大化の改新    645年 (大化元年)    歴史年表     真日本史       人名事典)(用語事典
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大和政権は、祭政一致の政治体制であり、天皇は神から託宣を得て国を治めていた。


だが実際に、祭祀を司っていたのは巫女であり、神の託宣はまず巫女に下され、

その神の言葉を天皇が受け入れ、思召しの通りに政治を動かしていたのである。


神とつながるのは女性という観念は、古代伝説で、クシナダ姫がヤマタノオロチの生け贄

であったように、荒ぶる神への生け贄として巫女が仕える、という考えかたに由来する。

この神を祀るのは女性という発想があったからこそ、巫女だけでなく、古代社会では

皇后やその他の妃たちも、大きな発言力を有していた。


天皇の命令は、神の命令であるがゆえに絶対である。だが問題は、天皇は託宣に従うが、

その神の言葉は、巫女の「作り話」だった可能性があることだ。

それでも何故従うのかと言えば、巫女の母親、すなわち天皇の妃の実家が実力者であり、

政権の実権を握っていたからである。天皇は形式だけの為政者という図式なのだ。


当時、天皇の外戚であった蘇我氏は、子女を妃として嫁がせ、権力を手中に収めていた。

実力者の娘だからこそ、天皇の妃に選ばれていたのである。

欽明天皇(第29代)、敏達天皇(第30代)、用明天皇(第31代)の妃は、蘇我氏の子女であり、

用明天皇の第二皇子、聖徳太子は、大臣・蘇我馬子の娘婿であった。


592年、臣下によって天皇が暗殺されるという前代未聞の事件が発生する。第32代崇峻天皇が、

蘇我馬子の専横を憤り、これを倒そうとしたが、かえって殺害されてしまったのだ。

だが天皇を殺害した蘇我馬子がその後、何らかの罪を負ったと言う記録は一切無い。まさに

異常ともいえる状況であり、如何に当時の蘇我氏の権力が強大であったかを知る事ができる。


そして蘇我氏四代目の入鹿の時代、権勢は絶大となり、天皇家をしのぐほどの力をもつようになる。

だがついに中大兄皇子(後の天智天皇)らによって、入鹿は暗殺され、父の蘇我蝦夷も自害する。

ここに権力をほしいままにした蘇我一族は滅亡した。645年に起きた大化の改新(乙巳の変)である。

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仏教の伝来(552年)


第29代欽明天皇(在位539~571)の時代、仏教が日本に伝来した。

朝鮮の百済から大和朝廷に仏像とお経が贈られてきたのである。

これが蘇我氏と物部氏の対立のもととなった。帰化人である蘇我氏は、仏教の受入れを唱え、

これに対して、日本古来の神を敬う物部氏は、仏教の受入れに反対した。


そこには政治的な権力争いも絡んでおり、対立は内戦に発展し、蘇我馬子が物部守屋を討ち、

政治の主導権を握った。これにより飛鳥(奈良県)の地には数々の寺院が建てられた。


第33代推古天皇(在位592~628)の摂政となった聖徳太子は、仏教に深い理解を示し、官人の心得として

仏教信仰を奨励した。また憲法17条を制定し、中国の進んだ文化、政治を取り入れて国家の基礎を固めた。


聖徳太子の死後、朝廷では蘇我氏の勢力が強くなり、蝦夷・入鹿親子が横暴をほしいままにした。

そんな時、中大兄皇子と中臣鎌足(藤原氏の祖)が出会った。

二人の理想は、聖徳太子が目指した天皇中心の政治であり、そのためには、力を合わせて蘇我氏を亡ぼし、

政治の実権を再び朝廷に取り戻そうとしたのである。


古墳時代(250年~592年)
250年 前方後円墳出現。纒向(まきむく)古墳(奈良県桜井市)
350年 大和朝廷が日本を統一(古墳の分布から)
391年 倭軍、朝鮮に出兵、百済、新羅を破る(広開土王碑)
397年 高句麗軍 5万、朝鮮半島を南下、任那の地にいたる
404年 倭軍、朝鮮に出兵、高句麗軍と戦い敗退
539年 欽明天皇即位
552年  百済、大和朝廷に仏像と経典を贈る(仏教伝来) 
552年 仏像礼拝の可否をめぐり、蘇我氏と物部氏争う
562年 任那、新羅に滅ぼされる
587年 蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす
587年 崇峻天皇即位
588年 飛鳥寺の建立始まる(596年竣工)
592年 蘇我馬子、崇峻天皇殺害
592年 推古天皇即位
飛鳥時代(592年~710年)
593年 聖徳太子、推古天皇の摂政となる
600年 第1回遣隋使派遣
603年 聖徳太子、冠位十二階を制定
604年 聖徳太子、十七条憲法を制定
607年 小野妹子を隋に派遣
607年 聖徳太子、法隆寺建立
622年 聖徳太子死去
630年 第1回遣唐使派遣
645年 中大兄皇子ら、蘇我入鹿を暗殺
645年 (大化1)大化改新。初めて年号制定
663年 (天智2)白村江の戦い。日本軍、唐・新羅連合軍に敗北
672年 (天武1)壬申の乱(皇位継承をめぐる内乱)
694年 (持統8)藤原京に遷都
701年 (大宝1)大宝律令を制定
708年 (和銅1)和同開珎をつくる(皇朝十二銭)
奈良時代(710年~794年)
710年 (和銅3)平城京に遷都
712年 (和銅5)「古事記」成立
718年 (養老2)養老律令(757年施行)
720年 (養老4)「日本書紀」成立
743年 (天平15)墾田永世私財法を制定
743年 (天平15)聖武天皇、大仏造立の詔(奈良の大仏)
752年 (天平 勝宝4)東大寺大仏開眼供養
753年 (天平 勝宝5)唐僧鑑真、来日
784年 (延暦3)長岡京に遷都


古墳時代

古墳時代(250年~592年)は、3世紀中頃から、592年推古天皇即位までを指す。
この時期、大和政権を中心とする政治権力が強化され、北海道・沖縄を除く
日本列島で壮大な古墳が多く造られた時代であった。

纒向(まきむく)石塚古墳

1937年(昭和12年)奈良県桜井市で出土した東西約2キロ、南北約1.5キロの
前方後円墳。奈良盆地東南部の三輪山西側に広がる古墳時代前期の遺跡であり、
ほぼ東西に方位をそろえて並ぶ神殿のような建物跡も出土した。

広開土王碑

高句麗の広開土王の功業、武勲を刻した石碑で中国吉林省集安にある。
414年に建立。高さ6m余,幅約1.6mの石碑に1775字が刻まれている。
日本の朝鮮進出および高句麗 など当時の朝鮮の様子を知るための重要な史料。

飛鳥時代

飛鳥時代(592年~710年)は、592年推古天皇即位から、710年元明天皇の
平城京(奈良)遷都まで、奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした時代を指す。

冠位十二階

603年聖徳太子は冠位十二階を定め、役人にその位によって12に分けた
冠位をあたえた。
家柄に関係なく、才能や手柄のある人を朝廷の役人にとりたてようとした。

十七条の憲法

604年聖徳太子は十七条の憲法をつくり、朝廷につかえる役人の心がまえを示した。
和の尊重、仏教の重視などにより、天皇中心のしくみを整えようとした。

大化改新

聖徳太子の死後、朝廷では蘇我氏が権勢をふるった。645年、中大兄皇子と
中臣鎌足が、蘇我蝦夷・入鹿親子を倒して政治の実権をにぎった。
唐にならい、はじめて年号を定め、大化とした。

白村江の戦い

663年(天智2年)白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に
行われた海戦。日本は、唐・新羅軍に攻略された百済の救援のために軍を
進めたが大敗し、百済は滅亡。日本は朝鮮半島進出を断念した。

壬申の乱

天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と子の大友皇子の間で
皇位継承をめぐる争いがおこった。
672年(天武1年)大海人皇子が大友皇子をやぶり、天武天皇となった。
都を近江から飛鳥に移し、法典の編さんをすすめた。

大宝律令

701年(大宝1年)文武天皇のときに完成した法典。「律」は今日の刑法、
「令」は今日の行政法にあたる。
藤原不比等(ふひと)らが、唐の律令を手本に編さんした。

和同開珎

708年(和銅1年)につくられた日本最初の貨幣。武蔵国の秩父から銅が
とどけられたことがきっかけで、年号を和銅に改めた。

奈良時代

奈良時代(710年~794年)は、710年元明天皇の平城京(奈良)遷都から、
794年桓武天皇の平安京(京都)遷都までの85年間を指す。

養老律令

718年(養老2年)藤原不比等(ふひと)が大宝律令を一部改修して
編纂した律・令各10巻の法典。

墾田永世私財法

743年(天平15年)開墾した土地(墾田)は、永久に私有することを認めた。
貴族や寺社が私有地(荘園)を増やした一方、公地公民制が崩壊した。