サイパン陥落 1944年 (昭和19年)      歴史年表   真日本史        人名事典)(用語事典                   

 
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昭和19年6月15日午前8時、小沢中将率いる機動部隊は、米軍艦隊を迎撃するため、マリアナ諸島へ出撃した。
機動部隊の編成は「大鳳」「翔鶴」をはじめとする空母9隻を擁した計57隻。

同年3月、米軍は長距離爆撃機 B29を開発。B29は、4トンの爆弾を積み、航続距離は5,600Kmあった。
そこで日本本土空襲が可能になるマリアナ諸島の攻略作戦を開始したのだ。


6月19日未明、小沢機動部隊は、マリアナ諸島サイパン島西部に、米軍艦隊を発見。
午前7時30分、零戦80機を含む第一次攻撃隊240機が発進。さらに第二次攻撃隊70機も続いた。

日本軍は先制攻撃を掛けたが、米軍はレーダーによってその動きを捉え、米空母上空で待ち受けていた。
新鋭戦闘機グラマンF6Fの大群は、技量が未熟な日本機を次々と打ち落とした。

米軍は先のミッドウェー海戦で、アリューシャン列島に不時着した零戦を手に入れ、これを徹底的に研究し
零戦に対抗できるグラマンF6Fを、今回の作戦に投入したのだ。


8時10分、突如、米潜水艦が海の下から、空母「大鳳」に襲い掛かった。放った6本の魚雷のうちの1本が命中。
続いて空母「翔鶴」も4本の魚雷を受け大破、2隻の空母は間もなく沈んでいった。

2日間に渡る戦いで航空戦力のほとんどを失った小沢機動部隊は、被害の甚大さに驚愕し作戦を中止、
撤退を開始し、23日に内地に帰還した。

日本側の損害は、空母3隻を含む計5隻、航空機426機を喪失。米国側の損害は、航空機130機のみ。
圧倒的な航空戦力と、最新鋭レーダーを用いた米艦隊の前には、まるで歯が立たず、日本側の完敗であった。


一方、サイパン島の守備隊は、海岸線に砦を築き、上陸する約7万の米軍を迎撃するという水際作戦に出た。
だが海上の艦隊から、猛烈な集中砲火を浴び、砦は崩壊。4万3千名の守備隊は退却を余儀なくされる。

マリアナ沖海戦の大敗で孤立した守備隊は、米軍によってサイパン島北端まで追い詰められてしまった。
7月5日、サイパン島司令官、南雲中将は「全員玉砕」を下令した後、自ら自決した。


守備隊は残った兵力3千名で、最後の突撃を行い全員玉砕。民間人4千名も、島北端の岬から次々と身を投げた。
赤子を抱いたまま崖から飛び降りる女性を見て、上陸した米兵たちは凍り付いたという。

7月9日、サイパン島は米軍の手に落ち、続いてグアム、テニアンも占領され、日本はマリアナ諸島を失った。

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神風特攻隊


1944年(昭和19年)10月25日、フィリピン沖海戦で、神風特攻隊が米軍艦隊に初めて突入した。

零戦5機が、米空母めがけて体当たりを決行、4隻の空母のうち1隻が大破し沈没した。
このニュースは、大きな衝撃をもって日本内地へ伝えられ、天皇にも上奏された。

天皇は「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である」と強い調子で述べ、そのあと
「神風特攻隊はよくやった。隊員諸氏には、哀惜の情にたえない」と発言した。

天皇のこの「お言葉」は、直ちにフィリピンの日本軍に無電で伝えられた。
特攻を言い出した大西瀧治郎中将のところへも天皇の「お言葉」は届いた。

「天皇は、我々の敢闘精神に感激して、褒めてくださったのだ」大西は、思わず身震いした。
「よくやった」という天皇の「お言葉」は、特攻戦術しかないと信ずる大西を一層奮い立たせた。

天皇の「お言葉」は、自らの陸海軍の大元帥という立場から、亡くなった隊員達に対して
「よくぞそこまでやってくれた」と、哀惜の念を述べられたのである。

だが、天皇による「よくやった」という発言は、独り歩きしてしまい、さらなる特攻作戦を
強行させる重要な要因の一つとなってしまったのである。








       
       
       
    神風特別攻撃隊 (Kamikaze Special Attack Corps)


太平洋戦争末期、海軍で編成された航空機による特攻隊。


1944年(昭和19年)10月25日、米軍のフィリピン上陸作戦に対抗するため、大西海軍中将の

提唱により編成され、米空母等に体当り攻撃を行なったのが最初である。


終戦までに約 2400機が出撃し、2534人が戦死した。

戦果としては、駆逐艦以上の戦闘用艦艇約20隻を撃沈し、約200隻を損傷させた。


戦法としては全く絶望的なもので、米軍はこれを「カミカゼ」といって恐れたが、

所期の戦果はあがらなかった。