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【第五課 第二十九節】   小説読解


  「藤野先生」    鲁迅  


东京也无非是这样。
上野的樱花烂熳的时节,望去确也像绯红 fēi hóng 的轻云,
但花下也缺不了成群结队的 “清国留学生” 的速成班,

头顶上盘着大辫子,顶得学生制帽的顶上高高耸起,形成一座富士山。
也有解散辫子,盘得平的,除下帽来,油光可鉴 jiàn,
宛如小姑娘的发髻 fà jì 一般,还要将脖子扭几扭。实在标致极了。

中国留学生会馆的门房里有几本书买,有时还值得去一转;倘 tǎng 在上午,
里面的几间洋房里倒也还可以坐坐的。

但到傍晚,有一间的地板便常不免要咚咚咚地响得震天,兼以满房烟尘斗乱;
问问精通时事的人,答道,“那是在学跳舞。”
到别的地方去看看,如何呢?

我就往仙台的医学专门学校去。从东京出发,不久便到一处驿站 yì zhàn,写道:日暮里。
不知怎地,我到现在还记得这名目。其次却只记得水户了,这是明的遗民朱舜水 zhū shùn shuǐ 先生客死的地方。
仙台是一个市镇,并不大;冬天冷得利害;还没有中国的学生。

大概是物以希为贵罢。北京的白菜运往浙江,便用红头绳系住菜根,倒挂在水果店头,
尊为 “胶菜 jiāo cài ”; 福建野生着的芦荟 lú huì,一到北京就请进温室,且美其名曰 “龙舌兰”。

我到仙台也颇 pō  受了这样的优待,不但学校不收学费,几个职员还为我的食宿操心。
我先是住在监狱旁边一个客店里的,初冬已经颇冷,蚊子却还多,后来用被盖了全身,用衣服包了头脸,只留两个鼻孔出气。
在这呼吸不息的地方,蚊子竟无从插嘴,居然睡安稳了。

饭食也不坏。但一位先生却以为这客店也包办囚人的饭食,我住在那里不相宜,几次三番,几次三番地说。
我虽然觉得客店兼办囚人的饭食和我不相干,然而好意难却,也只得别寻相宜的住处了。
于是搬到别一家,离监狱也很远,可惜每天总要喝难以下咽的芋梗汤 yù gěng tāng。

从此就看见许多陌生的先生,听到许多新鲜的讲义。
解剖学 jiě pōu xué 是两个教授分任的。最初是骨学。其时进来的是一个黑瘦的先生,八字须,戴着眼镜,挟着一叠大大小小的书。
一将书放在讲台上,便用了缓慢而很有顿挫 dùn cuò  的声调,向学生介绍自己道:

 “我就是叫作藤野严九郎的……。”


后面有几个人笑起来了。他接着便讲述解剖学在日本发达的历史,那些大大小小的书,便是从最初到现今关于这一门学问的著作。
起初有几本是线装的;还有翻刻中国译本的,他们的翻译和研究新的医学,并不比中国早。

那坐在后面发笑的是上学年不及格的留级学生,在校已经一年,掌故颇为熟悉的了。
他们便给新生讲演每个教授的历史。

这藤野先生,据说是穿衣服太模胡了,有时竟会忘记带领结;
冬天是一件旧外套,寒颤颤 hán chàn chan 的,有一回上火车去,致使管车的疑心他是扒手 pá shǒu ,叫车里的客人大家小心些。
他们的话大概是真的,我就亲见他有一次上讲堂没有带领结。

过了一星期,大约是星期六,他使助手来叫我了。
到得研究室,见他坐在人骨和许多单独的头骨中间,──他其时正在研究着头骨,后来有一篇论文在本校的杂志上发表出来。

 “我的讲义,你能抄下来么?” 他问。
 “可以抄一点。”
 “拿来我看!”

我交出所抄的讲义去,他收下了,第二三天便还我,并且说,此后每一星期要送给他看一回。
我拿下来打开看时,很吃了一惊,同时也感到一种不安和感激。
原来我的讲义已经从头到末,都用红笔添改过了,不但增加了许多脱漏的地方,连文法的错误,也都一一订正。
这样一直继续到教完了他所担任的功课:骨学、血管学、神经学。

可惜我那时太不用功,有时也很任性。
还记得有一回藤野先生将我叫到他的研究室里去,翻出我那讲义上的一个图来,是下臂的血管,指着,向我和蔼的说道:

 “你看,你将这条血管移了一点位置了。──自然,这样一移,的确比较的好看些,然而解剖图不是美术,实物是那么样的,我们没法改换它。
现在我给你改好了,以后你要全照着黑板上那样的画。”

但是我还不服气,口头答应着,心里却想道:
 “图还是我画的不错;至于实在的情形,我心里自然记得的。”

学年试验完毕之后,我便到东京玩了一夏天,秋初再回学校,成绩早已发表了,同学100余人之中,我在中间,不过是没有落第。
这回藤野先生所担任的功课,是解剖实习和局部解剖学。
解剖实习了大概一星期,他又叫我去了,很高兴地,仍用了极有抑扬的声调对我说道:

 “我因为听说中国人是很敬重鬼的,所以很担心,怕你不肯解剖尸体。现在总算放心了,没有这回事。”
但他也偶有使我很为难的时候。
他听说中国的女人是裹脚的,但不知道详细,所以要问我怎么裹法,足骨变成怎样的畸形,还叹息道,“总要看一看才知道。
究竟是怎么一回事呢?”

有一天,本级的学生会干事到我寓里来了,要借我的讲义看。
我检出来交给他们,却只翻检了一通,并没有带走。但他们一走,邮差就送到一封很厚的信,拆开看时,第一句是:“你改悔罢!”

这是《新约》上的句子罢,但经托尔斯泰 tuō ěr sī tài 新近引用过的。
其时正值日俄战争,托老先生便写了一封给俄国和日本的皇帝的信,开首便是这一句。

日本报纸上很斥责他的不逊 bú xùn,爱国青年也愤然,然而暗地里却早受了他的影响了。
其次的话,大略是说上年解剖学试验的题目,是藤野先生在讲义上做了记号,我预先知道的,所以能有这样的成绩。末尾是匿名 nì míng。

我这才回忆到前几天的一件事。因为要开同级会,干事便在黑板上写广告,末一句是“请全数到会勿漏为要”,而且在“漏”字旁边加了一个圈。
我当时虽然觉到圈得可笑,但是毫不介意,这回才悟出那字也在讥刺 jī cì 我了,犹言 yóu yán 我得了教员漏泄出来的题目。

我便将这事告知了藤野先生;有几个和我熟识的同学也很不平,一同去诘责 jié zé 干事托辞检查的无礼,并且要求他们将检查的结果,发表出来。
终于这流言消灭了,干事却又竭力运动,要收回那一封匿名信去。结末是我便将这托尔斯泰式的信退还了他们。

中国是弱国,所以中国人当然是低能儿,分数在60分以上,便不是自己的能力了:也无怪他们疑惑。但我接着便有参观枪毙 qiāng bì 中国人的命运了。
第二年添教霉菌学 méi jùn xué,细菌的形状是全用电影来显示的,一段落已完而还没有到下课的时候,
便影几片时事的片子,自然都是日本战胜俄国的情形。
但偏有中国人夹在里边:给俄国人做侦探 zhēn tàn,被日本军捕获,要枪毙了,围着看的也是一群中国人;在讲堂里的还有一个我。

 “万岁!”他们都拍掌欢呼起来。
这种欢呼,是每看一片都有的,但在我,这一声却特别听得刺耳。
此后回到中国来,我看见那些闲看枪毙犯人的人们,他们也何尝不酒醉似的喝采,──呜呼,无法可想!但在那时那地,我的意见却变化了。

到第二学年的终结,我便去寻藤野先生,告诉他我将不学医学,并且离开这仙台。他的脸色仿佛有些悲哀,似乎想说话,但竟没有说。
 “我想去学生物学,先生教给我的学问,也还有用的。”其实我并没有决意要学生物学,因为看得他有些凄然 qī rán,便说了一个慰安他的谎话。

 “为医学而教的解剖学之类,怕于生物学也没有什么大帮助。”他叹息说。
将走的前几天,他叫我到他家里去,交给我一张照相,后面写着两个字道:“惜别 xī bié”,还说希望将我的也送他。
但我这时适值没有照相了;他便叮嘱我将来照了寄给他,并且时时通信告诉他此后的状况。

我离开仙台之后,就多年没有照过相,又因为状况也无聊,说起来无非使他失望,便连信也怕敢写了。
经过的年月一多,话更无从说起,所以虽然有时想写信,却又难以下笔,这样的一直到现在,竟没有寄过一封信和一张照片。
从他那一面看起来,是一去之后,杳无 yǎo wú 消息了。

但不知怎地,我总还时时记起他,在我所认为我师的之中,他是最使我感激,给我鼓励的一个。
有时我常常想:他的对于我的热心的希望,不倦的教诲,小而言之,是为中国,就是希望中国有新的医学;
大而言之,是为学术,就是希望新的医学传到中国去。
他的性格,在我的眼里和心里是伟大的,虽然他的姓名并不为许多人所知道。

他所改正的讲义,我曾经订成三厚本,收藏着的,将作为永久的纪念。
不幸7年前迁居的时候,中途毁坏了一口书箱,失去半箱书,恰巧这讲义也遗失在内了。
责成运送局去找寻,寂无回信。

只有他的照相至今还挂在我北京寓居的东墙上,书桌对面。
每当夜间疲倦,正想偷懒 tōu lǎn 时,仰面在灯光中瞥见他黑瘦的面貌,似乎正要说出抑扬顿挫 yì yáng dùn cuò 的话来,
便使我忽又良心发现,而且增加勇气了,于是点上一枝烟,再继续写些为“正人君子”之流所深恶痛疾的文字。

10月12日





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【注 釈】

鲁迅】 lǔ xùn   魯迅 (ろじん)     (1881-1936)
中国の文学者・翻訳家。現代中国文学の父と称される。本名、周樹人。浙江省紹興生れ。

1902年日本に留学し仙台医専を中退、東京で文学運動を開始。1909年帰国後、「狂人日記」「阿Q正伝」などを発表。
晩年は「故事新編」など歴史小説を書く一方、国民党政権の言論弾圧と闘った。周作人は実弟。許広平は妻。
評論・海外文学紹介にも活躍。他に「彷徨」「野草」「中国小説史略」など。


藤野先生】 téng yě xiān sheng    
1926年創作の自伝的散文集「朝花夕拾」(ちょうかせきしゅう)の一篇。

10篇の小品を収めるこの本の、最後から2つめの作品が「藤野先生」である。
そこに魯迅は日本留学時代に仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)で出会った
解剖学教授・藤野厳九郎(ふじの・げんくろう、1874-1945)の思い出をつづっている。


无非是这样只不过是这样。しょせんこの程度である。
有几本书买有几本书可买。 何冊か買える本がある
不免要免不了会。 否応無しに

朱舜水】 zhū shùn shuǐ    朱舜水 (しゅ しゅんすい)  (1600~1682)
明末の儒学者。明の再興を企てて成らず、1659年(万治2)日本に亡命帰化し、徳川光圀に招かれ江戸に来住した。

用红头绳系住菜根】 赤い紐で白菜の根元を縛る
胶菜】 jiāo cài    山东出产的白菜。山東菜
芦荟】 lú huì   〈植〉アロエ
美其名曰】 měi qí míng yuē   名が冠される
龙舌兰】 lóng shé lán   龍舌蘭  〈植〉リュウゼツラン

好意难却】 hǎo yì nán què   人の好意は拒みがたい
别寻】 bié xún     另外寻找。別に探し求める
芋梗汤】 yù gěng tāng   サトイモの汁

裹脚】 guǒ jiao  纏足(てんそく) をする
托尔斯泰】 tuō ěr sī tài   トルストイ。(Tolstoy)
新近】 xīn jìn   最近
正值】 zhèng zhí  刚好遇到。時まさに

全数】 quán shù   全員
犹言】 yóu yán  好比说。例えて言う。すなわち
托辞】 tuō cí  借口。口実をつくる
何尝不酒醉似的喝采】 hé cháng bù jiǔ zuì shì de hè cǎi
酔って喝采しないことがあろうか。きまって酒に酔ったように喝采する

收藏着的】 shōu cáng zhe de    「收藏着」は「しまっておく」(状態の持続)
收藏着的」は「しまっておいたもの」(名詞化の的構造句)

抑扬顿挫】 yì yáng dùn cuò  声の調子に抑揚がある 、めりはりがある
良心发现】 liáng xīn fā xiàn   良心に目覚める
之流】 zhī liú  ~の仲間、たぐい
深恶痛疾】 shēn wù tòn ɡjí   極度に憎み嫌う

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【口語訳】


「藤野先生」  魯迅 


東京も格別どうということはなかった。

上野は桜の花のまっさかりで、眺めているとたしかに真紅の雲のようだが、花の下にはどこでも清国からの
にわか留学生グループが群れを成していた。

彼らは辮髪を頭のてっぺんに巻き上げ、その上に制帽をかぶっているので、富士山のような形をしている。
中には辮髪をほどいて平らにして巻いているものもいて、帽子を脱ぐとジェルを塗ったようにてらてらと光っており、
若い女性の髪のようである。
首をなまめかしく振ったりしたら、妖艶極まりない。

中国留学生会館の入り口近くに本の売店があり、立ち寄ると掘り出し物に出会えることもしばしばあった。

会館の中にあるいくつかの洋間も、午前中は腰をおろして休むことができたが、夕方になるとどこの部屋からなのかわからないが
ものすごい地響きとともに床がすごい音をたて、ほこりが舞い上がってきてたまらなかった。

事情通の者に聞くと、あれはダンスの練習をしているとの答えが返ってきた。
別のところで勉強をするのはどうだろうか?

私はすぐさま仙台の医学専門学校に行った。東京を出てまもなく「日暮里」と書かれた駅に着いたが、なぜか今でもその名前を覚えている。
その次に覚えているのは水戸という場所で、ここは明朝の朱舜水先生が亡命し、客死された場所である。

仙台はひとつの市ではあるが、それほど大きくなかった。冬は死ぬほど寒く、中国からの留学生はまだだれもいなかった。

おそらく珍しいものはもてはやされるものなのだろうが、北京の白菜が浙江省に運ばれ赤いひもで根っこを縛られ
果物屋の店先に置かれると「膠菜」と美称されたり、福建で野生しているアロエが北京に運ばれたとたんに温室に入れられ、
「龍舌蘭」という美化された名前で呼ばれたりするが如く、私も仙台ではこのような親切な扱いを受けた。

学校では授業料を免除してくれただけでなく、職員の中には私の住居や食事の心配をしてくれる人もあった。

私は初め刑務所の近くの下宿に住んでいたが、初冬なのにもうすごい寒さだったにもかかわらず、蚊がたくさんいて悩まされた。
考えた末、布団を頭からかぶり、鼻だけ出すことにした。絶えず呼吸しているところには、蚊もさすがに手出しができず安眠することができた。

ここの食事はなかなかいいものを食べさせてくれたが、ある先生がここは刑務所に服役している人の食事も賄っているから私への影響が心配だと
何度も繰り返して忠告してくれた。
私個人は服役者の食事を賄っていることと自分とはなんの関係も無いと思ったが、好意を無視することができずよそに引っ越すしかなかった。

引っ越した場所は刑務所からはたしかに遠くはなったが、おかげで毎日喉を通らない芋茎のお汁を飲まされる羽目になってしまった。

それから私はいろいろな新しい先生たちに出会いその新鮮な講義を聴くようになった。解剖学は二人の教授が分担で授業を担当していた。

初めは骨学の授業で、そのとき教室に入ってきたのは色の黒いやせた先生で、八の字髭を生やし、眼鏡をかけ、
小脇に大小さまざまな本をはさんでいた。

先生は本を教卓に置くとゆっくりとしたアクセントに特徴のある口調で自己紹介を始めた。

「私は藤野厳九郎と申す者でございまして…」

後ろのほうで何人かのくすくす笑う声が聞こえた。
続いて先生は日本での解剖学の歴史を語り始めた。

あれらの大小さまざまな本はそれに関する昔から今に至るまでのこの方面の専門書であった。
初めのほうの何冊かは和綴じでできていた。中には中国の本の訳書のコピーもあった。
日本での翻訳と新しい医学の研究は中国と比べてそれほど早くはなかった。

後ろのほうでくすくす笑っていたのは去年進級できなかった落第生で、もう一年学校にいるので、学校のことはよく知っていた。
彼らはわれわれに先生たちのいろいろな話をしてくれた。
この藤野先生は服装に無頓着でネクタイを締め忘れることがある。

冬は薄いコート一枚でぶるぶる震えている。あるとき電車に乗ったら車掌がすりと誤解して、乗客に注意を促した・・・など。
彼らの言ったことはおそらく事実なのだろう。私は一度先生がネクタイをしないで教室に来たのを見たことがある。

一週間が過ぎ、たしか土曜日だったと思ったが、先生は助手を寄越して私に研究室に来るように言った。

中に入ると、先生はたくさんの頭蓋骨に囲まれていた。
(先生は当時頭蓋骨の研究をしていて、後に学校で出している雑誌にその論文が掲載された)

「君は、私の講義をノートに書き取ることができるかね?」
「はい、少しできます。」
「見せてごらん!」

私は講義を書き取ったノートを先生に渡した。
先生はそれを受け取ると二、三日後に返してくれ、これからは一週間ごとにノートを見せるように言った。

ノートを受け取って開いてみると私はびっくりすると同時に不安と感激を覚えた。
私が講義のとき書き取ったメモは初めから終わりまで赤いインクでびっしりと書きなおしてあった。

書き漏らした部分はもちろんのこと、文法上の間違いまでもひとつひとつきれいに直してあった。
このようにして先生が指導する骨学、血管学、神経学の勉強を無事修めた。

しかし私は怠け者で、わがままな時さえあった。
今でも覚えているのは藤野先生が私を研究室に呼び、私が講義でノートを取った図を出した。
それは肘から下の血管の図であったが、先生はそれを指差してやさしく、

「ごらん、君はここの血管の位置を少しずらして書いてあるが、たしかにこう書けば見てくれはいい。
しかし君、解剖図は美術ではないのだから、実物の様子を勝手には変えちゃいかんよ。
直しておいたからこれからは私が書いたとおりに写しなさい。」と言った。

しかし私は口でははいと言ったものの内心は不満で、心の中では「この図はよく書けたと思っています。
もちろん本当の形は頭の中で覚えています」と思っていた。

学年試験が終わってから私は東京に行って一夏を過ごした。

初秋になって帰ってくると成績が発表されていた。私の成績は百人余りの真ん中辺だったので、落第しないですんだ。
今回藤野先生が担当するのは解剖実習と局部解剖学である。

解剖実習が始まって一週間あまり経ったある日、先生はまた私を研究室に呼び、嬉しそうな様子で
例のアクセントに特徴のある口調で私に言った。

「私は中国の人は亡くなった人の霊魂をとても敬うと聞いていたので、君が解剖を嫌がるのではないかと心配していたのだが、
そんなことがなくて安心したよ。」

しかし先生はときどき私を困らせることもあった。
中国の女性は纏足をしているそうだが、詳しいことがわからないので、私にどうやって足を縛るのか、
また足の骨はどう変形しているのか尋ね、ため息まじりに、「実際に見てみないことにはどうしたってわからん。
いったいどうなっているものやら。」とぼやいていた。

ある日、クラス会の幹事が私の部屋に来て、講義のノートを見せてくれと言った。
渡すとぱらぱらとページをめくっただけですぐ返してくれ、持って行かなかった。
しかし彼らが去った後、郵便屋が一通の分厚い封筒を持ってきた。

開いてみると初めに「汝悔い改めよ!」という文章が目に飛び込んできた。
これは新約聖書に載っている言葉で、トルストイが引用したものである。

当時日露間の関係が一触即発の状態で、トルストイはロシアの皇帝と日本の天皇に宛てて手紙を書いたとき
この言葉を引用して始めの言葉とした。
日本の新聞はトルストイを不遜の輩とごうごう非難し、愛国青年たちも非常に憤慨したのだが、実際彼らは無意識のうちにトルストイの
影響を受けていたのである。

この手紙には、この前の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけておいてくれたから、
私が前もって試験問題の内容を知ることができたので合格できたのだ、というような意味のことが書いてあり、
最後は匿名になっていた。

そのとき私は何日か前のことを思い出した。
クラス会を開くというので幹事が黒板にその案内を書いたとき、最後の「みなさん漏れなくご出席ください」
という言葉の「漏」という文字に丸がついていた。

そのときはおかしなことをするものだと笑い飛ばして少しも気にかけなかったが、
今考えてみるとそれは私へのいやがらせであったことに気が付いた。   
先生に試験問題を漏らしてもらったことを皮肉っていたのである。

わたしはすぐこの事を藤野先生に報告した。
私と仲のいい何人かのクラスメートも非常に怒ってみんなで一斉に幹事に向かってなぜ私のノートを検査したのか、
またノートを検査した結果を発表するように詰め寄った。

ついにデマは消え、幹事は例の手紙を取り戻そうとやっきになった。最後は私が彼らに例のトルストイもどきの手紙を
返してやることでけりをつけた。

中国は弱い国である。だから中国人も低能である。そんな中国人が60点以上の点数が取れたのは自分の実力ではない。
彼らがそう思ったのは無理もないことだったのかもしれない。

しかし私はまた続いて銃殺された中国人に出会う運命に遭遇した。

それは次の年の細菌学の補習で、細菌の様子をスライドで示す方式を取っており、授業が一段落しても
まだ時間が余ったときは時事ニュースを放映した。
その内容は当然日本がロシアに戦勝している場面ばかりであったが中国人が時折顔を覗かせていた。

ロシアのスパイを働いて日本軍につかまり、銃殺されたのである。それを大勢で取り巻いて見ているのも中国人だった。
そして教室にいる中国人も私一人だけだった。「万歳!」その取り巻いている連中は拍手しながら叫んだ。
この叫びはどの映画ニュースでも入っているのだが、今回の叫び声は特に私の耳に強く響いた。

後に中国に帰ってからもあのような銃殺された犯人たちを見物している野次馬を見かけたが、
彼らもまた酒に酔ったようになって騒ぎ立てていた。
ああ、何をか言わんや!

しかしあの時あの場面で私の考えは一転してしまったのだ。

2年生の授業が終わってから私は藤野先生を訪ね、医学の勉強を辞めて仙台を離れることを告げた。
先生の表情には悲しみの色が浮かんでいて、何か言いたげだったが、口には一言も出さなかった。

「これからは生物学を勉強するつもりです。先生が教えてくださったことはやはり役に立ちます。」
本当は生物学を勉強するつもりはなかったのだが、先生がちょっと寂しそうだったので慰めるために
心にもないでまかせを言ってしまった。

「医学のために教えた解剖学などは生物学には余り役に立たないだろう。」先生はため息混じりにそう言った。

仙台を離れる何日か前に先生は私を自宅に呼び、写真を一枚くれた。裏には「惜別」の二字が書いてあった。
先生は私にも写真をくれと言ったがそのとき写真がなかった。すると先生はあとで必ず送るようにと念を押し、
今後の近況を必ず知らせるようにと言った。

私は仙台を離れた後も写真をずっと撮らなかったし、また最近の状況も芳しくなく、かえって先生をがっかりさせると思い
手紙を書く気になれなかった。

年月が流れるにしたがってますます書きにくくなってしまい、時には手紙を書こうかなと思うこともあったがどうも筆が進まず、
今に至るまで先生には結局一通の手紙も一枚の写真も送らずじまいになってしまった。
先生のほうからすれば私がどこで何をしているのか皆目見当が付かないわけである。

しかしどういうわけか私はときどき先生のことを思い出す。私が師と仰いだ人たちの中で藤野先生が一番私を感動させ、励ましてくれた。

私はしばしば思うのだが、先生の私に対する強い希望や惜しみない教えは、狭い意味で言えば中国が新しい医学知識を得てほしいということ、
広い意味で言えば新しい医学を中国に伝えてほしかったからだったのではないかと。 

先生の人柄は私の目からも心の中から見ても常に偉大である。先生の名前を知っている人は少ないかもしれないが。

先生が直してくれたノートは三冊にまとめ、永遠の記念品として大事にしまっておいた。
しかし、残念ながら七年前の引越しのときに途中で本箱が壊れ、その中の大半をなくしてしまった。

さらに運の悪いことに、そのノートもなくしたものの中に入っていて、私は運送業者に探すよう厳しく抗議したがなしのつぶてだった。

今先生の写真だけが、北京の我が家の東の壁の、机に面したところに掛かっている。

毎晩著作に疲れて怠け心が出たとき、ふと上を向くと、スタンドの光に照らされたあの黒くて痩せた、
今にもあの抑揚の強い口調で話しだしそうな先生の顔が目に浮かぶ。

すると、たちまち私は良心に目覚め、さらに勇気をも奮い起こすのだ。

そこで、たばこに火をつけ、再び「聖人君子」の連中に目の敵にされている文字を書き続けるのである。

10月12日