Top Page        中国語講座


【第五課 第二十九節】   小説読解


  「从百草园到三味书屋」    鲁迅  


我家的后面有一个很大的园,相传叫作百草园。

现在是早已并屋子一起卖给朱文公的子孙了,连那最末次的相见也已经隔了七八年,
其中似乎确凿只有一些野草;但那时却是我的乐园。

不必说碧绿的菜畦,光滑的石井栏,高大的皂荚树,紫红的桑椹;
也不必说鸣蝉在树叶里长吟,
肥胖的黄蜂伏在菜花上,轻捷的叫天子(云雀)忽然从草间直窜向云霄里去了。
单是周围的短短的泥墙根一带,就有无限趣味。

油蛉在这里低唱,蟋蟀们在这里弹琴。
翻开断砖来,有时会遇见蜈蚣;还有斑蝥,倘若用手指按住它的脊梁,
便会拍的一声,从后窍喷出一阵烟雾。
何首乌藤和木莲藤缠络着,木莲有莲房一般的果实,何首乌有拥肿的根。

有人说,何首乌根是有象人形的,吃了便可以成仙,我于是常常拔它起来,牵连不断地拔起来,
也曾因此弄坏了泥墙,却从来没有见过有一块根象人样。
如果不怕刺,还可以摘到覆盆子,象小珊瑚珠攒成的小球,又酸又甜,色味都比桑椹要好得远。
长的草里是不去的,因为相传这园里有一条很大的赤练蛇。

长妈妈曾经讲给我一个故事听:先前,有一个读书人住在古庙里用功,晚间,
在院子里纳凉的时候,突然听到有人在叫他。
答应着,四面看时,却见一个美女的脸露在墙头上,向他一笑,隐去了。
他很高兴;但竟给那走来夜谈的老和尚识破了机关。

说他脸上有些妖气,一定遇见“美女蛇”了;这是人首蛇身的怪物,能唤人名,倘一答应,夜间便要来吃这人的肉的。
他自然吓得要死,而那老和尚却道无妨,给他一个小盒子,说只要放在枕边,便可高枕而卧。
他虽然照样办,却总是睡不着,——当然睡不着的。

到半夜,果然来了,沙沙沙!
门外象是风雨声。
他正抖作一团时,却听得豁的一声,一道金光从枕边飞出,外面便什么声音也没有了,那金光也就飞回来,敛在盒子里。
后来呢?
后来,老和尚说,这是飞蜈蚣,它能吸蛇的脑髓,美女蛇就被它治死了。

结末的教训是:所以倘有陌生的声音叫你的名字,你万不可答应他。
这故事很使我觉得做人之险,夏夜乘凉,往往有些担心,不敢去看墙上,而且极想得到一盒老和尚那样的飞蜈蚣。
走到百草园的草丛旁边时,也常常这样想。
但直到现在,总还没有得到,但也没有遇见过赤练蛇和美女蛇。

叫我名字的陌生声音自然是常有的,然而都不是美女蛇。
冬天的百草园比较的无味;雪一下,可就两样了。
拍雪人(将自己的全形印在雪上)和塑雪罗汉需要人们鉴赏,这是荒园,人迹罕至,所以不相宜,只好来捕鸟。
薄薄的雪,是不行的;总须积雪盖了地面一两天,鸟雀们久已无处觅食的时候才好。

扫开一块雪,露出地面,用一支短棒支起一面大的竹筛来,下面撒些秕谷,棒上系一条长绳,
人远远地牵着,看鸟雀下来啄食,走到竹筛底下的时候,将绳子一拉,便罩住了。
但所得的是麻雀居多,也有白颊的“张飞鸟”,性子很躁,养不过夜的。

这是闰土的父亲所传授的方法,我却不大能用。
明明见它们进去了,拉了绳,
跑去一看,却什么都没有,费了半天力,捉住的不过三四只。
闰土的父亲是小半天便能捕获几十只,装在叉袋里叫着撞着的。

我曾经问他得失的缘由,他只静静地笑道:你太性急,来不及等它走到中间去。
我不知道为什么家里的人要将我送进书塾里去了,而且还是全城中称为最严厉的书塾。
也许是因为拔何首乌毁了泥墙罢,也许是因为将砖头抛到间壁的梁家去了罢,
也许是因为站在石井栏上跳下来罢,……都无从知道。

总而言之:我将不能常到百草园了。
Ade,我的蟋蟀们!
Ade,我的覆盆子们和木莲们!
出门向东,不上半里,走过一道石桥,便是我的先生的家了。

从一扇黑油的竹门进去,第三间是书房。
中间挂着一块扁道:三味书屋;扁下面是一幅画,画着一只很肥大的梅花鹿伏在古树下。
没有孔子牌位,我们便对着那扁和鹿行礼。
第一次算是拜孔子,第二次算是拜先生。

第二次行礼时,先生便和蔼地在一旁答礼。
他是一个高而瘦的老人,须发都花白了,还戴着大眼镜。
我对他很恭敬,因为我早听到,他是本城中极方正,质朴,博学的人。
不知从那里听来的,东方朔也很渊博,他认识一种虫,名曰“怪哉”,冤气所化,用酒一浇,就消释了。

我很想详细地知道这故事,但阿长是不知道的,因为她毕竟不渊博。
现在得到机会了,可以问先生。
“先生,‘怪哉’这虫,是怎么一回事?……”
我上了生书,将要退下来的时候,赶忙问。
“不知道!”他似乎很不高兴,脸上还有怒色了。

我才知道做学生是不应该问这些事的,只要读书,因为他是渊博的宿儒,决不至于不知道,所谓不知道者,乃是不愿意说。
年纪比我大的人,往往如此,我遇见过好几回了。
我就只读书,正午习字,晚上对课。
先生最初这几天对我很严厉,后来却好起来了,不过给我读的书渐渐加多,对课也渐渐地加上字去,从三言到五言,终于到七言。

三味书屋后面也有一个园,虽然小,但在那里也可以爬上花坛去折腊梅花,在地上或桂花树上寻蝉蜕。
最好的工作是捉了苍蝇喂蚂蚁,静悄悄地没有声音。
然而同窗们到园里的太多,太久,可就不行了,先生在书房里便大叫起来:
“人都到那里去了?”
人们便一个一个陆续走回去;一同回去,也不行的。

他有一条戒尺,但是不常用,也有罚跪的规矩,但也不常用,普通总不过瞪几眼,大声道:——“读书!”
于是大家放开喉咙读一阵书,真是人声鼎沸。
有念“仁远乎哉我欲仁斯仁至矣”的,
有念“笑人齿缺曰狗窦大开”的,
有念“上九潜龙勿用”的,
有念“厥土下上上错厥贡苞茅橘柚”的……先生自己也念书。

后来,我们的声音便低下去,静下去了,只有他还大声朗读着:
“铁如意,指挥倜傥,一座皆惊呢;金叵罗,颠倒淋漓噫,千杯未醉嗬……”
我疑心这是极好的文章,因为读到这里,他总是微笑起来,而且将头仰起,摇着,向后面拗过去,拗过去。
先生读书入神的时候,于我们是很相宜的。

有几个便用纸糊的盔甲套在指甲上做戏。
我是画画儿,用一种叫作“荆川纸”的,蒙在小说的绣像上一个个描下来,象习字时候的影写一样。
读的书多起来,画的画也多起来;书没有读成,画的成绩却不少了,最成片断的是《荡寇志》和《西游记》的绣像,都有一大本。

后来,因为要钱用,卖给一个有钱的同窗了。
他的父亲是开锡箔店的;听说现在自己已经做了店主,而且快要升到绅士的地位了。
这东西早已没有了罢。





----------------------------------------------------

【注 釈】

鲁迅】 lǔ xùn   魯迅 (ろじん)     (1881-1936)
中国の文学者・翻訳家。現代中国文学の父と称される。本名、周樹人。浙江省紹興生れ。
1902年日本に留学し仙台医専を中退、東京で文学運動を開始。1909年帰国後、「狂人日記」「阿Q正伝」などを発表。
晩年は「故事新編」など歴史小説を書く一方、国民党政権の言論弾圧と闘った。周作人は実弟。許広平は妻。
評論・海外文学紹介にも活躍。他に「彷徨」「野草」「中国小説史略」など。

从百草园到三味书屋】  cóng bǎi cǎo yuán dào sān wèi shū wū   百草園から三味書屋まで
1926年創作の自伝的散文集「朝花夕拾」(ちょうかせきしゅう)の一篇。
魯迅が子供時代を思い起こして書いた回想録で、生家の裏手にあった庭園「百草園」や
幼年期に通った私塾「三味書屋」の思い出が綴られている。

确凿】 què záo   (确实) 確かに
菜畦】 cài qí   (种蔬菜的田) 野菜畑
石井】 shí jǐnɡ   (穿石而成的井) 石井戸
皂荚树】 zào jiá shù   サイカチの木

桑椹】 sānɡ shèn   桑の実
油蛉】 yóu línɡ   (金钟儿) 鈴虫
斑蝥】 bān máo   ハンミョウ
何首乌藤】 hé shǒu wū téng   ツルドクダミ

覆盆子】 fù pénzǐ   トックリイチゴ
赤练蛇】 chì liàn shé   アカマダラ
夜谈】 yè tán   夜間に檀家回りする
机关】 jī guān   からくり。正体

人迹罕至】 rén jì hǎn zhì   (很少有人去) 訪れる人はまれ
张飞鸟】 zhānɡ fēi niǎo   (鹡鸰) セキレイ
闰土】 rùn tǔ   (人名) ルントウ。魯迅の友人
东方朔】 dōng fāng shuò   (人名) とうほうさく。前漢の政治家

怪哉】 guài zāi   (传说中怪虫、为怨气所化生) 伝説上の怪虫。冤罪の恨みの化身という
宿儒】 sù rú   (老成博学的儒士) 老学者
腊梅】 là méi   ロウバイ
桂花】 guì huā   モクセイ
人声鼎沸】 rén shēnɡ dǐnɡ fèi   (人声喧嚷嘈杂) 人が多く騒々しい

仁远乎哉我欲仁斯仁至矣】 rén yuǎn hū zāi wǒ yù rén sī rén zhì yǐ
(論語) 仁遠からんや、我仁を欲すれば、仁ここに至る

笑人齿缺曰狗窦大开】 xiào rén chǐ quē yuē gǒu dòu dà kāi
(幼学瓊林) 人の歯の欠けたるを笑ふは、狗竇 (ごうとう) の大いに開くがごとし

上九潜龙勿用】 shàng jiǔ qián lóng wù yòng
(易経・韓八卦) 初九、潜む龍を用いる勿れ

厥土下上上错厥贡苞茅橘柚】 jué tǔ xià shàng shàng cuò jué gòng bāo máo jú yòu
(尚書・禹貢編) 茅草柑橘等、其の土地の貢物、甲乙相混在す

铁如意,指挥倜傥,一座皆惊呢;金叵罗,颠倒淋漓噫,千杯未醉嗬
tiě rú yì,zhǐ huī tì tǎng,yī zuò jiē jīng ne;jīn pǒ luó,diān dǎo lín lí yī,qiān bēi wèi zuì hē
劉翰・李克用置酒三垂崗賦) 玉杯を手に益々意気軒高、千杯鯨飲するも未だ酔わず

荆川纸】 jīng chuān zhǐ   (薄而透明的纸、薄竹纸) けいせんし。薄く半透明の竹製の紙
荡寇志】 dàng kòu zhì   蕩寇志(とうこうし)。兪万春 (1794~1849) による水滸伝の続篇。
绅士】 shēn shì   (有势力有地位的地主) 有力地主




----------------------------------------------------------

【口語訳】


「百草園から三味書屋まで」  魯迅


我が家の裏に大きな庭があり、百草園と呼ばれていた。
今はすでに家とともに朱文公の子孫に売ってしまっているので、最後に見たのは、七、八年前のことだ。
たしか生えていたのは野草だけだったと思うが、あの当時は私の楽園だった。

緑の野菜畑は言うに及ばず、井戸の滑らかな石の欄干、大きなサイカチの木、赤紫の桑の実。
セミは木の葉の陰で鳴き続け、丸々とした雀蜂は菜の花に隠れ、すばしっこい雲雀は急に草間から逃げ出て、高い空に真っ直ぐに飛んでいく。
周囲の所々崩れた土塀の根もとでさえも尽きせぬ趣があった。

鈴虫は低く歌い、コオロギたちが楽器を奏でる。
割れた煉瓦をひっくり返せば、ムカデに遭遇する。ハンミョウもいて、指でその背中を押すと尻からピュッと体液を噴射する。
ツルドクダミと木蓮の蔓は絡みあっていて、木蓮は蓮の花托のような果実を付け、ツルドクダミは膨らんだ根っこをもっていた。

ツルドクダミの根には人間の形をしているものもあって、食べれば仙人になれると聞いた。
そこで私は根を引っこ抜き始め、次々と抜いたので土壁を壊してしまったが、人の形の根を一個だって見つけた事はなかった。

もし刺されるのを厭わないなら、トックリイチゴを摘む事もできた。
小さな珊瑚玉を集めたような球形で、酸っぱくて甘く、色合いも味わいも桑の実よりずっと良かった。
草が生い茂っているところへは行かなかった。この庭には大きなアカマダラが一匹いるとの言い伝えがあったからだ。

乳母が話してくれたのだが、昔、一人の書生が古廟に住み込み、学んでいたという。
晩方に庭で涼んでいると、不意に誰かが彼の名を呼んでいるのを耳にする。
返事してあたりを見回すと、美しい女が塀の向こうで彼に笑いかけると姿を消した。

彼はたいそう嬉しくなった。しかしこの晩の事を聞いた和尚は女の正体を見破った。
書生の顔には妖気があった。どうやら「美女蛇」に出くわしたに違いない。
これは人間の顔を持った蛇の妖怪であり、相手の名前をもって呼びかける。
もし返事をしてしまったら、夜更けにその者を食べにやって来るという。

書生は恐れ慄いたが、大丈夫だと和尚は小箱を書生に与え、これを枕元に置き、ぐっすり眠るがいいと言った。
書生は言われた通りにしたものの寝つけなかった。眠れないのも無理はなかった。
夜も更けた頃、果たしてそれはやって来た。シャシャシャッ~!
戸外は雨風の音がしていた。

書生が縮こまって震えていると、フッと箱が開く音がして、ひと筋の金色の光が枕元から飛び出していった。
そとでは何の物音もしない。金の光もすぐ戻ってきて箱の中に収まった。
「それからどうなったの?」

和尚は言った。「あれは空飛ぶムカデで蛇の脳髄を吸うことができる。蛇女はムカデに退治されたのだ。」
教訓:であるから、もしも見知らぬ人に名を呼ばれても、絶対に返事をしてはいけない。

この話は私に世の中は怖いと思わせた。
夏の夜に涼んでいる時など、よくよく心配で塀に目を向けられなかったし、果てには和尚の飛ぶムカデの箱がとても欲しくてたまらなくなった。
百草園の草むらの傍に行った時は、いつもそんな事を思い出していた。

しかし今に至るまで、なにも起こらなかったし、アカマダラにも美しい蛇女にも出くわさなかった。
日頃、見知らぬ人から、名を呼ばれることはあったが、もちろん美女蛇ではなかった。

冬の百草園はあまり面白くなかったが、雪が降れば別世界になった。
雪の人型(雪に全身を押しつけて人型をつける)や雪だるま作りは、出来上がれば人に見せたかった。
残念ながら、荒れた庭にやって来るのは鳥ばかりで、人はめったに通らなかった。

だが鳥をつかまえるのは楽しかった。薄い雪ではいけない。
一日二日と一面に降り積もり、鳥たちがもう何処にも餌を探せなくなった頃が、絶好のチャンスだった。

一塊の雪を除き地面を露出し、その場を覆う大きな竹ざるを短い棒で支えて穀物をばら撒く。
棒には長い縄を結び、離れた場所で縄を持つ。
鳥がやってきて啄み、竹ざるの下に入った時、縄を引いて覆い被せる。

しかし捕れるのはたいてい雀だった。
頬の白いセキレイも捕まえたが、気が短い鳥でその日の内に死んでしまった。

これはルントウ(魯迅の友人)の親父に教わった方法だが、私はあまり上手にできなかった。
鳥が入って来たのをしっかり見て縄を引く。
飛んで行って見れば何も無い。長い時間を費やして三、四羽しか捕ることができなかった。

親父は、私よりずっと短い時間で幾十羽も捕ることができた。
鳥は袋の中でチュンチュン鳴き、ぶつかり合っていた。
私がコツを教えてほしいと頼むと、親父は微笑んで言った。
「あわててはだめだ。しっかりざるの真ん中に来るまで待つのだよ。」

家人がどうして私を塾に行かせたのか分からない。しかもそれは町で一番厳しい塾だった。
ツルドクダミを引きぬいて土壁を壊したからか、煉瓦を投げて隣の梁家との仕切り壁を壊したせいか、
井戸の柵に上って飛び降りたせいか、…知るすべもない。

それからというもの、百草園に足しげく通うことは叶わなくなった。
Ade(さらば)私のコオロギたち! Ade(さらば)私のトックリイチゴや木蓮!

門を出て東に向かい二百メートル程行き、石橋を渡ると先生の家だった。
黒光りした竹の入口から入って、三つ目の部屋が教室だった。

真ん中には「三味書屋」の額が掛かっている。
その下には大きな梅花鹿が古木の元に座っている一幅の絵があった。
孔子の位牌はなかったので、私たちはその額と鹿に向かってお辞儀した。

一回目は孔子への礼で、二回目は先生への礼であった。
二回目のとき、先生はニコニコして傍らから答礼された。

先生は背が高く痩せた老人で、髪もヒゲもゴマ塩だった。大きな眼鏡をかけていた。
私はできるだけ礼儀正しくした。先生が町でも、極めて公正・質朴・博学の人であると、聞き知っていたからだ。

どこで耳にしたか覚えてはいないが、東方朔も博識で「怪哉」という名の虫を知っていたという。
これは恨みつらみが化けた虫で、酒を浴びせると溶けてしまうという。
私はこの話を詳しく知りたくて、乳母に聞いたのだが、全く知らないという。さすがに彼女は博識ではなかったためだ。

今やっとその機会ができたので、先生に訊ねた。
「先生『怪哉』という虫はどんな虫ですか?」
初めての授業が終わって退室のとき、急いで訊ねた。

「知らん!」先生はご機嫌ななめのようで、顔に怒りの色をあらわにした。
そこで私は生徒は勉強だけするべきで、このような事を聞いてはいけないのだなと理解した。
なぜなら先生は該博の老学者で知らない事などない。知らないというのは即ち言いたくないのだ。
大人は往々にしてこのようで、私は何回もこうした場面に出会った。

私は読書に専念し、正午は習字、晩は対句づくりをした。
先生は最初の幾日かは大変厳格であったが、その後は厳しさも和らいでいった。
しかし読まねばならぬ本はだんだん多くなった。
対句も徐々に字数が増え、三言が五言になり、しまいには七言になった。

三味書屋の後ろには庭があり、小さいとはいえ花壇に登って、ロウバイの枝を折ることができた。
地面でモクセイの枝や、セミの抜け殻を探すこともできた。
一番楽しかったのは蝿を捕まえて蟻の餌にすること。これは音を立てなくて済むので、具合がよかった。

しかし多くの同級生が庭に出るので、長く居るのは無理であった。教室の先生の大声が聞こえてくる。
「みんなどこへ行ったのか?」
それで一人ずつ時間をずらして戻った。一斉に戻るのはまずかった。

先生はお仕置き棒を持っていたが、普段あまり使わなかった。
正座させる罰もあったが、あまり行わず、普段は目をかっと開いて、大声で「本を読め!」とおっしゃるのみ。

そこで生徒は声を振り絞って朗読する。それはまさに「人声沸き立つ」が如くだった。
ある者は「仁遠からんや、我仁を欲すれば…云々」ある者は「人の歯の欠けたるを笑ふは…云々」
またある者は「潜む龍を用いる勿れ…云々」ある者は「其の土地の貢物…云々」など、銘々が自分の書を朗読する。

先生も自分の本を読む。少しすると生徒の声は低くなっていき、やがて静まってしまう。
先生だけが大きな声で読み続ける。「玉杯を手に、千杯鯨飲するも未だ酔わず……。」

私はこれはきっと素晴らしい文章に違いないと思った。
というのはこの部分にくると先生はいつも笑みを浮かべ、顔を仰向けて体をどんどん後ろへ反らせたからである。

先生が朗読に没頭している時、これは私たちには好都合であった。
紙と糊で兜を作り、指に嵌め遊んでいる者もいたが、私は絵を描いた。

荊川紙を小説の挿絵に重ねてなぞった。習字の時なぞるのと同じようにである。読む本が多くなるとともに、描いた絵も増えた。
読書の方は物に成らなかったが、絵の成績は少なからず上がった。
通して描いて完成させたのは「蕩寇志」と「西遊記」の挿絵である。どちらも一冊の大部の本になった。

その後お金が必要となって金持ちの同級生に売ってしまった。彼の父親は錫箔店を経営していた。
聞くところによると彼が今は主人だそうで、おまけにもうすぐ「紳士」にまでなるらしい。

でも、あの写し絵はもう無くなっているだろうな。