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【第五課 第二十八節】   小説読解


  「骆驼祥子」    老舎    


我们所要介绍的是祥子,不是骆驼,因为"骆驼"只是个外号;那么,我们就先说祥子,
随手儿把骆驼与祥子那点关系说过去,也就算了。

北平的洋车夫有许多派:年轻力壮,腿脚灵利的,讲究赁漂亮的车,拉"整天儿",
爱什么时候出车与收车都有自由;拉出车来,在固定的"车口"或宅门一放,专等坐快车的主儿;

弄好了,也许一下子弄个一块两块的;碰巧了,也许白耗一天,连"车份儿"也没着落,但也不在乎。

这一派哥儿们的希望大概有两个:或是拉包车;或是自己买上辆车,有了自己的车,
再去拉包月或散座就没大关系了,反正车是自己的。

比这一派岁数稍大的,或因身体的关系而跑得稍差点劲的,或因家庭的关系而不敢白耗一天的,
大概就多数的拉八成新的车;

人与车都有相当的漂亮,所以在要价儿的时候也还能保持住相当的尊严。这派的车夫,
也许拉"整天",也许拉"半天"。

在后者的情形下,因为还有相当的精气神,所以无论冬天夏天总是"拉晚儿"。
夜间,当然比白天需要更多的留神与本事;钱自然也多挣一些。


年纪在四十以上,二十以下的,恐怕就不易在前两派里有个地位了。

他们的车破,又不敢"拉晚儿",所以只能早早的出车,希望能从清晨转到午后三四点钟,
拉出"车份儿"和自己的嚼谷。
他们的车破,跑得慢,所以得多走路,少要钱。

到瓜市,果市,菜市,去拉货物,都是他们;钱少,可是无须快跑呢。

在这里,二十岁以下的——有的从十一二岁就干这行儿——很少能到二十岁以后改变成漂亮的车夫的,
因为在幼年受了伤,很难健壮起来。他们也许拉一辈子洋车,而一辈子连拉车也没出过风头。

那四十以上的人,有的是已拉了十年八年的车,筋肉的衰损使他们甘居人后,
他们渐渐知道早晚是一个跟头会死在马路上。

他们的拉车姿式,讲价时的随机应变,走路的抄近绕远,都足以使他们想起过去的光荣,
而用鼻翅儿扇着那些后起之辈。

可是这点光荣丝毫不能减少将来的黑暗,他们自己也因此在擦着汗的时节常常微叹。
不过,以他们比较另一些四十上下岁的车夫,他们还似乎没有苦到了家。

这一些是以前决没想到自己能与洋车发生关系,而到了生和死的界限已经不甚分明,才抄起车把来的。
被撤差的巡警或校役,把本钱吃光的小贩,或是失业的工匠,到了卖无可卖,当无可当的时候,
咬着牙,含着泪,上了这条到死亡之路。

这些人,生命最鲜壮的时期已经卖掉,现在再把窝窝头变成的血汗滴在马路上。
没有力气,没有经验,没有朋友,就是在同行的当中也得不到好气儿。

他们拉最破的车,皮带不定一天泄多少次气;一边拉着人还得一边儿央求人家原谅,
虽然十五个大铜子儿已经算是甜买卖。

此外,因环境与知识的特异,又使一部分车夫另成派别。

生于西苑海甸的自然以走西山,燕京,清华,较比方便;同样,在安定门外的走清河,
北苑;在永定门外的走南苑……


这是跑长趟的,不愿拉零座;因为拉一趟便是一趟,不屑于三五个铜子的穷凑了。
可是他们还不如东交民巷的车夫的气儿长,这些专拉洋买卖的讲究一气儿由交民巷拉到玉泉山,颐和园或西山。

气长也还算小事,一般车夫万不能争这项生意的原因,大半还是因为这些吃洋饭的有点与众不同的知识,
他们会说外国话。英国兵,法国兵,所说的万寿山,雍和宫,"八大胡同",他们都晓得。

他们自己有一套外国话,不传授给别人。他们的跑法也特别,四六步儿不快不慢,低着头,目不旁视的,
贴着马路边儿走,带出与世无争,而自有专长的神气。

因为拉着洋人,他们可以不穿号坎,而一律的是长袖小白褂,白的或黑的裤子,裤筒特别肥,脚腕上系着细带;
脚上是宽双脸千层底青布鞋;干净,利落,神气。

一见这样的服装,别的车夫不会再过来争座与赛车,他们似乎是属于另一行业的。


有了这点简单的分析,我们再说祥子的地位,就象说——我们希望——一盘机器上的某种钉子那么准确了。
祥子,在与"骆驼"这个外号发生关系以前,是个较比有自由的洋车夫,这就是说,他是属于年轻力壮,
而且自己有车的那一类:

自己的车,自己的生活,都在自己手里,高等车夫。

这可绝不是件容易的事。一年,二年,至少有三四年;一滴汗,两滴汗,不知道多少万滴汗,才挣出那辆车。
从风里雨里的咬牙,从饭里茶里的自苦,才赚出那辆车。那辆车是他的一切挣扎与困苦的总结果与报酬,
象身经百战的武士的一颗徽章。

在他赁人家的车的时候,他从早到晚,由东到西,由南到北,象被人家抽着转的陀螺;他没有自己。
可是在这种旋转之中,他的眼并没有花,心并没有乱,他老想着远远的一辆车,可以使他自由,
独立,象自己的手脚的那么一辆车。

有了自己的车,他可以不再受拴车的人们的气,也无须敷衍别人;有自己的力气与洋车,睁开眼就可以有饭吃。

他不怕吃苦,也没有一般洋车夫的可以原谅而不便效法的恶习,他的聪明和努力都足以使他的志愿成为事实。
假若他的环境好一些,或多受着点教育,他一定不会落在"胶皮团"里,而且无论是干什么,他总不会辜负了他的机会。

不幸,他必须拉洋车;好,在这个营生里他也证明出他的能力与聪明。
他仿佛就是在地狱里也能作个好鬼似的。
生长在乡间,失去了父母与几亩薄田,十八岁的时候便跑到城里来。

带着乡间小伙子的足壮与诚实,凡是以卖力气就能吃饭的事他几乎全作过了。
可是,不久他就看出来,拉车是件更容易挣钱的事;作别的苦工,收入是有限的;拉车多着一些变化与机会,
不知道在什么时候与地点就会遇到一些多于所希望的报酬。

自然,他也晓得这样的机遇不完全出于偶然,而必须人与车都得漂亮精神,有货可卖才能遇到识货的人。
想了一想,他相信自己有那个资格:他有力气,年纪正轻;所差的是他还没有跑过,与不敢一上手就拉漂亮的车。

但这不是不能胜过的困难,有他的身体与力气作基础,他只要试验个十天半月的,就一定能跑得有个样子,
然后去赁辆新车,说不定很快的就能拉上包车,然后省吃俭用的一年二年,即使是三四年,他必能自己打上一辆车,
顶漂亮的车!看着自己的青年的肌肉,他以为这只是时间的问题,这是必能达到的一个志愿与目的,绝不是梦想!



他的身量与筋肉都发展到年岁前边去;二十来的岁,他已经很大很高,虽然肢体还没被年月铸成一定的格局,
可是已经象个成人了——一个脸上身上都带出天真淘气的样子的大人。

看着那高等的车夫,他计划着怎样杀进他的腰去,好更显出他的铁扇面似的胸,与直硬的背;扭头看看自己的肩,
多么宽,多么威严!杀好了腰,再穿上肥腿的白裤,裤脚用鸡肠子带儿系住,露出那对"出号"的大脚!
是的,他无疑的可以成为最出色的车夫;傻子似的他自己笑了。

他没有什么模样,使他可爱的是脸上的精神。头不很大,圆眼,肉鼻子,两条眉很短很粗,头上永远剃得发亮。
腮上没有多余的肉,脖子可是几乎与头一边儿粗;脸上永远红扑扑的,
特别亮的是颧骨与右耳之间一块不小的疤——小时候在树下睡觉,被驴啃了一口。



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【注 釈】

老舎】 lǎo shè  老舎 (ろうしゃ) (1899~1966)

中国の作家。本名は舒慶春。北京の貧しい満州旗人の家に生まれる。

海外生活が長かったが、1949年周恩来の要請を受け帰国。純粋の北京語と特異な諷刺とで知られる。
文化大革命で迫害死、1978年名誉回復。小説 「四世同堂」 「駱駝祥子」、戯曲 「茶館」 など。


【骆驼祥子】luò tuo xiáng zǐ

駱駝祥子(らくだのシアンツ)1936年に発表した老舎の代表作品。

舞台は、1920年代、国民党が支配する中華民国時代の北京。

主人公の祥子(シアンツ)は、北京で人力車夫をする農村出身の青年。

三年必死に働いて、自分の車を持てるようになったものの、反国民党の
敗残兵に捕まって、大事な車を持って行かれてしまう。

祥子は兵隊が戦場に残した三匹の「らくだ」をつれて逃げ出し、三十元で
その「らくだ」を売ったことから「らくだのシアンツ」とあだ名をつけられる。

この祥子の生活と、彼を取り巻く人々が繰り広げる人間模様を通じて描かれる
往時の北京の風景が、作品最大の特徴となっている。


【祥子】xiáng zǐ  シアンツ。本作の主人公である人力車夫。27歳。農村出身

【也就算了】(ついでに触れておけば) それでいいだろう
【车口】(停车处) 駐車場

【差点劲】chà diǎn jìn (不是很好,不合要求) やや劣る、いまいちだ
【拉晚儿】(下午四点以后出车,拉到天亮以前) 午後4時から夜明けまで働く

【嚼谷】jiào gǔ (吃用)生活費
【抄近绕远】chāo jìn rào yuǎn (走近路,走较远的路)近道したり遠回りしたり

【苦到了家】kǔ dào le jiā (痛苦到底)どん底の苦しみを味わう
【卖无可卖】mài wú kě mài (没有可卖的东西)何か売ろうと思っても、売るべき物がない

【当无可当】dāng wú kě dāng (没有可以拿来当)何か質に入れようと思っても、質ぐさにする物がない
【窝窝头】wō wō tóu ウオトウ トウモロコシの粉を蒸した食品

【得不到好气】dé bú dào hǎo qì  好意を得ることができない(除け者にされる)
【以走西山】yǐ zǒu xī shān 西山などを走るほうが。「以」は拠り所(凭着)を表す介詞。

【零座】líng zuò (对号以外的零散座位)中途半端な距離を乗る一般客
【不屑于】bú xiè yú (认为不值得)するに値しない。ばからしい

【穷凑】qióng còu (硬凑)かき集める
【气儿长】qì r cháng (長時間働いても)息が切れない

【专拉洋买卖】zhuān lā yáng mǎi mài 外人専門の人力車稼業
【这项生意】zhè xiàng shēng yi この手の外人相手の商売

【吃洋饭的】chī yáng fàn de 外人相手の商売で食っている者
【四六步儿】sì liù bù r (不慌不忙儿的步子)ゆるやかで落ち着いた歩調

【目不旁视】mù bù páng shì (眼睛不往别处看。精神集中,专心致志)わき目もふらず

【与世无争】yǔ shì wú zhēng (跟世上没有纷争,态度超脱,不参与世俗的竞争)世事にかまけず、我が道をいく

(用例)我怎么不想过几天与世无争的日子呢,可是这麻烦主动找上了我,我躲都躲不掉。
この数日間、ひたすら俗事から離れた日々を送りたいとは思っていたのだが、
面倒な出来事が次々と降りかかって来るので、避けることができなかった。

【自有专长】zì yǒu zhuān cháng (自己有某个领域很出色的地方)誰もまねのできない特技がある
【宽双脸千层底青布鞋】kuān shuāng liǎn qiān céng dǐ qīng bù xié 先端が幅広くなっている千枚底の黒木綿の短靴

【拴车的】shuān chē de (出租人力车的)車夫に車を貸し出す親方
【不便效法】bú biàn xiào fǎ (不应该模仿)真似るのは具合が悪い

【胶皮团】jiāo pí tuán (拉车这一行)人力車夫という商売
【漂亮精神】piào liang jīng shén (精彩而充满活力)見栄えが良く溌溂としている

【一上手】yī shàng shǒu (一开始)始めから
【不能胜过】bù néng shèng guo 克服できない、乗り越えられない

【发展到年岁前边去】 (比实际年龄发育得多)年齢よりもずっと発育している
【杀进腰去】shā jìn yāo qù (把腰部勒得细一些)帯で腰をぎゅっと締め付ける

【铁扇面似的胸】tiě shàn miàn sì de xiōng (肌肉发达强壮的胸)(鉄扇のように逆三角形の)筋骨隆々とした逞しい胸

【鸡肠子带儿】jī cháng zi dài ér (鸡肠子那样细细的的小绳子)(鶏の腸のような)細い紐
【头一边儿粗】tóu yì biān r cū (跟头一样粗)頭と同じくらい太い



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【口語訳】


「駱駝祥子(らくだのシアンツ)」  老舎


この小説は「らくだ」の話ではない。祥子(シアンツ)という男の物語だ。

というのは「らくだ」は、単なるあだ名に過ぎないからだ。

とりあえず祥子の話から始め、その後「らくだ」との関係に触れたいと思う。


北京の車引きにも、いろいろな連中がいる。

若くて力が強く、足に自信がある者は、出来るだけ綺麗な車を、まる一日借りきって引く。
何時から何時まで働こうと、まったく自由なのだ。


借りて来た車は、所定の駐車場あるいは屋敷の門口に置いて、もっぱら急ぎの客が来るのを待つのである。

うまくいけば一気に一元、二元と稼げるが、あいにくと丸一日棒に振って、
車の借り賃さえ当てにならないこともある。

しかし、彼らはそんなことは、てんから気にしない。


この連中の望みは大体二つある。
得意客のお抱え車夫になるか、あるいは自前の人力車を持つかである。

自前の車さえあれば、月ぎめのお抱えだろうが、一般の客待ちであろうが、たいした違いはない。
どのみち自分の車なのだから。


この連中より少し年取った者や、身体の具合であまり速く走れない者、また家庭の事情で
一日じゅうぼんやり客を待ってはいられない者は、たいていは八分がた新車を借りる。

人も車もかなり見栄えがするので、値をつける時にもかなりハッタリをきかすことができる。
こうした連中は「日決め」で稼ぐときもあれば「半日決め」で稼ぐときもある。


後者の場合は、まだかなりの余力があるので、冬でも夏でも、かならす「昼夜兼行」で稼ぐ。

夜間は、もちろん昼間よりも多くの気配りと技量を必要とする。
当然、実入りのほうも、それだけ違ってくるというわけだ。



四十歳以上、二十歳以下の者は、上で述べた連中のようなわけにはいかない。

彼らは古い車を使い、また夜間営業をする気もないので、朝早くから出かけて、午後三時、四時までの間に
あちこち駆け回って「車の借り賃」と自分の生活費を稼ごうとする。

オンボロ車のうえに、足が遅いときているから、長時間労働のわりに稼ぎは少ない。
もっぱら瓜市、果物市、青物市に出される品物を運んでいるのが彼らで、儲けは少ないが、息せき切って走る必要もない。




中には十一、二歳からこの稼業を始める者もいるが、二十歳を過ぎていっぱしの車夫になる者はめったにいない。

これは年端の行かないうちに無理をして、体を壊してしまうからである。
彼らは一生、車を引くかもしれないが、生涯、人力車夫としての晴れ舞台を迎えることはおそらく無いだろう。

また十年近く車を引いた四十過ぎの者は、体の衰えとともに、人に遅れをとってもやむを得ないと思うようになる。
そうした連中は、やがて自分は、往来でひっくり返って、くたばるに違いないなどと、だんだんと分かってくる。



彼らの車の引きっぷり、料金の駆け引きの鮮やかさ、また近道をしたり、あるいは故意に遠回りする臨機応変さ。
これらすべては彼らにとって、素晴らしい栄光の日々の思い出となっている。

そうした過去の栄光を語る時、彼らは後輩たちに向かって得意気に小鼻をうごめかすのだ。

しかしその栄光も、暗澹たる将来の不安をいささかも消し去るものではない。
さればこそ彼ら自身、汗をぬぐう時には、人知れず小さく嘆息することが多いのである。




しかしながら、彼らはまだまだ、どん底の境遇にあるとは言えない。
というのは、彼らと同じ四十前後の他の車夫の中には、もっと苦しい立場に置かれている者がいるからだ。

この四十前後の連中は、たとえば免職になった巡査や学校の用務員、元手を食い詰めた行商人や職人など、
まさか自分が車夫になるとは夢想だにしなかった連中である。

売れる物は売り尽くし、質ぐさも無くなり、とことん瀬戸際まで追い詰められた末、歯を食いしばり、
涙ながらに人力車の梶棒を握ったのだ。

こうした人々は、血気盛んな時期を食うためにすり減らしてしまい、今はまた貧乏人の常食である
ウオトウを食べては、血のにじむような汗を路上にしたたらせているのである。




力も経験もなく、知人さえもいない彼らは、同業者の中では全く肩身の狭い思いをしている。
車もお粗末で、タイヤがしょっちゅうパンクするため、乗せた客に言い訳しながら走る始末だ。

だから銅貨で十五銭ももらえれば上々としなければならないのだ。
そのほか、出身地とか土地勘によって一派をなしている連中がいる。

西苑や海甸(かいでん 海淀区)出身者は、当然のことながら西山、燕京、清華あたりの土地に通じている。
同じく安定門外の出身者は、清河や北苑、また永定門外の出身者は、南苑あたりが本拠地といえる。




これらの連中は、もっぱら長距離専門で、短距離の客を乗せるのは、できるだけ避けたいと思っている。
遠かろうと、近かろうと、ひとっ走りはひとっ走りで、彼らにとっては同じことだからだ。

つまりは、ちょっと走っては数枚の銅銭をかき集めるのがじれったいのである。
もっとも、この連中も東交民巷(とうこうみんこう 大使館街)の車夫の足にはかなわない。

これら外人専門の連中は、交民巷から玉泉山、さらには頤和園や西山まで一気に突っ走るという芸当をやらかすのだ。
しかしながら、彼らが長距離を走って息が切れないのは、そう取り立てて言うほどのことではない。

一般の人力車夫が、どうしてもこの外人専門の連中に太刀打ちできないものが一つある。
それは、外国語を話せるという彼らの特技だ。




彼らには、イギリス兵やフランス兵が操る万寿山、雍和宮(ようわきゅう ラマ教寺院)、八大胡同といった言葉が
すべて分かるのだ。しかも彼らは、そういった言葉を、他人に教えたりしない。

彼らの走り方も特別で、速くも遅くもなく、下を向いて、道路のいちばん端を、わき目もふらず走る。
それはまるで自分には特技があるので、あくせく世事にかまける必要はないと主張しているかのようだ。

外人相手の商売なので、わざわざ車夫の法被を着なくてもいいのだが、彼らは白い長袖の上着に、白か黒のズボンを履いている。
そのズボンの胴はゆったりとしており、足首には細い帯を巻き、足には幅広の黒の布靴を履いている。

すべて清潔でさっぱりしており、また粋である。

こんな格好をしていると、他の車引きの連中の目には、まるで畑違いの商売のように見えて、あえて横合いから客を奪ったり、
車の速さを張り合おうという気は起こさなくなるのだ。




以上、北京の人力車夫について手短かな考察を加えてみたのだが、こうした考察を経ることによって、本作の主人公である
祥子が現在置かれている位置もまた、機械の上にあるネジ釘の位置と同じくらい明確に定まるというわけである。

そもそも祥子は「らくだ」というあだ名と関わるまでは、比較的自由な車夫で、しかも若くたくましく、自前の車もあり、
自らの生活も含めたすべてが自分の思うようになるという、恵まれた階級に属する車夫の一人であった。




これはしかし、決して生易しいことではなかった。一年、二年、少なくとも三、四年の間、
風雨の中を歯を食いしばり、飲食をできるだけ切り詰め、汗にまみれてようやく車を手に入れたのだ。

この車こそ、彼の諸々の戦いと苦しみの結晶であり、歴戦の武者の一つの勲章のようなものだ。




人の車を借りていた時、彼は朝から晩まで、あちこち駆け回り、人に回される独楽のように、全く自己というものがなかった。

しかし彼の目はくらむことなく、心も乱れることなく、まだ遠い先にあるが、いつかは手にすることのできる自分だけの車、
自分の手足のように自由に使える一台の車を思い続けて来た。

自前の車があってこそ、彼はもう車宿の親方たちに怒鳴られることはなく、他人にへいこらする必要も無く、いつ何時でも
すぐ目の前にある飯にありつけるのだ。




彼は苦難を恐れなかった。また車夫にありがちな、あまり見習うべきでない悪習に染まることもなかった。
彼は自身の理想を実現するのに十分な器量と熱意を持ち合わせていたのだ。

かりに彼がもう少し良い環境にあれば、あるいはいくらか教育を受けていたら、彼はおそらく「車引き稼業」に
身を落とさなかったに違いない。

どんな仕事についたにせよ、その恵まれた境遇を無駄にすることはなかっただろう。
あいにくと現実は、彼は車を引かねばならなかった。

しかし、そうなればなったで、彼はあたかも、たとえ地獄の中にいても立派な亡者になれるように、
車引き稼業においても自己の能力と聡明さを十分に証明したのだった。

彼は田舎で育ち、両親といささかの痩せた田地とを失い、十八歳のとき北京にやって来た。
田舎の若者特有の屈強さと朴訥さをもって、およそ力仕事という力仕事はあらかた経験した。




そうした力仕事はいずれも収入に限りがあったが、彼はやがて、人力車夫という仕事が意外と
簡単に金を稼げることに気づいた。

さらに車引きには時々刻々の変化の妙があり、時と場所により望外の収入が得られるチャンスも多い。
もちろん、そのようなチャンスは偶然ではなく、人も車も立派でなければならない。

売るべき商品があってこそ、その商品の真価を知る客に出会えるというわけだ。
考えてみると、彼は自分にその資格が備わっているように思われた。

彼は力があって、年も若い。ただ不安な点は、車を引いて走った経験がないことだ。
だからいきなり新車を引くわけにはいかないだろうと思った。




だがそれは、どうにも打開できない困難ではなかった。
彼ほどの体力があれば、十日か半月も練習を続ければ、なんとか恰好がつくに違いない。

それから新車を借りて引けば、案外すぐにもお抱えの車夫になれるかも知れない。

そこで一年か二年、あるいはたとえ三、四年かかっても、生活を切り詰めて辛抱すれば、かならず自前の新車を
手に入れることができるだろう。

彼は、自らの隆々とした筋肉を見つめながら、これはただ時間の問題にすぎず、必ず実現できる望みであり、
決して夢物語ではないと確信した。




彼はまだ二十歳そこそこだが、背丈も筋肉もすべて実年齢よりずっと発育していた。

成熟期を迎えていないとはいえ、体はすでに成人の域に達しており、顔にも五体にもあどけなさが
滲み出ている一人前の大人であった。

彼は、熟練した車引きたちを眺めては、どういう具合に帯を締めれば、自分の逞しい胸とまっすぐな背筋を
一層格好良く見せることができるかと懸命に考えた。

実際に自分で首を回して、肩のあたりを見ると、我ながら肩幅が広く、なんとも威厳に満ちているではないか。
腰をきゅっと締め、幅の広い白ズボンを履き、その裾を細い紐でしっかり縛ると、特大の大足がぐっと目立つ。

確かに、どう見てもいっぱしの立派な人力車夫である。思わず彼はへらへらと一人笑いするのだった。




彼の顔立ちは、どう見ても男前とは言えない。ただ彼を好ましく見せるのは顔にみなぎる溌溂とした活力だ。
頭はそれほど大きくはない。どんぐり眼にだんご鼻、眉は短く太く、頭はいつもてかてかに剃っている。

あごの上に余分な肉はなく、首はほとんど頭と同じくらい太い。顔は常に赤みを帯びている。
とりわけ目立っているのは、頬骨と右耳の間にある大きな傷跡だ。

これは子供の頃、木の下で寝ていて、ロバに噛まれたのだ。