | ||||
1232年 | (貞永1年) | 御成敗式目を制定する | ||||
1274年 | (文永11年) | 元・高麗軍が対馬・壱岐を襲撃し、 | ||||
九州に上陸する(文永の役) | ||||||
1281年 | (弘安4年) | 元・高麗軍、再度襲来(弘安の役) | ||||
1297年 | (永仁5年) | 武士の窮乏を救うため、徳政令を発令 | ||||
1331年 | (元弘1年) | 元弘の変 | ||||
1333年 | (元弘3年) | 足利尊氏、新田義貞挙兵、 | ||||
鎌倉幕府(北条氏)滅亡 | ||||||
1334年 | (建武1年) | 後醍醐天皇による建武の新政 | ||||
1336年 | (建武3年) | 湊川の戦い | ||||
1336年 | (建武3年) | 足利尊氏が北朝の天皇を立て | ||||
南北朝時代始まる | ||||||
平安時代
平安時代(794年〜1192年)は、794年桓武天皇の平安京(京都)遷都から、
1192年鎌倉幕府の成立まで約400年、政権の中心が平安京にあった時代を指す。
前九年の役
1051年(永承6年)陸奥(東北)の豪族安倍氏が反乱を起こし(〜1062年)
源頼義・義家親子が鎮圧した。後の後三年の役(1083年)とともに源氏が
東国に勢力を築くきっかけとなった。
後三年の役
1083年(永保3年) 出羽(山形県)の豪族清原氏の一族内の争い(〜1087年)
源頼義・義家親子が平定し、これによって源氏は関東に勢力を強めた。
北面の武士
院の御所の北面(きたおもて)にあって、院中を警護した武士。
1095年(嘉保2年)白河上皇の時に始まる。武士台頭の契機となった。
保元の乱
1156年(保元1年)天皇と上皇の対立が藤原氏の内部争いに結びつき、
武士をまきこんだ内乱となり、天皇側が勝ち、上皇は讃岐に流された。
天皇側に味方をした平清盛・源義朝は力をみとめられた。この内乱は、
貴族の無力化と武士の実力を示した事件で、武士の中央進出を促した。
平治の乱
1159年(平治1年) 平清盛と源義朝が対立し、義朝が破れた内乱。
義朝の子頼朝は、伊豆に流罪となった。
源氏の勢力は衰退し、平氏が台頭するきっかけとなった。
富士川の合戦
1180年(治承4年)源頼朝の軍と、頼朝征討のため京都から下向した
平維盛(これもり)の軍が、富士川を挟んで行った合戦。
平氏軍は水鳥の羽音を敵の襲来と誤認して敗走したという。
一ノ谷の戦い
1184年(寿永3年)2月、一ノ谷(神戸市須磨区)で行われた源平の戦い。
勢力挽回を図る平氏は摂津福原に進出したが、源義経は鵯越(ひよどりごえ)
の嶮を一ノ谷に攻め下り、平氏を海上に敗走させた。
壇ノ浦の戦い
1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦(下関)で行われた源平最後の合戦。
源氏は義経を総大将とし、激戦の後に平氏は全滅し、二位尼(平清盛の妻)は
安徳天皇を抱いて海中に投身した。
鎌倉時代
鎌倉時代(1192年〜1333年)は、源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉に
幕府を開いた1192年から、鎌倉及び六波羅探題等の拠点が新田義貞・足利尊氏
らによって陥落し、北条高時が滅亡した1333年までの約150年間を指す。
承久の乱
1221年(承久3年)京都の朝廷と鎌倉幕府との間に起こった争乱。
公家勢力の回復を志していた後鳥羽上皇は、源頼朝死後相次ぐ有力御家人の
反抗など幕府内の混乱と将軍実朝の死(1219年)を契機に、討幕計画を進め
北条義時追討の兵を挙げたが、これに対して幕府側は、北条政子のよびかけで
御家人の団結をかため、勝利をおさめた。
乱の後、後鳥羽上皇は隠岐に流され、朝廷の勢力はおとろえた。
幕府は京都に六波羅探題をおき、朝廷や西国武士を監視した。
御成敗式目
1232年(貞永1年)3代執権・北条泰時が制定した御家人に対して公平な裁判を
行うための基準。51か条からなり貞永式目ともよばれる。最初の武家法で、
戦国時代の分国法や江戸時代の武家諸法度の手本となった。
元寇
元のフビライハンが日本征服をたくらんで日本に来襲した事件。
文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2度の戦い。
執権・北条時宗の統率のもと、御家人たちがよく戦い、嵐のおかげもあって
元軍をしりぞけた。元寇の後、3度目の襲来に対する備えもあり、
幕府の財政が悪化、恩賞をもらえない武士の不満が高まった。
元弘の変
1331年(元弘1年)後醍醐天皇が企てた打倒鎌倉幕府の計画。
未然に露見し、天皇は隠岐(おき)に流された。
この後、楠木正成らの反幕府軍が各地に蜂起し、足利尊氏、新田義貞らの
有力な武将も幕府にそむき、鎌倉幕府は滅亡した。
建武の新政
1334年(建武1年)後醍醐天皇は天皇中心の政治を復活させたが、公家を重んじ
武士への恩賞も不公平で、宮殿の造営費を武士に負担させたため、武士の不満が
高まった。 足利尊氏が建武政府にそむいて兵をあげ、天皇は吉野にのがれた。
尊氏は京都に別の天皇をたてた。これによって、新政はわずか3年で崩壊した。
湊川の戦い
1336年(建武3年)九州から東上した足利尊氏の軍が兵庫湊川で
新田義貞・楠木正成らを破った戦い。正成は戦死した。
南北朝時代
1336年(建武3年)後醍醐天皇が大和国吉野に入ってより、1392年(元中9年)
後亀山天皇が京都に帰るまで、吉野の朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)とが
ならびたった57年間を指す。
1392年、足利義満が南北朝を合一し南北朝時代は終わった。