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【第五課 第二十八節】 小説読解
「落花生」 老舎
我是个谦卑的人。
但是,口袋里装上四个铜板的落花生,一边走一边吃,我开始觉得比秦始皇还骄傲。
假若有人问我:“你要是作了皇上,你怎么享受呢?”
简直的不必思索,我就答得出:“派四个大臣拿着两块钱的铜子,爱买多少花生吃就买多少!”
什么东西都有个幸与不幸。
不知道为什么瓜子比花生的名气大。
你说,凭良心说,瓜子有什么吃头?
它夹你的舌头,塞你的牙,激起你的怒气——因为一咬就碎;就是幸而没碎,也不过是那么小小的一片,
不解饿,没味道,劳民伤财,布尔乔亚!
你看落花生:大大方方的,浅白麻子,细腰,一曲线美。
这还只是看外貌。
弄开看:一胎儿两个或者三个粉红的胖小子。
脱去粉红的衫儿,象牙色的豆瓣一对对的抱着,上边儿还结着吻。
那个光滑,那个水灵,那个香喷喷的,碰到牙上那个干松酥软!
白嘴吃也好,就酒喝也好,放在舌上当槟榔含着也好。
写文章的时候,三四个花生可以代替一支香烟,而且有益无损。
种类还多呢:大花生,小花生,大花生米,小花生米,糖饯的,炒的,煮的,炸的,各有各的风味,而都好吃。
下雨阴天,煮上些小花生,放点盐;来四两玫瑰露;够作好几首诗的。
瓜子可给诗的灵感?
冬夜,早早的躺在被窝里,看着《水浒》,枕旁放着些花生米;花生米的香味,在舌上,
在鼻尖;被窝里的暖气,武松打虎……这便是天国!
冬天在路上,刮着冷风,或下着雪,袋里有些花生使你心中有了主儿;掏出一个来,剥了,
慌忙往口中送,闭着嘴嚼,风或雪立刻不那么厉害了。
况且,一个二十岁以上的人肯神仙似的,无忧无虑的,随随便便的,在街上一边走一边吃花生,
这个人将来要是作了宰相或度支部尚书,他是不会有官僚气与贪财的。
他若是作了皇上,必是朴俭温和直爽天真的一位皇上,没错。
吃瓜子的照例不在街上走着吃,所以我不给他保这个险。
至于家中要是有小孩儿,花生简直比什么也重要。
不但可以吃,而且能拿它们玩。
夹在耳唇上当环子,几个小姑娘就能办很大的一回喜事。
小男孩若找不着玻璃球儿,花生也可以当弹儿。
玩法还多着呢。
玩了之后,剥开再吃,也还不脏。
两个大子儿的花生可以玩半天;给他们些瓜子试试。
论样子,论味道,栗子其实满有势派儿。
可是它没有落花生那点家常的“自己”劲儿。
栗子跟人没有交情,仿佛是。
核桃也不行,榛子就更显着疏远。
落花生在哪里都有人缘,自天子以至庶人都跟它是朋友;这不容易。
在英国,花生叫作“猴豆”——Monkey nuts。
人们到动物园去才带上一包,去喂猴子。
花生在这个国里真不算很光荣,可是我亲眼看见去喂猴子的人——小孩就更不用提了
——偷偷的也往自己口中送这猴豆。
花生和苹果好象一样的有点魔力,假如你知道苹果的典故;我这儿确是用着典故。
美国吃花生的不限于猴子。
我记得有位美国姑娘,在到中国来的时候,把几只皮箱的空处都填满了花生,大概凑起来总够十来斤吧,怕是到中国吃不着这种宝物。
美国姑娘都这样重看花生,可见它确是有价值;按照哥伦比亚的哲学博士的辩证法看,这当然没有误儿。
花生大概还跟婚礼有点关系,一时我可想不起来是怎么个办法了;不是新娘子在轿里吃花生,不是;反正是什么什么春吧——你可晓得这个典故?
其实花轿里真放上一包花生米,新娘子未必不一边落泪一边嚼着。
「我们家的猫」 老舎
我们家的大花猫性格实在有些古怪。说它老实吧,它有时候的确很乖。
它会找个暖和的地方,成天睡大觉,无忧无虑,什么事也不过问。
可是,它决定要出去玩一玩,就会出走一天一夜,任凭谁怎么呼唤,它也不肯回来。
说它贪玩儿吧,的确是呀,要不怎么会一天一夜不回家呢?
可是,它听到老鼠的一点响动,又那么尽职。
它屏息凝视,一连就是几个钟头,非把老鼠等出来不可!
它要是高兴,能比谁都温柔可亲;用身子蹭你的腿,把脖儿伸出来让你给它抓痒,
或是在你写作的时候,跳上桌来,在稿纸上踩印几朵小梅花。
它还会丰富多腔地叫唤,长短不同,粗细各异,变化多端。
在不叫的时候,它还会咕噜咕噜地给自己解闷。
这可都凭它的高兴。
它若是不高兴啊,无论谁说多少好话,它一声也不出。
它什么都怕。总想藏起来。
可是它又那么勇敢,不要说对付小虫和老鼠,就是遇上蛇也敢斗一斗。
它小时候可逗人爱哩! 才来我们家刚好满月,腿脚还站不稳,已经学会了淘气。
一根鸡毛,一个线团,都是它的好玩具,耍个没完没了。
一玩起来,不知要摔多少跟头,但是跌倒了马上起来,再跑再跌,头撞在门上,桌腿上,撞疼了也不哭。
后来,胆子越来越大,就到院子里去玩了,从这个花盆跳到那个花盆,还抱着花枝打秋千。
院中的花草可遭了殃,被它折腾得枝折花落。
我从来不责打它。
看它那样生气勃勃,天真可爱,我喜欢还来不及,怎么会跟它生气呢?
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【注 釈】
【老舎】 lǎo shè 老舎 (ろうしゃ) (1899~1966)
中国の作家。本名は舒慶春。北京の貧しい満州旗人の家に生まれる。
海外生活が長かったが、1949年周恩来の要請を受け帰国。純粋の北京語と特異な諷刺とで知られる。
文化大革命で迫害死、1978年名誉回復。小説 「四世同堂」 「駱駝祥子ロートシアンツ」、戯曲 「茶館」 など。
【落花生】 1935年雑誌 「漫画生活」 に寄稿された散文。
筆者の落花生に対する嗜好と蘊蓄が、ユーモアを交えて語られている。
ユーモア作家として出発し、文壇に独自の地歩を築いた老舎の初期の作品である。
【槟榔】 bīn láng ビンロウ。檳榔樹 (ヤシ科の高木) の果実。
【糖饯】 táng jiàn (用糖浆浸渍) 砂糖漬け
【玫瑰露】 méi gui lù 玫瑰酒 (まいかいしゅ)。蒸留酒に浜梨 (ハマナシ) の花を浸した配合酒
【度支部】 dù zhī bù (清末官署、掌理财政) 財政部。清代の中央官庁
【尚书】 shàng shū 尚書 (しょうしょ)。清代の省長官
【我们家的猫】 我が家の猫
「老舎散文集」(1966年)の一篇。
猫好きの老舎が飼育している生後満一か月になる三毛猫を通して、
その風変わりな性向と、猫本来の自由奔放な姿を描いている。
【说它老实吧】 おとなしいかどうかと言えば。「吧」 は例示を表す語気詞
【要不】 yào bù 如果不是这样。でなければ
【屏息】 bǐng xī 屏气。息をひそめて
【非把老鼠等出来不可】 一定要等老鼠出来。ネズミが出てくるまでとことん待ち続ける
【丰富多腔】 fēng fù duō qiāng さまざまな声で
【长短不同】 cháng duǎn bù tóng 長さも違えば
【粗细各异】 cū xì gè yì 音色も異なり
【凭它的高兴】 píng tā de gāo xìng 彼の気分次第だ
【无论谁说多少好话】 誰がどれだけ猫なで声で話そうと
「多少」は、不定数量を表す疑問代詞。
<用例>不知等了多少时间。どれほど待ったかしれない
【逗人爱】 dòu rén ài 愛くるしい
【才来我们家】 家にやって来たばかりのころ
【耍个没完没了】 shuǎ gè méi wán méi liǎo とことん遊びまくる
【还抱着花枝打秋千】 花の枝をつかんでぶらんこする
【遭殃】zāo yāng 被害に遭う。ひどい目にあう
【折腾】zhē teng 踏み倒す
【喜欢还来不及】 喜欢它得很。とても愛おしい
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【口語訳】
「落花生」 老舎
私は、決してたいした人間ではありませんが、銅貨四個分の落花生をポケットに入れ、
歩きながら食べているときなど、あの秦の始皇帝よりも豪奢な気分に浸れるのです。
誰かに「もし皇帝になれたら、どうする?」と問われたら、私は即座に、次のように答えるでしょう。
「四人の大臣に、二元分の銅貨を持たせて、食べたいだけの落花生を買いに行かせる!」
物事には、運不運がつきものですよね。
ヒマワリの種が、なぜあんなに人気があるのか、私にはわかりません。
どうでしょう、ヒマワリの種って、食べでがありますかね?
殻が舌を挟んだり、歯を塞いだりで、イライラしませんか?
ひと咬みですぐ砕けてしまうし、砕けなくても、小さいかけらですから、お腹は膨れないし、味わうもなにもありません。
労力と財力の無駄を反映するブルジョワ社会の産物といえませんか?
落花生はといえば、実に豪勢ですよね。色白のえくぼと細い腰、その曲線の美しいこと。
これはまあ見目だけの事ですが、割ってみれば、中には二つか三つの薄紅色の丸々としたお豆さんがいます。
薄紅の着物を脱がせれば、一対づつ、象牙色のお豆さんが抱き合ってます。
とても滑らかで、ふっくらと香りも高く、噛めばパリっと歯ごたえがします。
それだけ食べても良し、お酒のつまみにも良し、ビンロウのように口中に含んでもよろしい。
文章を書く時、数粒の落花生は、タバコの代わりにもなって、そのうえ益こそあって害なしです。
種類も色々あります。大きいのに小さいの、殻付きのもの、皮むきのもの、
砂糖漬けのもの、煎り豆、煮豆、揚げ豆と、それぞれ風味があって、みな美味しいのです。
雨降りや曇りの日に、落花生を煮て、塩をパラパラと振り、一合の玫瑰酒と合わせれば、詩の数首も作れます。
ヒマワリの種で詩のインスピレーションが湧きますかね?
冬の夜、早々に布団に入って 「水滸伝」 を読みながら枕元には落花生。
落花生の香味を、舌と鼻で味わいながら、ぬくぬくとお布団にくるまって読む 「武松の虎退治」 …もう極楽です!
寒風吹きすさぶ、或いは雪降る冬の路上でも、ポケットに落花生があれば大丈夫。
一つ取り出し、剥いて急いで口に放り込めば、風も雪も忽ちに、それほどひどくはなくなります。
ましてや、二十歳以上の大人で仙人のごとく、憂いも心配もなく、気ままに歩きながら、落花生を食べられる人ならば、
将来もし大臣か財政部の尚書になっても、官僚風を吹かしたり賄賂を貪ったりしないでしょう。
皇帝になったとしたら、必ずや質素で温和、率直、天衣無縫の皇帝でしょうね。間違いありません。
ヒマワリの種については、食べながら歩く人はいないので、私には何とも申し上げようがありません。
家に子供がいたら落花生はもう何よりも重要です。
食べるだけでなくて、遊ぶ事だってできるのです。
耳たぶに挟めばイヤリング、小さな女の子が数人集まれば、立派な結婚式が挙げられます。
小さな男の子なら、ビー玉が無い時には、落花生がその代わりになります。
遊び方はまだまだありますよ。
遊びがすんだら、剥いて食べても、ちっとも汚くありません。
銅貨二個分の落花生で、かなり遊べますが、彼らにヒマワリの種を渡したらどうなるか試してごらんなさい。
ところで栗といえば、形といい味といい、実際に立派ですよね。
けれど栗は、落花生のような親しみに欠けるのです。
栗は、人と仲良しじゃありません、そんな気がします。
クルミもよくないし、ドングリは明らかによそよそしいです。
落花生は、どこであろうと注目の的です。天子さまから庶民に至るまでみんな落花生の友達です。
落花生の人気は並大抵のものではありません。
イギリスでは落花生を 「猿豆」 (Monkey Nuts) と呼びます。
人々は動物園に行く時、猿に与えるために持っていくのです。
落花生は、この国では栄誉あるものではないのですね。
でも私はこの目で、猿に餌をやる人を見たのですが、小さな子供は言うまでもなく、
こっそりとこの猿豆を、自分の口に入れる大人もいましたよ。
私は故事や言い伝えなどを引用しながら、この文章を展開しています。
もしあなたがリンゴの故事をご存知であれば、落花生とリンゴは、同じような魅力があることに気が付かれると思います。
アメリカでは、落花生を食べるのは、猿に限りません。
私は、あるアメリカ娘を知っているのですが、中国に着いた時、彼女の皮鞄の隙間は、ぎっしりと落花生で埋められていました。
一纏めにしたら十斤近くもあったでしょうか。この貴重品を、中国では入手できないと思ったのでしょうね。
アメリカのお嬢さんは、そんなにも珍重していたのですね。
落花生の値打ちが分かるというものです。
コロンビア大学の哲学博士の弁証法理論によって、この道理は見事に証明されています。
落花生は婚礼とも多分何か繋がりがあったように思いますが、どんな言い伝えだったか、今ちょっと思い出せません。
花嫁がお輿の中で落花生を食べるというあれではありません。
いずれにしろ、落花生と人生の春とが、なにやら関係があるようです。
あなたは、この言い伝えについて、何かご存知でしょうか?
でもね、お輿に一袋のピーナッツを、ちょっと置いてみたら、
花嫁が涙をこぼしながら豆を摘まむことは、容易に想像できるでしょう?
「我が家の猫」 老舎
猫の性格は本当にちょっと風変わりである。従順かというと、確かにとてもいい子のときもある。
暖かいところを探して、一日中ずっと寝ていて、何の憂いもなく、何事にもわれ関せずという態度。
しかし、いったん遊びに行こうと決めたときには、まるまる一日、誰が呼ぼうが帰ってこようとはしない。
遊び好きかというと、確かにそうで、そうでなければまるまる一日家に帰らないなんてことがあろうか。
でも、少しでもネズミの気配を感じ取ろうものなら、とても職務に忠実である。
息を殺して見張り続け、何時間でもネズミが出てくるまで待ち続ける。
機嫌がいいときには、誰よりもおとなしく人懐っこい。
体をあなたの足にこすりつけ、首を伸ばして、痒いところを掻いてもらう。
あるいはあなたが書き物をしているときなんかは、机の上に跳び乗って来て、原稿用紙の上に桜印を残す。
さらにいろんな声を使って鳴き、長さも違えばトーンも異なり、さまざまに変化する。
鳴いていないときには、ごろごろ喉を鳴らし、自分で気晴らしをする。
でも、これはすべて機嫌がいいときだけで、もし機嫌が悪ければ、どんなに猫なで声で話しかけても、一声もあげない。
何でも怖がって、いつでも隠れようとする。
しかし、またとても勇敢でもある。小さな虫やネズミは言うまでもなく、ヘビに遭遇しても戦いに挑もうとする。
生まれて一カ月ほどの子猫はもっとかわいい。足はまだふらついているが、すでにいたずら心でいっぱいだ。
ニワトリの毛一本、糸玉、どんなものでも遊び道具となり、際限なく遊ぶ。
猫同士でじゃれだすと、どんなに転んでもすぐに立ち上がって、さらに走ってまた転ぶ。
頭を戸にぶつけたり、机の足にぶつけたり、互いに頭突きしたりして、痛くてしょうがなくても、泣きはしない。
彼らはどんどん大胆になって、次から次へと新しい遊び場所を開拓してゆく。
庭にやって来れば、庭じゅうの花が被害を受ける。植木鉢の中で暴れ、花の枝につかまってはブランコ遊びをする。
彼らが通り過ぎたところはいずこも枝折れ、花落つる有様となる。
これを見ても決して責める気にはなれない。彼らはあまりにもはつらつとしていて、天真らんまんでかわいいからだ。