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【第五課 第三十七節】   小説読解


  齐太公世家第二   司马迁    

太公望吕尚者,东海上人。其先祖尝为四岳,佐禹平水土甚有功。
虞夏之际封於吕,或封於申,姓姜氏。
夏商之时,申、吕或封枝庶子孙,或为庶人,尚其后苗裔也。
本姓姜氏,从其封姓,故曰吕尚。

吕尚盖尝穷困,年老矣,以渔钓奸周西伯。
西伯将出猎,卜之,曰“所获非龙非彨非虎非罴;所获霸王之辅”。
於是周西伯猎,果遇太公於渭之阳,与语大说,曰:
“自吾先君太公曰‘当有圣人适周,周以兴’子真是邪?吾太公望子久矣。”
故号之曰“太公望”,载与俱归,立为师。

或曰,太公博闻,尝事纣。纣无道,去之。
游说诸侯,无所遇,而卒西归周西伯。或曰,吕尚处士,隐海滨。
周西伯拘羑里,散宜生、闳夭素知而招吕尚。
吕尚亦曰“吾闻西伯贤,又善养老,盍往焉”。

三人者为西伯求美女奇物,献之於纣,以赎西伯。
西伯得以出,反国。言吕尚所以事周虽异,然要之为文武师。
周西伯昌之脱羑里归,与吕尚阴谋修德以倾商政,其事多兵权与奇计,
故後世之言兵及周之阴权皆宗太公为本谋。
周西伯政平,及断虞芮之讼,而诗人称西伯受命曰文王。
伐崇、密须、犬夷,大作丰邑。天下三分,其二归周者,太公之谋计居多。

文王崩,武王即位。九年,欲修文王业,东伐以观诸侯集否。
师行,师尚父左杖黄钺,右把白旄以誓,曰:“苍兕苍兕,总尔众庶,与尔舟楫,后至者斩!”遂至盟津。
诸侯不期而会者八百诸侯。诸侯皆曰:“纣可伐也。”武王曰:“未可。”还师,与太公作此太誓。
居二年,纣杀王子比干,囚箕子。武王将伐纣,卜龟兆,不吉,风雨暴至。群公尽惧,唯太公彊之劝武王,武王於是遂行。

十一年正月甲子,誓於牧野,伐商纣。纣师败绩。纣反走,登鹿台,遂追斩纣。
明日,武王立于社,群公奉明水,卫康叔封布采席,师尚父牵牲,史佚策祝,以告神讨纣之罪。
散鹿台之钱,发钜桥之粟,以振贫民。封比干墓,释箕子囚。迁九鼎,修周政,与天下更始。师尚父谋居多。

於是武王已平商而王天下,封师尚父於齐营丘。东就国,道宿行迟。
逆旅之人曰:“吾闻时难得而易失。客寝甚安,殆非就国者也。”太公闻之,夜衣而行,犁明至国。
莱侯来伐,与之争营丘。营丘边莱。莱人,夷也,会纣之乱而周初定,未能集远方,是以与太公争国。

太公至国,修政,因其俗,简其礼,通商工之业,便鱼盐之利,而人民多归齐,齐为大国。
及周成王少时,管蔡作乱,淮夷畔周,乃使召康公命太公曰:“东至海,西至河,南至穆陵,北至无棣,五侯九伯,实得征之。”
齐由此得征伐,为大国。都营丘。
盖太公之卒百有馀年,子丁公吕伋立。丁公卒,子乙公得立。
乙公卒,子癸公慈母立。癸公卒,子哀公不辰立。




「太公望伝」  司馬遷

太公望は中国古代、西周建国の際の功臣。名は呂尚。師尚父と尊称される。

彼は、貧窮の中に年老いて、渭水で釣をするところを周の文王に見いだされ、
周の先公の太公が望んでいた人物だということで太公望と呼ばれた。

軍師として武王の殷朝討伐に力を尽くし、斉に封ぜられてその始祖となった。


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【注 釈】

【太公望】 tài gōng wàng   太公望  (たいこうぼう)    生没年不詳。
周代の斉国の始祖。姓は姜(きょう)。字(あざな)は子牙(しが)。呂尚(りょしょう)・師尚父(ししょうふ)とも称される。

【太公望吕尚者,东海上人】 tài gōng wàng lǚ shàng zhě,dōng hǎi shàng rén  太公望呂尚は東海のほとり(山東省の海岸地方)の人である。
【其先祖尝为四岳】 qí xiān zǔ cháng wéi sì yuè  其先祖曾做四岳之官。その先祖はかつて地方の諸侯の長であった。
【四岳】  四岳(しがく)。堯や舜の五帝時代に諸侯の長として皇帝を補佐した有力者。
【佐禹平水土甚有功】 zuǒ yǔ píng shuǐ tǔ shèn yǒu gōng  辅佐夏禹治理水土有大功。禹を補佐し治水工事に大きい功績があった。
【禹】  禹(う)。夏王朝の始祖で伝説の聖王。黄河の治水に功をおさめた。

【虞夏之际封于吕,或封于申,姓姜氏】 yú xià zhī jì fēng yú lǚ,huò fēng yú shēn,xìng jiāng shì
舜、禹时被封在吕,有的被封在申,姓姜。虞舜や夏禹の頃には呂(河南)の地、あるいは申(夏)の地に封ぜられ、姓は姜氏である
【虞】    虞(ぐ)。舜が建てた王朝名

【夏商之时,申、吕或封枝庶子孙,或为庶人,尚其后苗裔也】
xià shāng zhī shí,shēn、lǚ huò fēng zhī shù zǐ sūn,huò wéi shù rén,shàng qí hòu miáo yì yě
夏、商两代,申、吕有的封给旁支子孙,也有的后代沦为平民,吕尚就是其远代后裔。
夏・殷の時代、申や呂にいた傍系の子孫は封地を与えられる者も居れば庶民となる者も居り、太公望はその末裔である
【枝庶】    枝庶(ししょ)分家。遠い子孫のこと。

【本姓姜氏,从其封姓,故曰吕尚】 běn xìng jiāng shì,cóng qí fēng xìng,gù yuē lǚ shàng
吕尚本姓姜,因为以其封地之名为姓,所以叫作吕尚。本姓は姜氏であったが、その封地の地名に従って呂尚と称した

【吕尚盖尝穷困,年老矣,以渔钓奸周西伯】 lǚ shàng gài cháng qióng kùn,nián lǎo yǐ,yǐ yú diào jiān zhōu xī bó
吕尚曾经穷困,年老时,借钓鱼的机会求见周西伯。
呂尚は蓋(もと)より、貧窮のまま年を重ね、老齢に至ったが、魚釣りをしながら周の西伯(文王)との知遇を求めていた。(盖 本来)
【文王】    文王(ぶんおう)生没年未詳。
周王朝の始祖、武王の父。姓は姫(き)、名は昌(しょう)。西伯(せいはく)とも称する。
殷代末期に、太公望など賢士を集め、渭水盆地を平定して周の基礎を築いた。古代の聖王の模範とされる。

【西伯将出猎,卜之】 xī bó jiāng chū liè,bǔ zhī
西伯在出外狩猎之前,占卜一卦。西伯は狩りに出かけようと占ったところ
「将」は、再読文字。始皇帝将死。始皇帝将(まさ)に死せんとす。

【所获非龙非螭非虎非罴;所获霸王之辅】 suǒ huò fēi lóng fēi chī fēi hǔ fēi biāo;suǒ huò bà wáng zhī fǔ”
所得猎物非龙非螭,非虎非熊;所得乃是成就霸王之业的辅臣。
獲物は龍でも蛟(みずち)でも虎でも羆(ひぐま)でもない、覇王の補佐に足る臣である
【螭】    蛟(みずち)。伝説上の角のない竜。蛇に似て、四脚を持ち、毒気を吐いて人を害するという

【于是周西伯猎,果遇太公于渭之阳】 yú shì zhōu xī bó liè,guǒ yù tài gōng yú wéi zhī yáng
西伯于是出猎,果然在渭河北岸遇到太公。西伯が猟に行くと、果たして渭水の北岸で釣りをしている太公望に出会った

【自吾先君太公曰‘当有圣人适周,周以兴】 zì wú xiān jūn tài gōng yuē ‘dāng yǒu shèng rén shì zhōu,zhōu yǐ xīng
自从我国先君太公就说:‘定有圣人来周,周会因此兴旺。’
吾が先君の太公曰く、まさに聖人有りて周に来るべし、周は以て興隆せんと
「当」は、再読文字。当有災。当(まさ)に災(わざはひ)有るべし。(災いがあるに違いない)

【子真是邪】 zǐ zhēn shì xié  说的就是您吧。あなたはまさにそのお人に違いない
【吾太公望子久矣】 wú tài gōng wàng zǐ jiǔ yǐ
我们太公盼望您已经很久了。吾が太公は、あなたを長い間待ち望んでいた

【故号之曰“太公望”,载与俱归,立为师】 gù hào zhī yuē “tài gōng wàng”,zǎi yǔ jù guī,lì wéi shī
因此称吕尚为“太公望”,二人一同乘车而归,尊为太师。
こうして呂尚は太公望と号され、西伯と共に周へと行き、西伯は太公望を師と仰いだ

呂尚が周の西伯(文王)に仕えた経緯について「史記」の中で、いくつかの逸話が紹介されている。
一般に知られているのは、「渭水での呂尚と西伯の出会い」である。

西伯は猟に出る前に占いをしたところ、獲物は獲れぬが、天下の人材を得ると出た。
狩猟に出ると、渭水で釣りをしていた呂尚に出会った。
二人は語り合い、西伯は「わが父、太公が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。
そして呂尚は西伯に軍師として迎えられ、太公望と号したという。

また一つはこうである。
呂尚は在野の士であって、東方の海浜に隠棲していた。
たまたま周の西伯が、殷の紂王に警戒されて獄に投じられた。
その際、西伯の重臣たちが呂尚と旧知であったことから、応援を求めてきた。
呂尚は紂王に美女と財宝を贈ることを提案し、西伯を釈放させた後、周に仕官したという。

「史記」はこれらの逸話を紹介したあとで、次の一言を付け加えている。
「呂尚が周に仕えた経緯は異説があるが、肝心なのは、文王、武王の軍師になったことである」

【或曰,太公博闻,尝事纣】 huò yuē,tài gōng bó wén,cháng shì zhòu
有人说,太公博学多闻,曾为商纣做事。他の伝承によれば太公望は博学であり、かつては紂に仕えていた
【纣】    紂王(ちゅうおう)。殷の三十代皇帝。名は辛(しん)。紂は称号。妲己(だっき)を愛し、酒池肉林に溺れ、虐政のため民心が離反した。
最後は、周の武王に滅ぼされた。夏の桀王(けつおう)とともに暴君の代表とされる。

【纣无道,去之。游说诸侯,无所遇,而卒西归周西伯】 zhòu wú dào,qù zhī, yóu shuì zhū hóu,wú suǒ yù,ér zú xī guī zhōu xī bó
紂の無道なるが故に去り、諸侯に遊説したが優遇されず、遂に西へと赴いて西伯に身を寄せた

【或曰,吕尚处士,隐海滨】 huò yuē,lǚ shàng chǔ shì,yǐn hǎi bīn
有人说,吕尚乃一处士,隐居海滨。他の伝承によれば呂尚は学識があったが任官せず、海浜の地に隠れ住んでいた
【处士】    処士(しょし)。在野の士。官に仕えず「野に処(い)る人」の意

【周西伯拘羑里,散宜生、闳夭素知而招吕尚】 zhōu xī bó jū yǒu lǐ,sǎn yí shēng、hóng yāo sù zhī ér zhāo lǚ shàng
周の西伯が紂によって幽閉された際、呂尚の人物を知っていた散宜生と閎夭は呂尚を招いた。
【羑里】 yǒu lǐ    羑里(ゆうり)。殷の獄舎の名前。西伯はここに拘禁された
【散宜生】 sǎn yí shēng    散宜生(さんぎせい)。周の忠臣
【闳夭】 hóng yāo    閎夭(こうよう)。周の忠臣

【吾闻西伯贤,又善养老,盍往焉】 wú wén xī bó xián,yòu shàn yǎng lǎo,hé wǎng yān
听说西伯贤德,又一贯尊重关心老年人,何不前往。
西伯の賢明で、よく老人を敬い養うと聞いている。どうして往かぬなどということがあろうか
「盍」は、反語の意。盍反其本矣。盍(なん)ぞ其の本(もと)に反(かへ)らざる。(どうしてその根本に立ち返らないのか)(孟子)
「焉」は、置き字。反語・強調の意。又何虑焉。又(ま)た何(なん)ぞ虑(おもんばか)らん。(一体何の心配があろうか)

【言吕尚所以事周虽异,然要之为文武师】 yán lǚ shàng suǒ yǐ shì zhōu suī yì,rán yào zhī wéi wén wǔ shī
虽然吕尚归周的传说各异,但大旨都认为他是文王武王之师。
呂尚の周に仕えるようになった所以は諸説あるが、いずれにしろ呂尚は文王武王に師として崇められた

【以倾商政,其事多兵权与奇计】 yǐ qīng shāng zhèng,qí shì duō bīng quán yǔ qí jì
以推翻商纣政权,其中很多是用兵的权谋和奇计。兵の強化と奇計を多くめぐらし、殷の政権を衰え傾くようにした

【故后世之言兵及周之阴权皆宗太公为本谋】 gù hòu shì zhī yán bīng jí zhōu zhī yīn quán jiē zōng tài gōng wéi běn móu
所以后代谈论用兵之道和周朝的隐秘权术的都尊法太公的基本策略。
ゆえに後世、兵法と周の権謀術策を用いる者は皆、太公望を宗主としている

【周西伯政平,及断虞芮之讼】 zhōu xī bó zhèng píng,jí duàn yú ruì zhī sòng
周西伯为正清平,尤其在明断虞、芮二国的国土争讼。周の西伯は小国の訴訟を公正に裁くなど仁政を行った
【虞芮】    虞(ぐ)・芮(せい)。山西地方の小国の名。

【诗人称西伯受命曰文王】 ér shī rén chēng xī bó shòu mìng yuē wén wáng
被诗人称道为膺受天命的文王。詩人は文王を天命を受けた君主とほめたたえた

【伐崇、密须、犬夷,大作丰邑】 fá chóng、mì xū、quǎn yí,dà zuò fēng yì
西伯又讨伐了崇国、密须和犬夷,大规模建设丰邑。
西伯は崇(しゅう)、密須(みつしゅ)、犬戎(けんい)などの部族を討伐し、周都の豊邑(ほうゆう 陝西省西安)を造営した

【天下三分,其二归周者,太公之谋计居多】 tiān xià sān fēn,qí èr guī zhōu zhě,tài gōng zhī móu jì jū duō
天下三分之二的诸侯都归心向周,多半是太公谋划筹策的结果。
天下を三分してその二までが周に帰服した。これは太公望の深謀に因るところが多かった。

このとき、天下の衆望は周の文王に集まっていた。
周の文王の勢力は日々強大化して、すでに天下の三分の二を領有していた。
それでもなお、文王は主筋に当たる殷王朝への臣従を貫いていた。

すなわち殷王朝を武力討伐するのに十分な軍事力を保有していたにもかかわらず、
あえて戦争を避けて時を待ったのである。

【武王】 wǔ wáng    武王。周王朝の始祖。文王の長子。姓は姫(き)。名は発(はつ)。太公望を擁して殷討伐を成し遂げた。

【九年,欲修文王业,东伐以观诸侯集否】 jiǔ nián,yù xiū wén wáng yè,dōng fá yǐ guān zhū hóu jí fǒu
即位して九年、武王は文王の遺業を継いで東征し、諸侯が配下に集まるかどうかを観ようとした

文王が死んで武王が即位してから九年、武王は殷王朝の討伐を開始した場合、
どれだけの諸侯が集まるかを試そうとした。

周軍は出陣し、太公望は、左手に黄金の斧(まさかり)をもち、
右手に白い指示用の旗をもって、誓って言った。
「軍船の長よ、そのほうの部下と、そのほうの船を管理せよ。遅れた者は、処刑する」
かくして、ついに孟津(黄河の港)に到着した。

諸侯は、約束したわけでもないのに、八百人も集まった。
諸侯たちは、言った。 「紂王、伐つべし!」
武王は、言った。 「天命はまだその時にあらず」
そして、軍を引き揚げ、太公望とともに「太誓」を起草した。

【师行,师尚父左杖黄钺】 shī xíng,shī shàng fù zuǒ zhàng huáng yuè
军队出师之际,被尊称为“师尚父”的吕尚左手拄持黄钺
周軍は出陣し、師尚父(ししょうふ)、すなわち呂尚は左手に黄金の鉞(まさかり)を杖つき
【黄钺】    黄鉞(こうえつ)。黄金で飾った鉞。王の専征に用いる

【右把白旄以誓】 yòu bǎ bái máo yǐ shì
右手握秉白旄誓师。右手に白旄(はくぼう ヤクの尾を飾りにした旗)の旗を握りしめて誓って云った

【苍兕苍兕,总尔众庶与尔舟楫,后至者斩】 cāng sì cāng sì,zǒng ěr zhòng shù yǔ ěr zhōu jí,hòu zhì zhě zhǎn
苍兕苍兕,统领众兵,集结船只,迟者斩首。諸侯よ諸侯よ、汝の臣下と船を統べよ、後れて来る者あらば斬らん
【苍兕】    諸侯。兵を統率する者の意。
【舟楫】    舟楫(しゅうしゅう)。舟とかい。転じて天子の政治を助ける臣下のたとえ。
【盟津】 méng jīn    盟津(もうしん)。河南省孟県にある黄河の渡し場。

【还师,与太公作此太誓】 hái shī,yǔ tài gōng zuò cǐ tài shì
班师而还,与太公同写了《太誓》。軍を引き返し、太公望と共に宣誓の書を記し、後日に期することを誓った

【比干】 bǐ gān    比干(ひかん)。殷の忠臣。殷の紂王の叔父で、紂王の暴政を諫言して殺された
【箕子】 bò zǐ    箕子(きし)。殷の紂王の叔父。紂王を諫めるも聞き入れられず、故に狂人を装ったところ幽閉された。後に箕子朝鮮を立てたとされる

【群公尽惧,唯太公强之劝武王】wéi tài gōng qiáng zhī quàn wǔ wáng 
諸侯は皆その不吉の兆しを畏れたが、ひとり太公望だけが強いて武王に勧めた。

武王はいよいよ、紂王を討伐することを決心した。
そして、勝敗を占ったが、不吉な結果が出た。
しかも、強風が吹き、大雨が振りだしたので、諸侯らはおびえた。
ただ太公望だけが、出陣を強く武王に主張した。

このとき、殷の地では、紂王に対する人々の怨嗟の声が巷に溢れ、
諸侯には殷から離れていく者が続出していた。
太公望は、今まさに攻撃を仕掛ける時と判断したのである。

かくて武王は、出陣を決行した。

【群公奉明水,卫康叔封布采席】 qún gōng fèng míng shuǐ,wéi kāng shū fēng bù cǎi xí
群臣手捧明水,卫康叔封铺好彩席。諸侯は明水(めいすい)を奉げ、衛の康叔封(こうしゅくほう 衛国の祖で武王の弟)は采席を設けた。
【明水】    神前に供える水。鏡に月を映してその露を集めたもの
【彩席】    神前に供える御幣で囲った席

【师尚父牵牲,史佚策祝,以告神讨纣之罪】 shī shàng fù qiān shēng,shǐ yì cè zhù,yǐ gào shén tǎo zhòu zhī zuì
师尚父牵来祭祀之牲,史佚按照策书祈祷,向神碉禀告讨伐罪恶商纣之事。
太公望は祭祀の生贄を率い、史官の史佚(しいつ)は竹の札に書いた祭文を読み、紂の罪を神に告げてその討伐した所以を示した。
【策祝】   策祝(さくしゅく)竹札に書いた祭文を奏上する

【迁九鼎,修周政,与天下更始】 qiān jiǔ dǐng,xiū zhōu zhèng,yǔ tiān xià gēng shǐ
把象征天下最高权力的九鼎迁往周国,修治周朝政务,与天下之人共同开始创造新时代。
殷の至宝である九鼎を周の都に遷し、周の政務を整え、天下人民とともに新たな世の幕開けを宣言した
【九鼎】    夏の禹が全国から銅を集めて作らせた九個の鼎(かなえ)。全土の九州を表したもの。夏・殷・周三代に伝わる至宝。

【师尚父谋居多】 shī shàng fù móu jū duō
上述诸事多半是采用师尚父的谋议。これらは全て師尚父(ししょうふ)の謀に負うところが多かった

【于是武王已平商而王天下,封师尚父于齐营丘】 yú shì wǔ wáng yǐ píng shāng ér wáng tiān xià,fēng shī shàng fù yú qí yíng qiū
こうして武王は殷を平定し天下の王となった。師尚父(ししょうふ)を斉の営丘に封じた
【営丘】    営丘(えいきゅう)。後の斉の国都。(現山東省淄博市)

【东就国,道宿行迟】 dōng jiù guó,dào sù xíng chí
师尚父东去自己的封国,边行边住,速度很慢。師尚父は東の斉へ赴いたが、途中で宿泊するなど、それほど急ぐこともなかった

【逆旅之人曰:“吾闻时难得而易失】 nì lǚ zhī rén yuē:“wú wén shí nán dé ér yì shī
宿屋の主人が云った。私は「時は得難くして失い易し」と聞いている
【逆旅】    逆旅(げきりょ)旅館。宿屋。旅人を逆(むか)える所の意

【客寝甚安,殆非就国者也】 kè qǐn shèn ān,dài fēi jiù guó zhě yě”
这位客人睡得这样安逸,恐怕不是去封国就任的吧。お客様はゆっくりとして少しも急ぐ気配がなく、これから国に赴く方とは思えません

【太公闻之,夜衣而行,犁明至国】 tài gōng wén zhī,yè yī ér xíng,lí míng zhì guó
太公听了此言,连夜穿衣上路,黎明就到达齐国。
これを聞いた太公望は反省し、夜のうちに服装を整えて出発し明け方には斉に着いた

【莱侯来伐,与之争营丘】 lái hóu lái fá,yǔ zhī zhēng yíng qiū
正遇莱侯带兵来攻,想与太公争夺营丘。そこに丁度、萊侯が攻めて来て営丘で争いになった。
【莱侯】    萊(らい)地方の首長。(萊は山東省黄県の東南の地)

【营丘边莱】 yíng qiū biān lái    营丘毗邻莱国。営丘は萊(らい)の辺境に接している

【莱人,夷也,会纣之乱而周初定】 lái rén,yí yě,huì zhòu zhī luàn ér zhōu chū dìng
莱人是夷族,趁商纣之乱而周朝刚刚安定。
萊(らい)は夷(えびす 東方の異民族)の一族である。紂殷の乱世にあってはじめて天下を平定したものの

【未能集远方,是以与太公争国】 wéi néng jí yuǎn fāng,shì yǐ yǔ tài gōng zhēng guó
无力平定远方,因此和太公争夺国土。その統治は辺境までは行き届かず、故に太公望と斉を巡って争いになったのである
(集 安集)

【太公至国,修政,因其俗,简其礼,通商工之业】 tài gōng zhì guó,xiū zhèng,yīn qí sú,jiǎn qí lǐ,tōng shāng gōng zhī yè
斉へと到着した太公望は、仁政を引いて民を安んじ、その地の風俗に合わせて礼法を布き、商工を滞りなく行なわせた

【便鱼盐之利,而人民多归齐,齐为大国】 biàn yú yán zhī lì,ér rén mín duō guī qí,qí wéi dà guó
特産品の海産物によって国政を潤したので、多くの人々が集まり斉は大国となった
【鱼盐】    魚塩(ぎょえん)。海産物のこと。

【及周成王少时,管蔡作乱】 jí zhōu chéng wáng shǎo shí,guǎn cài zuò luàn,
成王が若くして即位すると、管叔と蔡叔が乱を起こした
【成王】    成王(せいおう)。周王朝二代目。開祖の武王の後を継いで即位。
【管蔡】    管蔡(かんさい)。管叔と蔡叔。どちらも武王の弟で殷の子孫(紂王の子である武庚)を擁立して反乱を起こした。

【淮夷畔周】 huái yí pàn zhōu
淮水にいた夷(えびす 異民族)が周に反乱を起こした
【淮夷】    淮夷(わいい)。古く淮域にいた沿海異民族

【乃使召康公命太公】 nǎi shǐ zhào kāng gōng mìng tài gōng yuē
成王は召康公(しょうこうこう)を通じて太公望に告げて云った
【召康公】    召康公(しょうこうこう)。周建国の功臣。
武王の殷朝打倒を補佐し、その功績により燕(現在の河北省北部)に封じられ、都城を薊(現在の北京)と定めた

【东至海,西至河,南至穆陵】 dōng zhì hǎi,xī zhì hé,nán zhì mù líng
東は海に至るまで、西は黄河に至るまで、南は穆陵(ぼくりょう 湖北省麻城県北方)に至るまで、

【北至无棣,五侯九伯,实得征之】 běi zhì wú dì,wǔ hóu jiǔ bó,shí dé zhēng zhī
北は無棣(むてい 山東省無棣県)に至るまで、五侯九伯(天下の諸侯)が罪を犯した場合は討伐することを許した

【齐由此得征伐,为大国。都营丘】 qí yóu cǐ dé zhēng fá,wéi dà guó dū yíng qiū
これによって斉は征伐の権限を与えられ、大国となったのである。 斉は営丘を都とした。

【盖太公之卒百有馀年,子丁公吕伋立】 gài tài gōng zhī zú bǎi yǒu yú nián,zǐ dīng gōng lǚ jí lì
盖(おそら)く、太公望が没したときは百余歳であっただろう。子の丁公・呂伋(ていこう・りょきゅう)が代わりに立った
(盖 大概)

【丁公卒,子乙公得立】 dīng gōng zú,zǐ yǐ gōng dé lì
丁公が没すると、代わりに子の乙公・得(いっこう・う)が立ち

【乙公卒,子癸公慈母立】 yǐ gōng zú,zǐ guǐ gōng cí mǔ lì
乙公が没すると、代わりに子の癸公・慈母(きこう・じぼ)が立ち

【癸公卒,子哀公不辰立】 guǐ gōng zú,zǐ āi gōng bù chén lì
癸公が没すると、代わりに子の哀公・不辰(あいこう・ふしん)が立った



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【口語訳】

太公望呂尚(りょしゃう)といふ者、東海の上(ほとり)の人なり。
其の先祖、嘗(かつ)て四岳(しがく)と為り、禹(う)を佐(たす)けて水土を平らげ、甚だ功有り。
虞(ぐ)・夏(か)の際、呂に封ぜられ、或いは申に封ぜらる。姓は姜(きょう)氏なり。

夏(か)・商(しょう)の時、申、呂或いは枝庶(ししょ)を封ず。
子孫或いは庶人(しょじん)と為る。尚(しゃう)は其の後の苗裔(びょうえい)なり。
本姓は姜氏、其の封(ほう)に従いて姓とす。故に呂尚(りょしゃう)と曰ふ。

呂尚、蓋(けだ)し嘗(かつ)て窮困(きゅうこん)し、年老いたり。
漁釣(ぎょちょう)を以て周の西伯(せいはく)に奸(もと)む。
西伯、将(まさ)に出でて猟(かり)せんとし、之を卜(ぼく)す。

曰く、獲(う)る所は龍(りゃう)に非ず、彲(ち)に非ず、虎に非ず、羆(ひ)に非ず。
獲る所は覇王の輔(たす)けなり、と。
是に於いて周の西伯、猟す。果たして太公に渭(い)の陽(きた)にて遇(あ)ふ。

与(とも)に語り大いに説(よろこ)びて曰く、
吾が先君太公より曰く、当(まさ)に聖人有りて周に適(ゆ)くべし、周以て興(おこ)らん、と。
子は真(まこと)に是れならんか。
吾が太公、子(し)を望むこと久し、と。
故に之を号して曰く、太公望、と。
載(の)せて与倶(とも)に帰り、立てて師(し)と為す。

或いは曰く、太公は博聞(はくぶん)なり。嘗(かつ)て紂(ちゅう)に事(つか)ふ。
紂、無道なり、之を去り、諸侯に游説(ゆうぜい)す。
遇ふ所無く、而して卒(つひ)に西(にし)して周の西伯に帰す、と。

或いは曰く、呂尚は処士(しょし)なり。海浜(かいひん)に隠(かく)る。
周の西伯、羑里(ゆうり)に拘(とら)わるるや、散宜生(さんぎせい)、閎夭(こうよう)は素(もと)より知りて呂尚を招く。
呂尚、亦た曰く、吾れ聞く、西伯は賢にして、又た善く老を養ふ、と。
盍(なん)ぞ往(ゆ)かざらん、と。

三人の者、西伯の為に、美女・奇物を求め、之を紂に献じ、以て西伯を贖(あがな)ふ。
西伯、以て出でて国に反(かえ)ることを得たり、と。
呂尚の周に事(つか)ふる所以(ゆえん)を言ふこと、異なりと雖も、然(しか)し之を要すること文・武(ぶん・ぶ)の師(し)為(た)り。

周の西伯昌(せいはくしょう)の羑里(ゆうり)を脱(のが)れて帰(かえ)るや、
呂尚と与(とも)に陰(ひそ)かに謀(はか)り徳を修め、以て商の政(まつりごと)を傾(かたむ)く。
其の事、兵権と奇計多し。

故に後世の兵及び周の陰権(いんけん)を言ふもの、皆な太公を宗(そう)とし、本謀(ほんぼう)と為(な)す。
周の西伯、政(まつりごと)平(たいら)かなり。虞(ぐ)・芮(ぜい)の訴へを断ずるに及びて、詩人、西伯の受命を称して曰く、
文王(ぶんおう)、崇(しゅう)、密須(みつしゅ)、犬夷(けんい)を伐(う)ち、大いに豊邑(ほうゆう)を作り、
天下を三分し、其の二は周に帰す者、と曰(い)えるは、太公の謀計(ぼうけい)、多きに居る。

文王崩じ、武王、即位す。
九年、文王の業を修め、東伐(とうばつ)し、以て諸侯の集否(しゅうひ)を観(み)んと欲す。
師行(ゆ)くに、師尚父(ししゃうほ)、左に黄鉞(こうえつ)を杖とし、右に白旄(はくぼう)を把(と)り、以て誓ひて曰く、
蒼兕(そうじ)蒼兕、爾(なんじ)の衆庶(しゅうしょ)と爾の舟楫(しゅうしゅう)とを総(すべ)よ。
後れて至る者は斬らん、と。 遂に盟津(もうしん)に至る。

諸侯、期せずして会する者、八百諸侯あり。
諸侯皆な曰く、紂を伐(う)つべきなり、と。 武王曰く、 未だ可(か)ならず、と。 師を還(かえ)す。
太公と与(とも)に此の太誓(たいせい)を作る。

居ること二年、紂は王子比干(ひかん)を殺し、箕子(きし)を囚(とら)ふ。
武王、将(まさ)に紂を伐たんとす。卜(ぼく)するに亀兆(きちょう)吉ならず。風雨暴(にわ)かに至る。
群公(ぐんこう)尽く懼(おそ)る。唯(た)だ太公は之を強(し)ひて武王に勧む。武王は是(ここ)において遂に行(ゆ)く。

十一年正月甲子(きのえね)、牧野(ぼくや)に誓ひ、商紂(しょうちゅう)を伐(う)つ。
紂の師、敗績(はいせき)す。
紂、反(かえ)りて走り、鹿台(ろくだい)に登る。遂に追ひて紂を斬る。

明日(みょうにち)、武王は社(しゃ)に立つ。
群公、明水(めいすい)を奉(ほう)じ、衛(えい)の康叔封(こうしゅくほう)、采席(さいせき)を布(し)き、
師尚父(ししゃうほ)は牲(いけにえ)を牽(ひ)く。

史佚(しいつ)、策祝(さくしゅく)し、以て神に紂の罪を討(とう)ぜしを告ぐ。
鹿台の銭(ぜに)を散じ、鉅橋(きょきょう)の粟(ぞく)を発し、以て貧民を振(にぎ)わす。

比干(ひかん)の墓を封(ほう)じ、箕子(きし)の囚(とら)われを釈(ゆる)す。
九鼎(きゅうてい)を遷(うつ)し、周の政(まつりごと)を修め、天下と更始(こうし)す。
師尚父(ししゃうほ)の謀(はかりごと)、多きに居る。

是(ここ)に於いて武王は、已に商を平らげて天下に王たり。
師尚父を斉の営丘(えいきゅう)に封(ほう)ず。
東(ひがし)して国に就くに、道に宿(しゅく)し、行(ゆ)くこと遅し。

逆旅(げきりょ)の人曰く、 吾れ聞く、時は得難く失い易し、と。
客(かく)寝(い)ぬること甚だ安し。殆(ほとん)ど国に就く者に非ざるなり、と。
太公、之を聞き、夜(よわ)に衣(き)て行き、黎明(れいめい)、国に至る。

萊侯(らいこう)来たり伐(う)ち、之(これ)と営丘(えいきゅう)に争ふ。
営丘は萊(らい)に辺(へん)す。萊人(らいひと)は、夷(い)なり。
紂の乱に会ひて周初(はじ)めて定まり、未だ遠方を集(やす)んずること能(あた)はず。
是を以て太公と国を争いしなり。

太公、国に至り、政を修め、其の俗に因りて、其の礼を簡にし、商工の業(ぎょう)を通じ、
魚塩(ぎょえん)の利を便(べん)にす。
而して人民多く斉に帰し、斉は大国と為る。

周の成王の少(わか)き時に及び、管(かん)・蔡(さい)、乱を作(な)し、淮夷(わいい)、周に畔(そむ)く。
乃ち召康公(しょうこうこう)をして太公に命ぜしめて曰く、
東は海に至り、西は河(か)に至り、南は穆陵(ぼくりょう)に至り、北は無棣(むてい)に至る。
五侯九伯(ごこうきゅうはく)、実に之を征するを得(う)、と。

斉、此(これ)に由りて、征伐(せいばつ)するを得て大国と為り、営丘を都(みやこ)とす。
蓋(けだ)し太公卒(しゅつ)せしは、百有余年なり。

子の丁公呂伋(ていこうりょきゅう)立つ。
丁公(ていこう)卒(しゅつ)し、子の乙公得(いっこうう)立つ。
乙公(いっこう)卒(しゅつ)し、子の癸公慈母(きこうじぼ)立つ。
癸公(きこう)卒(しゅつ)し、子の哀公不辰(あいこうふしん)立つ。