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【第五課 第二十二節】   小説読解


  「十六年前的回忆」    李星华  


1927年4月28日,我永远忘不了那一天。那是父亲的被难日,离现在已经十六年了。

那年春天,父亲每天夜里回来得很晚。每天早晨,不知道什么时候他又出去了。
有时候他留在家里,埋头整理书籍和文件。
我蹲在旁边,看他把书和有字的纸片投到火炉里去。

我奇怪地问他:“爹,为什么要烧掉呢?怪可惜的。”
待了一会儿,父亲才回答:“不要了就烧掉。你小孩子家知道什么!”
父亲是很慈祥的,从来没骂过我们,更没打过我们。

我总爱向父亲问许多幼稚可笑的问题。
他不论多忙,对我的问题总是很感兴趣,总是耐心地讲给我听。
这一次不知道为什么,父亲竟这样含糊地回答我。
后来听母亲说,军阀张作霖要派人来检查。

为了避免党组织被破坏,父亲只好把一些书籍和文件烧掉。
才过了两天,果然出事了。
工友阎振三一早上街买东西,直到夜里还不见回来。

第二天,父亲才知道他被抓到警察厅里去了。
我们心里都很不安,为这位工友着急。
局势越来越严重,父亲的工作也越来越紧张。

他的朋友劝他离开北京,母亲也几次劝他。
父亲坚决地对母亲说:“不是常对你说吗?我是不能轻易离开北京的。

你要知道现在是什么时候,这里的工作多么重要。我哪能离开呢?”母亲只好不再说什么了。
可怕的一天果然来了。4月6日的早晨,妹妹换上了新夹衣,母亲带她到娱乐场去散步了。

父亲在里间屋里写字,我坐在外间的长木椅上看报。
短短的一段新闻还没看完,就听见啪,啪……几声尖锐的枪声,接着是一阵纷乱的喊叫。

“什么?爹!”我瞪着眼睛问父亲。
“没有什么,不要怕。星儿,跟我到外面看看去。”

父亲不慌不忙地从抽屉里取出一支闪亮的小手枪,就向外走。
我紧跟在他身后,走出院子,暂时躲在一间僻静的小屋里。
一会儿,外面传来一阵沉重的皮鞋声。我的心剧烈地跳动起来,用恐怖的眼光瞅了瞅父亲。

“不要放走一个!”窗外一声粗暴的吼声。
穿灰制服和长筒皮靴的宪兵,穿便衣的侦探,穿黑制服的警察,一拥而入,挤满了这间小屋子。
他们像一群魔鬼似的,把我们包围起来。

他们每人拿着一支手枪,枪口对着父亲和我。在军警中间,我发现了前几天被捕的工友阎振三。
他的胳膊上拴着绳子,被一个肥胖的便衣侦探拉着。
那个满脸横肉的便衣侦探指着父亲问阎振三:“你认识他吗?”

阎振三摇了摇头。他那披散的长头发中间露出一张苍白的脸,显然是受过苦刑了。
“哼!你不认识!我可认识他。”
侦探冷笑着,又吩咐他手下的那一伙,“看好,别让他自杀,先把手枪夺过来!”

他们夺下了父亲的手枪,把父亲全身搜了一遍。
父亲保持着他那惯有的严峻态度,没有向他们讲任何道理。
因为他明白,对他们是没有道理可讲的。

残暴的匪徒把父亲绑起来,拖走了。我也被他们带走了。
在高高的砖墙围起来的警察厅的院子里,我看见母亲和妹妹也都被带来了。
我们被关在拘留所里。

十几天过去了,我们始终没看见父亲。
有一天,我们正在吃中饭,手里的窝窝头还没啃完,听见警察喊我们母女的名字,说是提审。
在法庭上,我们跟父亲见了面。父亲仍旧穿着他那件灰布旧棉袍,可是没戴眼镜。

我看到了他那乱蓬蓬的长头发下面的平静而慈祥的脸。
“爹!”我忍不住喊出声来。母亲哭了,妹妹也跟着哭起来了。
“不许乱喊!”法官拿起惊堂木重重地在桌子上拍了一下。

父亲瞅了瞅我们,没对我们说一句话。他脸上的表情非常安定,非常沉着。
他的心被一种伟大的力量占据着。
这个力量就是他平日对我们讲的——他对于革命事业的信心。

“这是我的妻子。”他指着母亲说。接着他又指了一下我和妹妹,“这是我的两个女孩子。”
“她是你最大的孩子吗?”法官指着我问父亲。
“是的,我是最大的。”

我怕父亲说出哥哥来,就这样抢着说了,我不知道当时哪里来的机智和勇敢。
“不要多嘴!”法官怒气冲冲的,又拿起他面前那块木板狠狠地拍了几下。
父亲立刻就会意了,接着说∶“她是我最大的孩子。我的妻子是个乡下人。

我的孩子年纪都还小,她们什么也不懂。一切都跟她们没有关系。”
父亲说完了这段话,又望了望我们。
法官命令把我们押下去。我们就这样跟父亲见了一面,匆匆分别了。

想不到这竟是我们最后的一次见面。
28日黄昏,警察叫我们收拾行李出拘留所。
我们回到家里,天已经全黑了。

第二天,舅姥爷到街上去买报。他是从街上哭着回来的,手里无力地握着一份报。
我看到报上用头号字登着“李大钊等昨已执行绞刑”,立刻感到眼前蒙了一团云雾,昏倒在床上了。
母亲伤心过度,昏过去三次,每次都是刚刚叫醒又昏过去了。

过了好半天,母亲醒过来了,她低声问我:“昨天是几号?记住,昨天是你爹被害的日子。”
我又哭了,从地上捡起那张报纸,咬紧牙,又勉强看了一遍。

我低声对母亲说:“妈,昨天是4月28。”母亲微微点了一下头。



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【注 釈】

十六年前的回忆】 shí liù nián qián de huí yì  十六年前の記憶

女流作家の李星華 (り しんか) が1943年に発表した散文。
内容は、李大釗 (り たいしょう) の長女である著者が、父と共に囚われの身となった当時の状況を記録した回想録。
中国革命の先駆者だった李大釗が、政治権力によって極刑を受けようとも信念を貫いた姿とその功績が描かれている。


李星华】 lǐ xīng huá   李星華 (り しんか)    (1911 — 1979)

女流作家。河北省出身。1927年、父の北京大学教授・李大釗 (り たいしょう) と共に逮捕され投獄生活を送る。
1932年共産党に入党。戦後は教育と文筆活動に従事。著作「白族民間故事伝説集 1980」 「わが父李大釗 1981」ほか。


张作霖】 zhāng zuò lín   張作霖 (ちょうさくりん)   (1875 — 1928)

中国の軍人・政治家。馬賊の出身。奉天(瀋陽)軍閥の首領。
国民政府の北伐軍に敗れ北京から引き揚げる途中、奉天郊外で関東軍に爆殺された。

窝窝头】 wō wō tóu    ウォトウ。とうもろこし粉と大豆粉とをまぜて円錐形にして蒸したパン
惊堂木】 jīng táng mù    木槌。裁判官が法廷で机をたたくのに用いた木片


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【口語訳】


「十六年前の記憶」  李星華


1927年4月28日、私はこの日を永遠に忘れられない。
それは父の受難の日で、今からもう16年も前のことになる。

その年の春、父は毎晩帰りが遅かった。
朝も毎日、知らぬ間に家を出ていた。
時には家にいて、本や書類の整理に没頭していた。

私は傍らにうずくまり、父が本や文字の書かれた紙片をストーブにくべるのを見ていた。
私は不思議に思って尋ねた。

「父さん、何故燃やしてしまうの?もったいないわ。」

父はしばらくたってから、ようやく答えた。
「いらなくなったから燃やしてるだけだ。子供に何が分かる。」

父は穏やかな人で、私たちを怒鳴りつけたこともなく、ましてや手を上げたこともなかった。
だから私はいつも父に、他愛のない質問ばかりしていた。

父はどんなに忙しくても、私の質問にいつも興味を示し、辛抱強く話して聞かせてくれた。
だが、あの時ばかりはなぜか、父はこんなはぐらかすような答えしか返してくれなかったのだ。

後になって母から聞いた話では、軍閥の張作霖がうちを捜索するため、人を寄越そうとしていたらしい。
党の組織を守るために、父は一部の本や書類を焼くしかなかった。

わずか二日後に、やはり事件は起きた。
労働者仲間の閻振三 (エンシンサン) が朝早く街へ買い物に行き、夜になっても戻らなかったのだ。
彼が警察に捕まったと父が知ったのは、翌日になってからだった。

私たちはみな不安になり、彼を気遣ってあれこれ気をもんだ。
情勢は日毎に深刻になり、父の仕事もますます緊張感を増していった。
父は友人から北京を離れるように勧められ、母も何度もそれを勧めた。

父はきっぱりと母に言った。
「いつも言っているだろう。私は軽々しく北京を離れたりなどできない。
今がどういう時か、ここでの任務がどれだけ大切か、お前も知らねばならん。ここを離れることなどできるものか。」
母はもう口をつぐむしかなかった。

恐ろしい一日はついに来た。4月6日の朝、妹は新しい上着に着替えて、母に遊園地へ連れて行ってもらった。
父は奥の部屋で書き物をしており、私は玄関に近い部屋で長椅子に座って新聞を読んでいた。

短い記事を読み終える間もなく、パン、パン…と鋭い銃声が数発聞こえ、続いて入り乱れた叫び声がひとしきり響いた。
「これ何?父さん!」
私は目を見開いて父に尋ねた。

「大丈夫だ、心配するな。シンアル(星児)、一緒に外へ出て見てみよう。」
父は慌てず騒がず、引き出しから光る小銃を取り出すと、外へ向かった。

私は父の後にぴたりと付き添い、中庭を抜けて、奥まった小部屋にしばらく身をひそめた。
すぐに、外から重々しそうな革靴の音が聞えてきた。私の心臓は激しく打ち、恐怖の眼差しで父を見た。

「一人も逃がすな!」
窓の外で荒々しい怒鳴り声が響いた。
灰色の制服に皮の長靴を履いた憲兵、平服の捜査員、黒い制服の警官がどっと押し入り、小部屋は人で埋まった。

彼らは悪魔の群れのように、私たちを取り囲んだ。
各人の手には拳銃が握られ、銃口は父と私に向けられていた。軍人や警官に挟まれた中に、
私は数日前に逮捕された労働者仲間の閻振三を見つけた。

彼の腕は縄で縛られ、太った平服の捜査員に引っ張られていた。
凶悪な人相の平服捜査員は、父を指して閻振三に聞いた。

「こいつを知ってるか?」
閻振三は首を横に振った。乱れた長髪の間から青白い顔がのぞき、明らかに拷問を受けたと分かった。
「ふん、お前が知らんでも、俺は知ってるぞ。」
捜査員は鼻で笑うと、部下の一団に命じた。

「良く見張ってろ、自殺しないように、まず拳銃を奪え!」
彼らは父の拳銃を奪い、父の全身を隈なく探った。

父はいつもの謹厳な態度を崩さず、何の言い訳もしなかった。
彼らに説く道理なんて無いことが分かっていたからだ。

残虐な暴徒どもは父を縛り上げ、引っ立てていった。私も連れて行かれた。
高いレンガ塀に囲まれた警察署の中庭で、私は母と妹も連れて来られたのを見た。
私たちは留置所に入れられた。

十数日が経っても、父には会えないままだった。
ある日、ちょうど昼食の時間、手に持った蒸しパンをまだ食べ終わらないうちに、
警察が私たち母子の名前を呼ぶのが聞こえた。裁判だという。

法廷で、私たちは父に会った。父はいつものように灰色の古い綿入れを着ていたが、眼鏡はかけていなかった。
私は父のぼさぼさの長髪の下の、穏やかで慈愛に満ちた顔を見た。

「父さん!」
私はこらえきれず叫んだ。母は泣き、妹も一緒に泣き出した。

「大声を出すな!」
裁判官は木槌を取るとテーブルの上で重々しく打ち鳴らした。

父は私たちを見たが、一言も言わなかった。父の表情はとても平静で、落ち着いていた。
父の心は、偉大な力で満たされていたのだ。

この力こそ普段私たちに語っていたもの――革命事業に対する信念だ。
「これは私の妻です。」
父は母を指して言った。続いて私と妹を指し、「二人の娘たちです」と言った。

「これが一番上の子どもか?」
裁判官は私を指して父に尋ねた。

「そうです、私が一番年上です。」
父が兄のことを言いださないように、私は急いで言った。

あの時は、一体どこからこんな機転と勇気が湧いてきたのだろうか。

「余計な口をきくな!」
裁判官は怒声を発し、再度目の前にある木槌を打ち鳴らした。

父はすぐに察し、後を続けた。
「この子が一番年上です。妻は田舎の出だし、子供たちは年端もいかず、何も分かりません。
すべては彼女らと無関係です。」

父はそう言うと、また私たちの方を見た。
裁判官は私たちを下がらせた。こうして私たちは一目父に会い、慌ただしく分かれた。

それが最後になるとは、思ってもみなかった。
28日の夕方、警察は私たちに荷物をまとめて留置所を出るように言った。

家に帰り着くころには、すっかり日が暮れていた。
翌日、大叔父が新聞を買いに街へ出た。彼は泣きながら戻って来た。手には新聞が力なく握られていた。

新聞に一番大きな文字の見出しで「李大釗ら絞首刑 昨日執行」 と書かれているのを目にした瞬間、
私は目の前に霧がかかったようになり、ベッドに倒れこんだ。

母はショックのあまり、三度も気を失った。毎回、目覚めたと思うと、また気を失ってしまう。
長い時間が過ぎて、母は目覚めると小声で私に尋ねた。

「昨日は何日? 覚えておきなさい。昨日は父さんが殺された日よ。」

私はまた涙を流し、床から新聞を拾い上げると、歯を食いしばってもう一度見た。
私は低い声で母に言った。

「母さん、昨日は4月28日よ。」
母はかすかに頷いた。