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離反の章

昭和十年春。
エンタツ・アチャコのコンビ解消以来、これといった漫才コンビのいない丸福興行でしたが、入社
したばかりの国分の発案で、「漫才学校」を開校することにしました。新人を育てる養成機関です。

臨月の賀津をお袋にまかせっばなしで、学校設立に走り回るのは後ろめたい気もしたのですが、
とにかく夢中の毎日でした。

そんなある日、ついに賀津の堪忍袋の緒が切れたのです。
「お暇をいただきとうございます」

あらたまって言われてさすがに驚きました。臨月の時くらい優しくしてくれるだろうと思っていた
らしいのです。僕は驚きながらも、まさか産み月になって出ていくことはあるまいとたかをくくって
いました。が、賀津は本当に出ていってしまいました。何一つ反省の色を見せない亭主に愛想をつか
してしまったのです。両親も国分も大騒ぎで捜し回りましたが、それでも僕はまだたかをくくってい
ました。あの大きなお腹です。今に帰ってくるさと思っていました。

ところが、数日たっても音信不通です。お春さんのところにも来てないといいます。さすがにあわ
てた僕は当てもなく大阪の下町を捜し回りました。そしたら、通天閣の下で会ったのです。ずいぶん
会わなかったとはいえ、まぎれもなく懐かしい横顔を見せて将棋をさしていました。え? 違います、
賀津じゃありません。ビリケンです。巡業先で別れて、今は成人したビリケンです。
何だか恥ずかしくて顔を出せなかったと声をつまらせるビリケンと再会を喜んでいるところへ、血
相を変えてお春さんが飛んできました。
「大変ッ。来てッ。生まれちゃうよ」
賀津はやっばりお春さんのところにいたのです。こうしてみんな集まって大騒ぎの中、賀津は無事
に長女清子を産みました。会ったばかりというのに産婆を迎えに走ったり大活躍のビリケンは、以来、
僕の番頭役のようになってくれました。

清子は本当に可愛い子でした。親バカと言われようが、もう愛しくて愛しくて僕はなめるように可
愛がりました。そんな父親ぶりに賀津もしばらくは満足だったようです。
でも、また怒り出す事態が起きてしまったのです。
それは、漫才学校で発掘した逸材、ミスワカナの出現でした。二十五歳のワカナは美人の誉れ高い
漫才師で、僕は彼女のキラメキ、才能に惚れ込んでしまったのです。狭い家に勝手に同居させてしま
ったのですから、産後まだ床についている賀津が怒るのもわかります。しかし、賀津や両親の怒りの
原点は、僕のワカナを見る目が「恋」の目だというところなのです。いくら才能に惚れているだけだ
と言っても信じてくれません。

ワカナは生来、あけっぴろげな性格で、誰がいようと下着姿になったりする女です。この魅力的な
小悪魔の出現で、わが家はてんやわんや。どうにもならず、国分の家に移すことにしました。
ところが今度は国分家が大騒ぎです。親父との男所帯に美人が入ったため、親子の間が気まずくな
ったばかりでなく、親父の女性まで怒鳴り込んできて、騒ぎは大変なものになりました。
しかし、この騒動もワカナの同い年の亭主、玉菊一郎の出現でおさまりました。二人は駆け落ちし
て全国を渡り歩き、大阪へ戻ってきたという過去があったのです。
一郎はうすぼんやりした小太りの男で、ワカナほどの女がなぜ……と思いましたが、ワカナは彼を
まるで宝物のように扱い、彼との生活のために必死で働く可愛い一面をもっていたのです。ともあれ
僕は、このワカナを通じ、夢がぐんぐんふくらんでいく思いでした。

二年後の昭和十二年には、ワカナと一郎のコンビはもうじゅうぶん世間に通用するところまで育っ
ていましたが、それでも僕は舞台にはまだ出さず、厳しく指導を続けました。満を持したところで出
し、世間をアッと言わせたかったのです。実際、それほどのコンビでした。
賀津は二人目の子供を身ごもっていましたが、やはり僕はいい亭主ではありませんでした。ワカナ
と一郎の指導などで帰宅できない日も多く、帰ってもすぐ原稿用紙を広げてしまうのです。
寂しい賀津を慰めてくれるのは国分でした。三十二歳とはいえ独身の国分に、この人と結婚してい
たらどれほど幸せだったことか、と賀津が思うのも無理からぬ話ではありました。しかし、国分の胸
中はもっと苦しかったのです。丸福興行に入ったおかげで裄乃さんのそばにいることが多くなり、恋
心を抑えるのに大変な思いをしていたのです。
こうしたある日、裄乃さんと相談の結果、いよいよワカナと一郎を舞台に立たせることにしました。
二月には大松映画の関連会社が合同して「大松株式会社」を作り、演芸にも進出してくるという情報
があり、丸福としては、その前に地盤を固めておきたかったわけです。

ところが、二人の初舞台がいよいよ明日に迫った時、ワカナが失踪しました。彼女は恋多き女でし
た。今回も恋人と逃げてしまったのです。ビリケンといっしょに、手をつくして捜しましたが見つか
りません。初舞台は明日です。アナなどあけたら大松を向こうに回してそれこそ一敗地にまみれてし
まいます。僕もビリケンもジリジリと焦ってきました。ところが、ワカナは意外なところにいたので
す。僕の家で、賀津にすがって泣いていました。恋人に捨てられ、一人戻ってきたのでした。
賀津は確かに漫才に腹を立てていました。漫才のせいで亭主は仕事一辺倒で、自分は寂しく、苦労
を強いられていると思っているようでしたが、金の無心や相談事で飛び込んでくる芸人には決して嫌
な顔をしませんでした。泣きじゃくるワカナの背を黙ってさすっている賀津をそっと見ながら、僕は
いつの間にか賀津をも漫才に巻き込み、漫才屋のおかみさんにしてしまったと、ひどく賀津がいとお
しくなりました。

ワカナ・一郎の初舞台はのちの大人気を予測させる反響で、大松と闘える自信を僕らにもたせてく
れました。が、丸福興行は内憂外患を抱えていたのです。
このころから、芸人たちの裄乃さんに対する反感が表立ってきたのです。

昭和十三年の春になると、もうその反感は火を見る寸前までいっていました。芸人たちの給金をし
ぼりあげ、営利主義に走っているというのが大方の不満で、芸人たちは入れかわり立ちかわりうちに
来ては、ぐちりました。僕の中には裄乃さんほどの人が私利私欲に走るはずはない、という確信はあ
りましたが、芸人たちの言い分にも一理あるので、ある日、裄乃さんと話し合うつもりで部屋をのぞ
きました。裄乃さんは、とてつもない商談中でした。通天閣を買おうとしていたのです。あの通天閣
です。浪花のシンボルともいうあの通天閣です。

大阪の庶民は通天閣に特別な思いを抱いています。それを庶民芸能の興行主である裄乃さんが買い
取る……それは裄乃さんにとって到達点を意味しています。通天閣が売りに出されている今、何とし
てもこのチャンスをのがしたくなかったのでしょう。それで無理をしていたのか……僕は結局、黙っ
てその場を離れました。
しかし、その後も些細な行き違いが積み重なって、僕と裄乃さんとの間にまで微妙な溝ができ始め
ました。

そして、この年の四月一日、国家総動員法が公布され、世の中の様子は日に日に変わっていきまし
た。さすがの裄乃さんも通天閣を買うのを思いとどまらざるを得なかったようです。
そんな中で、僕は落語・漫才の戦線慰問団「笑わし隊」の団長として満州に行くことになり、また
また大忙しで、裄乃さんとの溝などと言ってはいられません。それに一致団結しなければならない事
態が持ち上がっていました。大松株式会社が作った大松キネマ演芸部が道頓堀浪花座での旗揚げを控
え、丸福の芸人の引き抜きを始めてきたのです。

昭和十三年春、ワカナと一郎を含む「笑わし隊」は満州の演芸慰問を続けていましたが、妙な男が
ずっとつけてくるのです。どうもワカナをマークしているようで、どこに行くにもピッタリつけてき
ます。見ると、それは大松キネマの企画部長渡辺謙という男でした。そう、ワカナを引き抜くために
ずっとついてきては大松のPRをしているのです。
実際、満州に来る前に何人かの芸人は大松に引き抜かれました。丸福と違う新しい経営法を武器に
芸人を説き状せ、そのうえ給料がよく、契約金までくれるのですから、こっちはたまったものではあ
りません。
渡辺はワカナを引き抜かないことにはゼロと同じだというくらいワカナに固執していましたが、将
を射んとすればまず馬、僕を口説きにかかったのです。正直なところ、僕は以前から渡辺を「商売の
ためなら何でもする嫌な男」と思っていました。しかし、満州であらためて話してみると、意外にも
しっかりした思想の持ち主で、漫才や演芸はもとより外国の芸人にも造詣が深いのです。そしてワカ
ナを売り出すには自分の右に出る者はいないと自信をもっています。そして渡辺はラジオにでも、将
来普及するであろうテレビにでも芸人をどんどん出して日本中に笑いを送るのが自分たちの使命だと
言い、「丸福と大松が競い合うことこそ漫才の成長に役立つ」と力説するのです。裄乃さんも近代的思
想の持ち主でしたが、また違った意味でこの渡辺はちょっと気持のいい男ではありました。

大阪に戻ってみると、もっと多くの芸人が大松に引き抜かれていました。賀津は恩知らずと怒り、
渡辺が来ると塩をまいて追い帰すほどでした。しかし、私は賀津に塩漬けにされるようなことをやっ
てのけました。
ワカナと大松キネマに移籍したのです。
理由の一つは通天閣でした。一度はあきらめた通天閣をついに買った裄乃さんに腹が立ったのです。
自分の夢のために芸人たちを犠牲にするやり方が許せませんでした。しかし、最大の理由は渡辺の
言葉です。新しい経営法の中で、ワカナの芸を電波に乗せて日本中の人に笑いを送りたかったのです。
これは裄乃さんのそばに残る国分と、事実上の絶交でもありました。

昭和十四年六月に入ると、もう文字どおり丸福と大松の戦争でした。
大松が旗揚げすると、負けじと丸福が新趣向の特別興行を打ってきます。これならどうだと大松が
打ち返せば、この手があるゾと丸福がさらに斬新な切り返しを見せます。大松のワカナと一郎に対し
て、丸福は十七歳の新人、菜の花蝶々を掘り出し、桂柳三と組ませて対抗してきました。
まさしく群雄割拠、戦国の世です。いやがうえにも漫才は活気をおびてきました。

そして、こんな中で賀津は三人目の生命を宿していました。亭主にすっかり愛想がつきたのか、妹
の佳江を女子大まで出して嫁がせた安心感からか、わりに落ち着いています。
しかし、またしても僕がその落ち着きを失わせ、大喧嘩になってしまったのです。というのは家の
中で、僕はかなりの額のお金を見つけました。以前からそうしたいと思っていたものですから、その
お金で漫才師を集めて慰労会をやり、一晩でパアーッと使ってしまったのです。
実はこれ、賀津の大切な大切なお金でした。賀津はもっと広い家に住みたいと願っていたのです。
両親に二人の子供、ビリケン、漫才志望の下宿人と、それこそ家は足の踏み場もないほどでした。賀
津はいつか新しい家を買おうとへそくりをし、あの金は三年間の結晶だったというわけです。
しかし、二人の大喧嘩は国分が見合いをするというニュースで取りやめになりました。仕事で絶交
状態にあるとはいえ、僕にとっては無二の親友、賀津にとっては初恋の人です。もうとるものもとり
あえず、見合いの席にこっそり出かけました。

初めはこっそり相手の女性の顔だけ見ようと思っていたのですが、結局、国分と裄乃さんに見つか
ってしまいました。
相手が来る前に、彼女の経歴を聞いた僕は言下に反対しました。賀津も裄乃さんも反対です。林田
時子という二十五歳のその女性は、東京の女子大を出ており、両親も医者なら自分も何やらを研究し
ている才女だというのです。そんな女と漫才屋が結婚してうまくいくわけがありません。だいたいそ
んな女はむっつりして色気がなくて、煮ても焼いても食えっこないのです。「むっつりお賀津」をここ
までにした僕の努力といったらもう。何も好んで「むっつりお時」を女房にする必要はないというの
が僕のいつわらざる気持です。

ところが、今さら前言を翻えすのは恥ずかしいのですが、現れた時子嬢、いい娘なんです。大らか
で屈託がなくて、よく笑います。
「天井向いて大声で笑うでしょ。これ、ついお見合いの席でもやるもんだから、それでずいぶん良縁
逃しちゃった」
そう言ってまたコロコロと笑うお時さんに、我々はすっかり惚れ込んだのでした。
ところが、国分はもうひとつ気乗りがしない様子です。無理もありません。僕が大松に移籍して以
来、国分は文字どおり裄乃さんと二人三脚で丸福の苦境を乗り切ってきたのですから。僕たちの交流
は途絶えていましたが、いつも裄乃さんのそばにつき添っている国分の姿はたびたび見かけていまし
た。それは僕の目から見てもうらやましいくらいすてきなカップルでした。もつとも、それをいちば
ん敏感に感じとつていたのは賀津かもしれませんが……。当の裄乃さんも学生時代とは違って頼りに
なる一人の「男性」として国分を意識し始めているように見えました。

不思議なもので、時子さんの存在がかえって二人の仲を親密にしていき、国分の心が揺れに揺れて
いた矢先、国分に召集令状が舞い込んだのです。国分は後ろ髪を引かれる思いで朝鮮半島へ出兵して
いきました。
一方、僕は戦時色の濃くなった中で、検閲にもめげず、漫才を書き続けました。肉親や友人の戦死
に涙している人たちを何とか力づけたかったのです。そんな状況下に、もう大松も丸福もありません。
僕は再び裄乃さんと仕事を始めることになりました。

昭和十七年、死を覚悟したという国分が、無事帰還しました。とるものもとりあえず裄乃さんのも
とへ走ったのですが、裄乃さんの想いはこの空白期間にすっかり冷えており、元のように冷静な興行
主に戻っていました。戦争は男女の仲にまでも思わぬ影をおとすものだと僕はつくづく思いました。
国分ははたから見ていても気の毒なくらい打ちひしがれていましたが、そんな心の空洞を埋めてく
れたのが、ほかならぬ時子さんです。彼女は裄乃さんの存在を知りながらも、そんなことはおくびに
も出さず、その天真爛漫さで国分を慰めていたようです。
僕はやっぱり国分には時子さんがいいと思い、懸命に結婚を勧めました。国分も時子さんの良さが、
じゅうぶんわかっていたに違いありません。ついに二人は、昭和十八年に結婚式を挙げたのです。
その結婚式の最中でした。裄乃さんの夢であった通天閣が炎上したのです。
通天閣が火事……通天閣が燃え落ちる……。
浪花の空を華と染めて、通天閣は全身に火を受けながら、のっそり立っていました。真っ赤なミナ
ミの空をじっと見つめる裄乃さん、国分、そして賀津と僕。それは戦争の激化とともに、一つの時代の
終焉を告げているかのようにも思えました。

それから間もなく、通天閣は金属類回収令にあわせて、取り壊しが決まりました。
火を浴びながらも立っていた通天閣が、今度こそミナミの空から消えるのです。
浪花っ子の誇りが消えるのです。
それをきっかけにして裄乃さんは丸福興行主を退くことになりました。

昭和十九年には、ビリケンが出征していきました。
戦時色は芸名にまで影響し、敵性語使用禁止によってロッパが緑波、エンタツが円辰とさせられ、
カナ文字名前は使えなくなりました。ミス・ワカナは玉菊ワカナです。しかし、一番困ったのは名前
よりも、芸を見せる場がなくなったことです。頑張っていた南地の花月が休場に追い込まれたのです。
芸は見せられない、生活には困るといった芸人が何人も僕の家にゴロゴロしていました。

そんなある日、僕は賀津が家を買ったことを知りました。それで、芸人たちをそこに住まわせてし
まったのです。賀津は怒りました。毎日掃除し、家族で暮らす日を夢見ていたところへ、突然ドヤド
ヤと芸人たちが入り込んでしまったのですから。またまた壮絶な喧嘩です。僕は今まで賀津が懸命に
やりくりして芸人の面倒を見てくれたことなどすっかり忘れて、賀津の「自分さえよければ」の心を
怒鳴りつけてやりました。
「わかった。ほな、お前一人で住めッ」
「ええ、うち、そうさせてもらいますッ」

売り言葉に買い言葉、ついに賀津はあの広い家に一人で引っ越していきました。
しかし別居生活はそう長くは続きませんでした。賀津、寂しくなったのです。日ごろ、狭くて騒々
しいところに慣れていたせいでしょう、一人ではいられなくて、すねながら新しい家を芸人に明け渡
しました。可愛いやつです。
こうしてやっと家庭が平穏に戻ったころ、悲報が入りました。
ビリケンの戦死です。
ラムネ色のビリケンは死んでしまいました。