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【第五課 第三十三節】   小説読解


  「枕中记」     沈既济 


唐开元七年,有个叫吕翁 lǚ wēng 的道士,获得了神仙之术,行走在邯郸的路上,住在旅舍中,
收起帽子解松衣带靠者袋子坐着,一会儿见一个路旅途中的少年,他名叫卢生 lú shēng。

身穿褐色的粗布短衣服,骑着青色的马,准备去田间劳作,也在旅舍中停下,和吕翁同坐在一张席子上,言谈非常畅快。
时间长了,卢生看看自己的衣服破烂肮脏,便长声叹息道:“大丈夫生在世上不得意,困窘成这样啊!”

吕翁说:“看您的身体,没有痛苦没有灾病,言谈有度,却叹困,为什么啊?”
卢生说:“我这是苟且偷生啊,哪有什么合适之说?”
卢翁说:“这样还不叫合适,那什么叫合适呢?”

回答说:“士人活在这世上,应当是建功立名,进出朝廷应该不是个将就是个相,家中用来盛装食物的鼎应该排成列,
听的音乐应该可以选择地听,让家族更加昌盛家庭更加富裕,这样才可以说得上合适啊。
我曾经致力于学习,具有娴熟的六艺,自己觉得高官可以容易地得到。
现在已经是壮年了,还在农田里耕作,不是困还是什么?”

说完,就眼睛迷蒙想睡觉。当时店主正蒸黍 shǔ 做饭。
吕翁从囊中取出枕头给他,说:“您枕着我的枕头,可以让您如您的志向那样实现您的志向。”

那枕头是青色的瓷器,并在两端开有空,卢生侧过头去睡在枕头上,
看见那孔渐渐变大,明亮有光。便投身进入,于是回到了家。


几个月后,他娶了清河崔氏的女子做妻子,这女人容貌很美丽,卢生的资产更加丰厚。
卢生非常高兴,于是衣服装束和车马,日渐鲜亮隆重。

第二年,科举考进士,他通过了科举考试脱去平民的衣装,任秘书校对官,奉皇帝的旨意,
转到渭南当县尉,县尉就是武装总官,不久迁升做监察御史,转而做起居舍人知制诰的衔位。

三年过后,出掌同州当地方长官,升迁到陕当牧,他生性喜好水利建筑,从陕西开河八十里,
解决了水路交通,当地的人们因此获利,刻石碑记录他的功德,改任卞州 biàn zhōu 的地方长官,
到河南道当采访使,应皇帝的命令到京城当尹 yǐn。

三年后,应皇帝的命令当常侍,没多久,当上了宰相。
和宰相肖嵩 xiāo sōng、宰相裴光庭 péi guāng tíng 共同执掌朝政大权十多年,高妙的谋略严谨的命令,
每天接连发布,出谋划策启发皇帝,卢生被人们称为贤相。

同朝的官僚害他,又诬陷他和边疆的将领勾结,图谋不轨。
皇帝下诏把他关进监狱。
官職带着随从到他家马上将他抓起来了。

卢生惊惶恐怕自己将要没命,对妻儿说:“我老家在山东,有良田五顷,足以御寒防饥谨,何苦要求官受禄呢?
如今落得如此地步,向往穿短的粗布衣服、骑青色的小马,行走在邯郸的路上,得不到了啊!”于是拿刀自杀抹脖子。
他的妻子赶紧抢救,才没有死。

受他牵连的人全部死了,只有卢生被官宦太监求情保住了性命,免了死罪,流放到驩州 huān zhōu。
几年以后,皇帝知道他是冤枉的,又恢复了官职当了宰相,册封为燕国公,特别受到恩宠。

他生了几个儿子:名叫俭、传、位、倜 tì、倚 yǐ,都很有才能。
俭中了进士,当上了考功员外,传当上了侍御郎,位当上了太常丞,倜当上了万年的县尉,
倚是最出色的,年龄二十八岁,当上了左襄,他们所结的亲都是名门望族。
有孙子十多个。

卢生两次流放边塞,一再登上宰相高位,出入朝野,徘徊于高官爵位之间,五十多年,崇高显赫非常。
如今性情颇为奢侈放荡,很喜欢放浪淫乐,后院的妻妾,都是天下第一的美色,
先后赏赐的良田、宅第、美女、名马,数都数不清。
后来年纪渐渐衰老,多次要求告老辞官,都没有得到允许。

病了,皇帝身边的宦官都来探病, 接踵而至,名医和上等的药材,没有不是最好的。
将要死了,上奏书说:“我本来是山东一般的儒生,以在田圃中劳作而自得其乐。
偶尔遇上皇上的恩宠,得以名列官员的位置。

承蒙皇帝过分特殊的嘉奖,得到特别的俸禄和太多的家私,出门拥有隆重的仪式,
进朝当上了宰相的高职,与朝中内外的皇亲国戚结交,锦绣人生多年。
有负于皇帝的恩宠,对皇帝圣明的教化没有什么帮助。

我不过是个小人却居了圣贤的位置遗留不少祸害,深感如履薄冰诚惶诚恐,一天比一天担心,不知不觉我已经老了。
今年已经超过八十岁了,我的官位高到了三公的极点,命岁到头了,筋骨形骸都老了,
弥留之际身体沉重困顿,等待死期的时日马上要完了,
管不成什么事情的了,非常感谢皇上的无限圣明,白白辜负了皇帝的恩宠,永远歌颂当今皇帝这年代。
非常感激和留恋。我非常诚恳地奉上此表陈述我的感谢。”

皇帝下诏书说:“你以美好的德行,作我的首席辅佐,出可以作我的保障和护翼,入朝帮我实施和谐光明的朝政。
平安繁盛二纪,完全是靠你啊,你得的疾病,原以为马上就可以痊愈。
没想到病久难治,非常担心痛惜。
现在命令骠骑大将军高力士去你家探望,好好治疗,为了我你要珍惜生命,还要心存希望,期望能够痊愈。”


当天晚上,卢生伸个懒腰醒来,看见自己的身体还睡在旅舍之中,
吕翁坐在自己身旁,店主蒸的黍还没有熟,接触到的东西跟原来一样。

卢生急切起来,说:“难道那是个梦吗?”
吕翁对卢生说:“ 人生所经历的,不过如此啊。”

卢生惆怅良久,谢道:“恩宠屈辱的人生,困窘通达的命运,获得和丧失的道理,死亡和生命的情理,全知道了。
这是先生你遏止我的欲念啊,我哪能不接受教诲啊!”

一再磕头拜谢后离去。



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【注 釈】

枕中记】 zhěn zhōng jì   枕中記 (ちんちゅうき)
中唐の伝奇小説。沈既済 (しんきさい)の作。
青年盧生(ろせい)が、茶店で道士から枕を借りて昼寝をし、自分の生涯の夢を見て、栄達のはかなさを知るという物語。
人の栄枯盛衰のはかなさをたとえる 「邯鄲の夢」 という言葉の起りであり、唐代伝奇小説の傑作として後世に伝えられる。

沈既济】 shěn jì jì    沈既済 (しんきさい)  (750~800年)
中唐の伝奇作家、歴史家。江蘇省蘇州出身。学者として知られ、九代皇帝徳宗のとき宰相楊炎の推薦で史官となった。
伝奇小説 「枕中記」 の著者として広く知られる。

苟且偷生】 ɡǒu qiě tōu shēnɡ   (得过且过地活着) 行き当たりばったり
六艺】 liù yì   六芸 (りくげい)。「春秋」 など儒家の六経を指す
】 shǔ   黍 (きび)。イネ科の穀物。食用また酒の原料。五穀のひとつ
进士】 jìn shì   進士 (しんし)。科挙の合格者の称

秘书校对官】 mì shū jiào duì guān   校書郎。図書校訂を管轄する秘書省の官職
监察御史】 jiān chá yù shǐ   監察御史。中央政府の司法を管轄する官職
起居舍人】 qǐ jū shě rén   起居舎人。中央政府で国史編集を司る官職。
知制诰】 zhī zhì gào   知制誥 (ちせいこう)。中央政府で公文書管理を司る官職

衔位】 xián wèi  官職
】 mù  都督。州を管轄する地方長官
采访使】 cǎi fǎng shǐ   採訪使 (さいほうし) 地方官の人事を司る官職
】 yǐn   尹 (いん) 。京兆府 (長安) の行政長官。

常侍】 cháng shì   常侍 (じょうじ)。皇帝の補佐を行う門下省の官職
诬陷】 wū xiàn   無実の罪を着せる
燕国公】 yàn guó gōng   燕国公 (えんこくこう) 唐代の爵位。公爵
考功员外】 kǎo gōng yuán wài   考功員外 (こうこういんがい) 地方官の考課を司る吏部の官職

侍御郎】 shì yù láng   侍御史 (じぎょし) 中央政府各機関の検察・弾劾を管轄する官職
太常丞】 tài cháng chéng   太常丞 (たいじょうしょう) 太常寺 (中央機関の一) の祭祀を司る官職
左襄】 zuǒ xiāng   左襄 (さじょう) 皇帝を諫める門下省の官職
诚惶诚恐】 chéng huáng chéng kǒng   恐れ多いことながら

三公】 sān gōng   三公 (さんこう) 高位高官。太尉・司徒・司空の三官職
骠骑大将军高力士】 piào qí dà jiāng jūn gāo lì shì   驃騎大将軍高力士。高力士は人名。驃騎大将軍は最高位の武官の称
惆怅】 chóu chàng   (失望而伤感) ふさぎ込む
磕头】 kē tóu   額を地につけて拝礼する


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【口語訳】


「枕中記」  沈既済


唐の開元七年、道士の呂翁(りょおう)という者がおり、神仙の術を会得していた。

邯鄲(かんたん)へ向かう道中、とある宿屋に泊まった。
帽子を脱いで、帯を緩め、荷物に寄りかかって座っていた。
ふと通りがかりの若い男が見えた。名を盧生(ろせい)という。

粗末な褐色の短い衣をまとい、青毛の馬に乗り、ちょうど畑に行く途中、宿屋で休憩をしたのである。
呂翁と同じむしろに座り、上機嫌に談笑していた。

大分たってから、盧生は自分の身なりの貧しいのを見て、ため息をついて言った。
「男子たる者が、この世に生まれて、機会に恵まれず、このように困窮しております。」

呂翁が言った。
「お見受けしたところ、姿といい恰好といい、なんの悩みも患いもなく楽しく語っておられるのに、
困窮を嘆くとは、どんな事情がおありなのか。」

盧生が答えた。「私は、いたずらに生き長らえているに過ぎません。どうして楽しいなどといえましょうか。」
呂翁が言った。「それが楽しいと申せないとするなら、何を楽しいと申せましょう?」

盧生が答えた。「学問を志す者が、この世に生をうけた以上、功績を挙げて名を上げ、
あるいは将軍、あるいは宰相として働き、鼎を並べる贅を尽くし、優美な音楽を吟味して聴き、
一族を繁栄させ、家庭を裕福にさせてこそ、初めて楽しいと申せるのではありませんか。

私はかつて学問に志し、様々な学芸を習得しました。
やがては高位高官の地位を、難なく手にできるものと自負しておりました。
しかし今、壮年を過ぎたというのに、相も変わらず畑仕事におわれているのは、困窮でなくてなんでしょうか?」

そう語りおわったところ、盧生は目が朦朧として、眠気が襲ってきた。
折から、宿屋の主人が、黍(きび)の飯を蒸していた。

呂翁は自分の荷物から枕を取り出すと、盧生に差し出して言った。
「この枕をお使いなさい。あなたの志にかなった栄耀栄華が授けられることでしょう。」

その枕は青磁でできていて、両端に穴が開いていた。
盧生が枕に頭を乗せて横になると、その穴が次第に大きくなり、明るくなるのが見えた。
そこで体を起して中に入ると、そのまま自分の家に着いた。


数ヶ月後、盧生は清河の崔氏の娘を娶った。妻は美しく、持参金も沢山あった。
盧生は大いに喜んだ。これより、着るものも乗る物も日に日に豪華になった。

翌年には進士に推挙され合格し、庶民の身分を脱し、校書郎の役職につき、
勅命で渭南(いなん)の県尉に任ぜられた。県尉の職は、軍事を司る長官だった。
またすぐに、観察御史に昇進し、やがて起居舎人(ききょしゃじん)、知制誥(ちせいこう)に栄転した。

三年後、同州の長官となり、また陝州(せんしゅう)の長官に昇進した。
盧生は治水工事に関心を寄せ、陝州の西から八十里に渡って水運と交通の便をはかった。
その恩恵に浴した土地の人々は、石碑を建てて盧生の功績を称えた。

この後、汴州(べんしゅう)に転任となり、河南道の採訪使(さいほうし)となったが、
召されて、京兆府の尹(いん)となった。
三年後、召されて常侍(じょうじ)となり、そして、幾らも経たないうちに宰相となった。

宰相の簫嵩(しょうすう)や裴光庭(はいこうてい)と共に、十年あまりに渡って政治を執り行った。
優れた政策と厳格な命令を、毎日続けざまに発令し、心を尽くして皇帝を補佐したので、賢明な宰相と褒め称えられた。

しかし、同輩がこれを妬み、盧生が辺境の将軍と結託して謀反を企てていると、誣告されてしまった。
投獄の命令が下り、盧生を捕えようと、役人が部下を引き連れて門前まで押しかけてきた。
この災難に恐れ驚き、死罪を覚悟した盧生は、妻子に言った。

「私には山東に家があり、良い畑が五頃(けい)もあり、飢えと寒さを凌ぐには十分であった。
わざわざ禄を求める必要もなかった。
今となっては、粗末な短衣を着て、青毛の子馬に乗り、邯鄲へ向かう道を行こうと思っても、とても出来ぬのだ。」

盧生は剣を抜いて、自害しようとした。だが妻に救われ、死を免れた。
この罪に関係した者は皆死罪となったが、盧生だけは宦官のとりなしで、罪を減じられ、驩州(かんしゅう)に流罪となった。
数年後、皇帝は冤罪であったことを知り、つぐないとして盧生を再び宰相に任命し、格別の待遇である燕国公に封じた。

盧生には五人の息子があり、倹(けん)、伝、位、倜(てき)、倚(い)といった。皆、才能があり、器量を備えていた。
倹は進士に合格し、考功員外(こうこういんがい)となった。
伝は侍御史(じぎょし)となり、位は大常丞(たいじょうしょう)となり、倜は万年の県尉となった。

末子の倚は最も賢く、二十八歳にして左襄(さじょう)となった。姻戚はみな名望のある家柄ばかりとなった。
孫は十人余りいた。

盧生は二度辺境に左遷され、二度宰相となった。中央に入ったり、地方に出たり、朝廷内の官職を歴任した。
五十余年間、地位は高く、権勢は盛んであった。

盧生は、生来頗る奢侈で、遊びを好み、奥屋敷に入れた女たちは皆第一級の美人ぞろいであった。
これまでに、皇帝から賜った良い田畑、邸宅、美女、名馬などは数え切れない程だった。

晩年、盧生の健康は次第に衰えて、度々辞職を願い出たが、許されなかった。
病気になると、皇帝に仕える宦官たちが次々に見舞いに訪れた。名医や上等の薬がさしむけられた。

死が迫り、つぎのように上奏した。
「私は、元々山東の一儒生に過ぎず、畑仕事を楽しみとしておりました。
幸いにも陛下の恩寵に与り、官員として名を連ねることができました。

身に余るお褒めを賜り、格別なご恩をいただき、地方にあっては、節度使としての旗を持ち、
朝廷にあっては、宰相の大任にありました。この様に内外を巡っておりますうちに、長い年月が経ちました。

陛下の恩寵のもとにありながら、陛下のご聖徳を広めることができず、
身に余る位にあって禍をまねいたのではないかと、薄氷を踏むような思いで日々を過ごすうちに、
いつのまにか老齢の衰えを感じるようになりました。

今、齢八十を超え、私の位は三公を極めました。
最早寿命も尽き、筋骨共に老い、病は重く気力も衰え、最早死を待つばかりでございます。

顧みますに、何ら功績もなく、陛下のご聖徳に報いることもなく、虚しく大恩に背いたまま、
永遠に大御代からお別れ致します。誠に心残りでなりませんが、ここに謹んで上奏文を奉る次第でございます。」

皇帝が詔(みことのり)して言うには、
「そなたは、優れた徳を以て、朕を輔佐し、都を出ては地方を鎮めて国を守り、都に入っては天下を太平に導いてくれた。
二十余年の平和は、誠にそなたの力に寄るものです。病にかかられたが、ほどなく全快すると思っておりました。

思いがけなくも病状がはかばかしくないのは、誠に気の毒に思います。
今、驃騎大将軍の高力士(こうりきし)をつかわし、そなたの屋敷を訪ねて見舞わせます。
ますます治療に専念し、朕のために自愛してくれますように。何事もなく全快されるよう願っております。


その夜、盧生はあくびをして伸びをすると、目を覚ました。
見ると、自分の体は宿屋の中で横になっており、呂翁が傍らに座っていた。
主人が蒸していた黍はまだ煮えておらず、手に触れた一切のものは、依然として元のままであった。

盧生は跳び起きると言った。「夢だったのか!」
すると呂翁が盧生に向かって言った。「人の一生の出来事とはこんなものじゃ。」

盧生は暫く茫然としていたが、呂翁に礼をのべた。
「栄誉と恥辱の道、困窮と繁栄の運、得るもの失うものの道理、死と生の情理、何もかもすべて分りました。
これは先生が、私の欲念を抑えんと教えて下さったのですね。ありがたく教えをお受け致します。」

盧生は、何度も額ずき再拝してから、その場を立ち去った。