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麒麟の章

昭和二十年一月の空襲で、賀津が買ったあの家は焼けてしまいましたが、三月十三日の二度目の空
襲はもっと大規模なもので、大阪の街は火の海と化し、寄席や演芸場の大半を失ってしまったのです。
僕と国分は家族を鞍馬山の麓へ疎開させることにしました。四人目の子を身ごもっている賀津を狭
い農家の納屋で暮らさせるのは気がかりでしたが、大阪にいればもっと危ないのです。

大阪に残った僕たちと裄乃さんの一番の心配は消息不明の芸人たちのことでした。戦線を慰問して
それっきりの者、空襲で生死がわからない者……。僕はとにかく外地の芸人を早く帰してもらう交渉
をするため、大陸へ渡る決心をしました。

ところが満州で、僕はミイラ取りがミイラになってしまったのです。
戦地でたくさんの負傷兵を見ているうちに芸人たちを連れ戻すより、芸人たちとともに負傷兵を慰
めるべきだとハッと気づいたのです。僕は漫才を書きながら、慰問団と満州を歩き続けました。

そして、八月六日、広島にピカドンが落ち、十五日に敗戦。このニュースを満州の片隅で聞いたあ
と、やっと僕は所期の目的、つまり芸人たちを帰国させるために動き始めたのです。
賀津は敗戦の玉音放送を聞きながら、鞍馬の疎開先で長男滋を出産していましたが、終戦後まる一
年半、僕は満州におりました。消息不明の僕を、国分や家族たちはずいぶん心配したようです。耳に
する情報も、シベリアに渡ったとか、銃で撃たれるのを見たとか悲観的なものばかりで、賀津は眠れ
なかったといいます。

結局、僕は全部の芸人が引き揚げたのを見届けて、二十一年の秋、鞍馬に帰りました。
そして、一足先に大阪に戻るという国分一家とともに、僕だけまず大阪に行って、寄席や劇場の様
子を見ることにしました。
そこで、衝撃的な知らせが待っていました。ワカナが死んだのです。ヒロポン中毒によるショック
死でした。ワカナは三十六歳の若さのままいなくなってしまいました。
僕が鞍馬へ戻る前日、焼け野原でカストリなぞ飲みながら、国分は熱っぼく自分の夢を語りまし
た。今後は西鶴の研究に没頭するというのです。
「戦争で、どうせ一度は死んだ体や。これからは好きなように生きるんや」

国分の晴れ晴れとして、それでいて強い日の光を見ながらまた僕は落ち込んでいました。一方は学
生時代からの夢であった西鶴研究にまで行きついたのに、一方の麒麟は宙に迷っているのです。
焼け跡にしゃがみながら、僕はもう四十一歳になったことを感じていました。
鞍馬に戻ると、とにかく小説を書き始めました。国分に刺激され、何かやらずにいられなかったの
です。そんな僕に賀津は不満なようでした。土地の新聞に小説を連載したとて、幾らにもならないか
らです。終戦後二年もたっているのにいまだに納屋に住んでいるのですから、賀津にしてみれば何と
か金を稼いで家を買ってほしかったのでしょう。業を煮やした賀津はヤミ市を歩き回り、自分でお金
を作ってくるようになりました。
こうした生活がしばらく続くうち、全国に散っていた漫才師たちが僕のところに集まってき始めた
のです。僕は小説も売れており、大作も依頼されていたので漫才復帰は断ったのですが、みんな何と
かもう一度漫才をやりたいと大変な熱意なのです。

ついにほだされた僕は再び漫才の道に入り、MANZAIの頭をとつて昭和二十二年、「MZ研進会」
を作りました。このメンバーは大半が若く、漫才が好きな者ばかりでした。
何とか成果発表の場を、と僕は歩き回りましたが劇場はみな映画をかけています。そこで思いきっ
て裄乃さんを頼ってみました。その結果、今ではもう現役を引退していましたが、裄乃さんの骨折り
で、とうとう発表の場がもてることになったのです。

初舞台のための準備は、久しぶりに楽しい忙しさでした。ヤミ市で稼いだ金まで漫才や居候の芸人
につぎ込む僕に、賀津は腹を立てていましたが、あいつの怒りは毎度のこと、こっちは舞台のことで
頭がいっぱいです。
しかし、この初舞台は実現しませんでした。初日を目前に控えたある日、裄乃さんが倒れたのです。
そして数日後、帰らぬ人となってしまいました。

初舞台を開けられなかったショックや、裄乃さんの死の悲しみにいつまでもひたっているわけには
いきません。舞台を探さなければならないのです。すると、西鶴の研究をしながら、私立中学の教師
をしている国分が学校の講堂を開放してくれたのです。無料興行とはいえ、久々の舞台に、MZ研進
会のメンバーは張り切りました。ところがいざフタを開けてみると、無料だというのに人が来ないの
です。講堂はガラーンです。ショックでした。でも、ここでやめては何にもなりません。僕たちはこ
うした活動を続けていきました。大阪に居を移したのもこのころです。もう昭和二十四年になってい
ました。

そんな中で、僕はMZのメンバーである蝶々の様子がおかしいのが気になり始めたのです。聞けば
蝶々は夫の柳三の浮気などで自暴自棄になっており、ヒロポンを打ったり生活が乱れているようでし
た。僕は彼女をわが家に住まわせました。ワカナの二の舞は踏ませんぞ、ヒロポンをやめさせ、何と
か更生させるんやと必死でした。賀津ももう慣れていたのかワカナを連れてきた時のようには騒ぎま
せんでしたが、それでも家族は、僕と蝶々の関係に疑心暗鬼らしく、家庭の雰囲気がしっくりいかな
くなってきたのです。
国分は見るに見かねて、蝶々を追い出せと言うのですが、僕はつっぱねました。もとより男と女の
関係などありませんし、このころにできた宝塚笑芸座で、きっと蝶々を立ち直らせてみせると心に誓
っていたからです。

昭和二十六年は、まさしく蝶々との闘いの日々でした。僕はある意味では父親のように接していま
した。芸のことは何も言いません。
「ええか。人間らしくなるんや」
そればかりです。蝶々を人間として作りあげたいのです。人間としての優しい気持なくして、本当
の笑いなどあろうはずがありません。こうして漫才のために死力を尽くして闘う僕と蝶々を、賀津は
わかってくれました。
「あんたがこうまで漫才が好きとは、うち、驚いたわ。……わかりました。うちもできるだけ手伝わ
してもらいます」
こう言って笑った賀津の顔を、僕は忘れることができません。
賀津のおかげもあって、蝶々は再び飛びました。笑芸座の初公演で見事な芸を見せてくれたのです。
しっかりと自分の翅(はね)で舞い上がった蝶々を、賀津は僕より喜んでいたかもしれません。
公演の成功でMZのメンバーは急に忙しくなり、僕もラジオの『漫才学校』の作・構成を担当する
など活力にあふれていました。

その矢先でした。
母が亡くなったのです。
僕は目の前に「麒麟」を見ました。大阪庶民であった母は、僕の漫才人生の原点でした。それにや
っと気づいたのです。僕は初めて、一生を漫才にかける決心をしました。四十六歳になっていました。
「お母ちゃん、麟麟見つけたで。お母ちゃんのおかげや」
僕はもういない母に報告しました。

昭和三十年になると、街には陽気な『お富さん』が流れ、敗戦色はどんどん消えていくようでした。
僕も麒麟を見つけましたし、国分も西鶴の研究が認められ、大学教授として誘いがきていました。
そして、このころになると、長男の滋がよく使い走りをしてくれるようになりましたが、それを見て
いるとビリケンを思い出してなりません。賀津は相変わらず家を夢みて、小金をためています。とこ
ろが、僕がテレビを買ったため、また「家」が遠くなったと嘆くのです。そう言いながらも僕の書い
た漫才放送を楽しみにして、テレビにかじりつくのですから世話なしです。
そんな賀津を、この年齢になっても僕はやっばりいとおしい。賀津はもともと国分に恋こがれてい
たのですが、今、ふり返ってみると、僕たちの恋愛は結婚してから始まったのです。僕は賀津なしで
はとてもここまで来られませんでしたし、賀津とて僕を愛していたからこそついてきてくれたのだと
思います。

そこで僕は思いきって賀津に「家」をプレゼントしました。もちろん、大変な借金です。借金を返
すためには何年も漫才を書かなくてはなりません。それを知った賀津は、前にも増して協力してくれ
始め、漫才を試しに演じてみることも嫌がらずにやってくれます。
今日も賀津は僕を相手に、難しい顔をして漫才を演じてくれています。その顔を見ながら、僕は母
の顔が、声が、だぶるのです。
あれはいつだったか、僕が初めて漫才台本を書いたころ、父と二人にやってもらったことがありま
した。以来ずっと、僕を相手に母は演じ続けてくれました。
「お母ちゃん、賀津も頑張りよるで」
僕は賀津のたどたどしい読み方に笑いをこらえながら、母に語りかけています。

そうそう、来年からまた通天閣に灯がともるようになることも、忘れずにお母ちゃんに言わなくて
は……。  (完)