結婚の章
昭和七年秋、慶応の水原が起こした「リンゴ事件」をネタに加えた新作の『早慶戦』は最高の人気
を博しました。このころになると、新しい漫才の火つけ役であったエンタツ・アチャコだけでなく、
他の漫才師も売れ始め、すっかり漫才ブームになっていました。そう、裄乃さんが目をつけた新しい
漫才はしっかり商いになってきたわけです。
台本書きに追われ、猛烈に忙しいそんなある日、僕はバッタリ合ったのです。彼女に。ええ、賀津
に。それも国分の家の前で、です。驚きました。賀津が大阪にいることにも、賀津があまりにきれい
になっていることにも。聞けば、お春さんといっしょにこっちに来て一年半になるとか。あ……、国
分のあと追ってきたのやなとピンと来ました。
立ち話をしていると、国分の親父さんが出てきました。すると賀津はあわてて逃げるように帰って
いくのです。親父さんは、
「あの娘、いっつも外から良輔の部屋、ながめとってな、近ごろでは顔見知りになってしもうたわ。
けど良輔、あんな娘、見たこともない言うんや。そればっかしか、父さんに惚れてんのやないか、や
て。冗談やおまへん」
その言葉に、ハッとしました。国分は賀津に対する僕の気持、知っているに違いありません。
それからしばらくたったある日、お春さんが小さなレストランを始めることになったと聞きました。
長年かけてためた金でレストランを開くなんて、お春さんも大した女です。
賀津は昼はレストランの従業員として働き、夜は店の二階の六畳にお春さんと暮らすようになりま
したが、思ってもみない事態がもちあがりました。賀津、寝るところがなくなったのです。ええ、そ
の……つまり、お春さんに恋人ができて毎日やってくるわけです。賀津だって毎日店の椅子で寝るわ
けにもいきません。どうしようと思っていると、お袋がうちに下宿させようと言い出したのです。う
ちに遊びにきては、お袋に得意の洋裁なぞ教えてくれる賀津はお袋のお気に入りでした。
結局、ためらう賀津を口説いて、お袋は強引に下宿人にしてしまいました。僕にしたって、やっぱ
り複雑な気分です。賀津が一つ屋根の下にいるというのは……。
だけど、そんなことにかまけていられない事件が起きたのです。エンタツとアチャコの仲がこじれ
だしたのです。人気がありすぎることが、二人にとつて知らず知らずの間に大きな負担になっていた
ようでした。
そして、昭和九年秋、大流行の『東京音頭』が、この浪花の町にも響きわたっているころでした。
軽快なその歌とは反対に、僕の心は重くふさいでいました。
エンタツ・アチャコが『早慶戦』を最後にコンビを解消するのです。今や大スターの二人ですが、
舞台を降りると口もきかない関係にまで進んでいました。もともと性格が違いすぎていたのですが、
僕は何とか三人で面白い漫才を創ろうと、ネタのセリまでやって二人を刺激したのです。つまり、新
しいネタを漫才師たちにせらせて売るわけです。漫才ブームの中、彼らは新しいネタの取り合いをし
ていましたが、二人はセリにも好奇心を見せませんでした。
僕はあえて引き止めることをせず、新しいエンタツ・アチャコを探す方に考えを変えました。もは
や、庶民の間に根を広げている「新しい漫才」をつぶすわけにはいきません。
さて、賀津のわが家への下宿は、国分を含んだ三人の仲を少しギクシャクさせました。今までどお
り毎日のようにうちに来る国分を待つ賀津。それを知って二人にしてやる僕。怒る国分。
妙な関係が続いたある日、またまた意外な話が飛び込んできました。
賀津の縁談です。
隣町の大工さんが、賀津を見初めたのです。
もう、お袋は大張りきりで、僕の気持なんか、いや、賀津の気持なんか確かめもせず、どんどん話
を進めます。
賀津は承諾しました。ずっと賀津を見ていた僕には、彼女の気持の変化がよくわかりました。初め
は気が進まなかったのです。だけど、いつまでも国分を想っていたところで無駄だと自分に言いきか
せたのでしょう。
あとで知ったのですが、賀津はかつてお春さんの店で国分本人の口から聞いたそうなのです。「裄乃
さんが好きなんや」と。それに何よりも、大工さんは頼りになるタイプの男でした。
こうした賀津の決心に、僕は内心おだやかではありません。平静を装ってはいましたが、寄席に行
っても仕事にならないのです。お袋はあのとおりお調子者ですから、見合い、結納と、どんどん進め
ていきます。こういう時はやたら手際がいいお袋に、何度心の中で「このクソババア!」と叫んだか。
仕事でもミスが続き、僕は賀津のことを考えただけで息苦しくてなりません。もうダメだ! つい
に国分に相談しました。
国分は、賀津は大工さんといっしょになった方がいいと言いました。どうも言葉の感じから、自分
を追ってやってきた女が、親友の女房になるのは気まずいという苦しさが読みとれました。
もっともなことです。ワラにもすがる思いで裄乃さんにも相談しました。国分と同じ答えでした。
でも僕は、二人の言うとおりにしませんでした。いくら言い聞かせても、体も頭も言うことを
きかないのです。ダメなのです。賀津しかないのです。
結納の当日、僕は賀津を奪い取り、そして、一生懸命、プロポーズしました。
「一生懸命」しか僕には手がなかったのです。
黙って僕を見ていた賀津の目が、ほんのり微笑んだように見えました。
なぜだか知りませんが、賀津がさくら色に見えました。
昭和九年秋、僕たちは結婚しました。厳密に言うと法的に夫婦になったのは僕と賀津ですが、
結婚式で婿の席に座っているのは国分でした。
僕は東京で映画のシナリオを書いており、どうしても大阪に帰れず、国分に代役を頼んだのです。
賀津はかえって喜んでるかもしれん、イヤ、せっかく国分を忘れたのに残酷やったかなァ……。
いろんな思いが交錯しました。でも、結婚式なしでは賀津がかわいそうです。
式のあと、賀津は東京へやってきました。裄乃さんのはからいでした。でも、こつちは賀津と会う
どころではなく、部屋にカン詰めになって執筆に追われていました。初夜からこれですから、賀津に
とっては結婚とは名ばかりだったろうと思います。優しい言葉をかけたのは、新婚数か月の間に一度
もありません。仕事で帰宅できない日が続き、たまに帰っても台本を抱えて部屋にこもりっきりでした。
一度、ついに賀津がくってかかってきたことがあります。本当に私が必要なのか、それとも単なる
奉公人なのか、というような怒りでした。僕は台本を読みながらフムフムと生返事を繰り返すだけで、
とても賀津の心を思いやる余裕はありませんでした。
そんな賀津のたまりにたまった怒りが、ついに爆発したのは、昭和九年九月二十一日のことでした。
あの室戸台風が京阪神を直撃した日です。風速六十メートルの暴風雨と高潮が、大阪の街を呑み込み
ました。電気も電話も交通も、あらゆる機能がストップしました。
賀津は必死に戸板を押さえ、浸水から家具を守ろうと懸命でした。そんな中で、僕はロウソクを灯
し、漫才台本を書いていました。締め切りが迫っていて、一秒たりとも惜しかったのです。何度も、
「あなた、手伝うて、押さえて!」
と賀津の声がしたような気もします。けど、実はよく聞いてませんでした。
「もう、うち、知らんッ!」
その声だけはハッキリ聞こえました。それと同時にドドーッと水が部屋になだれ込んできました。
賀津が戸板を押さえる手を離したのです。事の重大さに初めて気づき、僕もあわてて戸板を押さえま
した。男だって支えきれない風圧が、戸板を通して伝わってきました。
そしてこの年、国分も丸福興行に入社しました。丸福興行で喜劇を書いて、小説とは違ったジャン
ルを開拓しようとしたのです。
これは僕にとつても刺激になる嬉しいことでした。またガッチリ二人三脚です。そんな二人を、寂
しそうに見ている賀津の目に、僕は気づきませんでした。思えば、国分のためなら何を放り出しても
女房のためには何-つしない亭主に、賀津はずいぶん寂しい思いをしていた
に違いありません。
でも、賀津の体には僕の小さな生命が宿っていたのです。