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【第五課 第二十四節】   小説読解


  「女人与花事」    池莉    


情人节这天,我有一个约会,是记者采访。女记者迟到了。

夜色中,她小跑过来,跌跌撞撞,包里露出半个巧克力盒子,手里握了一束不怎么精神的红玫瑰。
对不起对不起!女记者连声道歉,从包里掏出录音机,赶紧进入工作状态,随手将玫瑰扔在一边。

采访很快结束。女记者临走时忘记了玫瑰。我提醒她:你的花。女记者斜着肩匆匆离去,大声应答:不要了不要了。


不知哪位多情人的红玫瑰,落在了我的手里,我却不忍就这样把鲜花扔掉。
我整理了玫瑰的枝叶,找饭店要了一只玻璃花瓶,将它们用水养好,就摆在饭店经理阔大的工作台上了。

第二天,玫瑰精神十足,在饭店迎来送往,是一副比在情人节还要适得其所的姿态。

我出入饭店大门,都要看它一眼,大堂经理也与我会意,眼里笑意盈盈;
女记者生得还算标致,可是对待玫瑰的草率和马虎,透出焦躁与干巴之气,成了好形象的败笔。

我朋友的女儿,博士学位,她找讨一盆茉莉,讨要时夸张地喜欢了一番,后来茉莉便枯萎在窗台上了。
这女孩子身上也是有一股焦躁与干巴之气,便是什么好衣服与好学历也遮盖不住的。

我想起我大学的老师陈美兰。当年我做穷学生,陈老师联系我,请我到她家吃饭。
生平第一次喝到的“霸王花汤”就是陈美兰老师煲的,香得没有文字可以描述。

在我印象中,陈老师家是一幅静物画,画面上是许多的书、霸王花汤和几盆葱郁的花草。
因此我的陈老师,当年便富有沉静美好之女态。

后来因学问与人品愈好,被尊称为先生,鬓角有了白发,端的还是一位美人先生。我常默默想念她。


对于女人,小到一盆掌上植物,也可算得花事。女人于花事是不可忽略潦草的。
是否养花弄草,那还是太具体的情节,自便便罢。

只是说与花草的知觉,敏感,亲近,吝惜与爱护,那就见得女子性情了。
天然如乡间的灵性女子,清早出门,经过篱笆,随手采一朵栀子花戴在身上,顿时便娇俏可爱起来。

观音菩萨手里,时常也是要拈一条柳枝的。寺庙里焚香,必定是阿兰若香最幽静典雅。

花事不仅仅是一种形式,它与有没有时间无关,与有没金钱无关,尽管它也是物质的,却不属于物质世界,它只是与美有关,
那是一种生命本源之美,是大自然与女人的密语,永远的密语。




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【注 釈】

池莉】 chí lì 池莉(ちり)(1957~)  女流詩人、小説家。湖北省出身。

1983年、武漢大学で中国文学を専攻。卒業後は、武漢を舞台とした庶民の生活の哀歓を描いた多くの作品を発表。
代表作に小説「生活秀」「煩悩人生」「紫陌紅塵」「一冬無雪」「午夜起舞」など。


斜着肩】 xié zhe jiān    おかまいなしに。(投げ遣りな態度)
干巴之气】 gān ba zhī qì   ドライである。冷酷である。

败笔】 bài bǐ   難がある。玉に瑕だ。
霸王花汤】 bà wáng huā tāng    覇王花(はおうか ハスの一種)を使ったスープ。広東省の伝統料理。

阿兰若】 ā lán ruò    アランルオ。焼香の原料とされる蘭やつつじなどの香木。


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【口語訳】


「女性と花の存在」   池莉

 
バレンタインデーにインタビューの約束があったのだが、担当の女性記者は遅刻してやって来た。

夕暮れ時、小走りに入って来た彼女は、よろめきながらバッグからチョコレートの箱を半分のぞかせ、
手にはしおれかけた赤いバラの花束を握っていた。

すいません、すいません! 女性記者は何度も謝り、バッグからレコーダーを取り出した。
彼女は、急いで作業態勢に入ると、手に持っていたバラを放り出した。

インタビューはすぐに終わった。女性記者は帰り際に、バラの花束を忘れていった。

私は彼女に、「花を忘れているよ。」と注意した。
すると彼女は、バラには目もくれず、そそくさと立ち去りながら、大声で「いりません。」と答えた。


私の手元に残されたこのバラは、きっと誰か恋しい人に向けたものであろう。
私はこのまま花を捨てる気にはなれなかった。

バラの枝葉を整え、ホテルに花瓶を用意させ、水を吸わせてやった。
花瓶は、ホテルの支配人の広い机に置くことにした。

翌日、元気を取り戻したバラは、バレンタインの日よりも美しく可憐な姿を見せ、ホテルの客たちの心を大いに和ませた。
私はホテルに出入りするたびに、バラを眺めた。支配人も私と目を合わせると、大きくうなづいてにっこりと微笑んだ。

あの女性記者は、整った顔立ちをしていたが、バラに対しては見向きもせず、大変ぞんざいに扱っていた。
苛立ちやツンケンした気持ちが透けて見えるようで、それらは彼女のイメージを大いに損ねていたように思う。


私の友達に博士号をとった娘がいるのだが、彼女はジャスミンの花がお気に入りだった。
一時期は、夢中になって眺めていたのだが、やがてその花は窓の上で枯れてしまった。

この女の子もまた、華やかな服や高学歴の裏に隠された苛立ちやドライさが見え隠れしている。


私はかつて大学で教えを受けた陳美蘭先生を思い出した。
当時私が貧乏学生だったせいか、陳先生がわざわざ連絡してきて、彼女の家で食事をごちそうになった。

生まれて初めて飲んだ「覇王花湯」は陳美蘭先生が作ったもので、文字で説明することができないほど香ばしい。


私の印象の中で、陳先生の家は、たとえて言えば一枚の静物画のようであった。

その絵には、多くの書物が並べられているさまが描かれ、また覇王花湯といくつかの青々と茂る草花も描かれている。
だから私にとって陳先生は、当時からその静物画のように、静かで落ち着いた美しさを持った女性であった。

のちに学問とその人柄から、皆に先生と呼ばれるようになったが、髪に白髪が見えはじめても、やはり美人の先生であった。
私は今でも人知れず彼女のことを恋しく思っているのである。


女性にとって花は、たとえそれが掌の上に載るくらいの小ささであっても、それは立派な一輪の花なのだ。
女性と花との関わりは、やはりおろそかにすることはできない。

花や草をどのように育てるかなどは、かなり具体的すぎる話だから、それはさておこう。
ただ草花に宿る感覚、敏感さ、親しみ、しがらみ、そしていたわりと言ったものは、女性特有の感性と言える。

純朴な田舎娘が、朝家を出て、垣根からくちなしの花を一輪とって身につけると、たちまち愛嬌がわいてくる。


観音菩薩の手には、いつも柳の枝が握られている。寺院で焼香に使われる香木は、アランルオが最も上質の香りとされている。

花の存在、それは時間や一切の財物を超越した、物質であっても物質世界には属さず、それはただ美とのみ関わりがあるのだ。
それは生命の根源的な美しさであり、大自然と女性の秘密のささやきであり、永遠の合言葉なのである。