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【第五課 第五節】 小説読解
「少爷」 夏目漱石
我因为生性莽撞而吃尽了亏。
记得念小学时,我从学校校舍的二楼跳下来,弄得整整一个礼拜起不来。
也许有人奇怪,我怎么会做这种莽撞的事,其实说开来也没什么,
只不过因为当时有位同学,看我在新建的二楼往窗外探头,便开玩笑地对我说:
“你这个胆小鬼,再神气也不敢从二楼跳下去。”
他有意戏弄我,我却真的跳了。
当工友将我背回家时,父亲睁大了眼睛,讶异地说:
“哪有人从二楼跳下而站不起来的!”
我回答说: “下次我跳时,会站起来给你看。”
一位亲戚送我一把西洋刀,这刀在美丽的阳光下,闪闪发光,我的朋友看了说:
“亮是亮啦!可惜不利。”
“怎么不利,什么东西都切得下,我可以表演给你看!”
“好吧!那就切你的手指头看看!”
我不服气地说: “手指头算什么,我切给你看。”
于是,我就真的伸出自己的手,在拇指的指甲上切了下去,
幸亏刀子小,手指的骨头又硬,所以这节拇指至今还留在我手上,
但是这疤痕却永远无法消失了。
从我家院子东边二十步远处再向南走,那里的高地上有一片菜园,园中央有棵栗树,
这棵栗树上长着比命还重要的栗子。
当栗子成熟时,我一起床就由后门跑出去摘了些带到学校去吃。
菜园的西边与一家叫“山城屋”的当铺相连接。
这家当铺的老板有个十三、四岁的儿子,名叫勘太郎,是个胆小鬼。
不过他虽胆小,却经常翻过四道围墙来偷栗子。
有一天傍晚,我躲在摺叠式的门后面,将正在偷栗子的勘太郎逮个正着。
当时,勘太郎无处可逃,只好朝我死命地扑来。
他比我大两岁,胆子固然小,力气却很大,他用头颅对准我的胸部顶来。
一不小心,头部滑进我宽大的和服袖子里,
我的手被卡住,无法挥动自如,索性猛力摇晃,袖子里勘太郎的头部也跟着左右晃动。
他不堪其苦,便狠狠地咬我手臂!
我痛得发火,就将他押向篱笆,用脚勾住他的腿,将他推向篱笆另一边。
山城屋的地面比菜园低六尺,勘太郎压倒了半边的第四座围墙,
倒栽在自家的“领地”上昏了过去。
随着勘太郎的栽落,我的一只袖子也被撕去,那只被卡住的手,突然恢复了自由。
那天晚上!母亲到山城屋去赔罪,顺便要回我那只撕裂的袖子。
除此之外,我还干了不少恶作剧。
有一次,我带着木匠——兼公和鱼贩——角,一起到茂作的胡萝卜园去犒得乱七八糟。
那些胡萝卜芽还没完全长出来,所以上面覆着一层稻草,我们三人就在那层稻草上玩了半天相扑,
结果那些尚未长成的胡萝卜芽,全被我们踩得稀烂。
另外一次是将古川田里的水井塞住,我因此被骂得狗血淋头。
这里的水井是用很粗的江南竹,打通内侧的关节後,
深深插入土里,让水由竹管冒出来,以作为稻田灌溉用的一种设备。
当时我不了解那是什么“机关”,便把石头、木棒等杂七杂八的东西塞进竹管里,直到水不再冒出才回家吃饭。
古川气极败坏地来痛骂我一顿,记得最后被罚了款,才将事情摆平。
父亲从小就不喜欢我,母亲也较偏爱哥哥。哥哥皮肤很白,专爱学戏子男扮女装。
父亲每次看到我都不忘骂我,说我一辈子不会成器。母亲看我那么粗暴,也为我的未来操心。
她的操心不无道理,父亲说的也没错,看我现在这样子的确是没出息,没去坐牢,还活着已经不错了。
母亲病逝前两三天,我在厨房翻筋斗时撞到灶角,痛得半死,母亲一气之下,掩面不再见我,我只好搬到亲戚家去住。
不久,这位亲戚就接到家母病逝的恶耗。
想不到母亲去得这么快,早知她病得那么重,我就乖一点。
当我满心痛悔地回到家里,哥哥骂我不孝,认为如非为了我,母亲不会这么早死,我不服气,掴了哥哥一个耳光,结果被教训了一顿。
母亲去世后,家里就剩下父亲、哥哥和我三个人。
父亲什么都不会,只会口口声声说人家没用,究竟是什么东西没用他自己也搞不清楚,真莫名其妙。
哥哥一心一意想当企业家,成天猛啃英文,他的个性本来就像女人一样狡猾,所以我跟他合不来,平均每十天就会打一次架。
有一次跟他下棋,他卑鄙地将我的军,看我发急,还揶榆我。
我一时气不过,便将抓在手中的“车”狠狠地朝其眉宇掷去,
结果他发现眉间裂了一道伤口并渗出血,便立刻跑去向父亲告状,父亲扬言与我断绝父子关系。
绝望之余,我也认了,不敢指望挽回。
但是,在家待了十年之久的女佣人阿清,却哭着替我向父亲道歉,好不容易才息了父亲的雷霆大怒。
即使这样,我也不因此而怕父亲,只觉得阿清可怜。
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【注 釈】
【少爷】 shào ye 「坊っちゃん」
夏目漱石作。 1906年 (明治39年)、雑誌 「ホトトギス」 に発表。
田舎の中学に赴任した江戸っ子教師の若い正義感が因襲と衝突するさまを描く。
歯切れのよい文体と、わかりやすい筋立てとで、現在でも多くの読者をもっている。
【夏目漱石】 xià mù shù shí 「夏目漱石」 (なつめそうせき) (1867~1916)
小説家。名は金之助。江戸牛込生れ。東大英文科卒。五高教授。
1900年 (明治33年) イギリスに留学、帰国後東大講師、のち朝日新聞社に入社。
1905年 「吾輩は猫である」、次いで 「倫敦塔」 を出して文壇の地歩を確保。
主な著作は 「坊っちゃん」 「草枕」 「虞美人草」 「三四郎」 「こゝろ」 「明暗」など。
夏目漱石(1867-1916)日本作家。原名夏目金之助,号漱石。
少年时代爱读中国史书,他的名字即取自「晋书」中「漱石枕流」一语,并有汉诗文集「木屑录」(1889)。
1905年开始发表他的名著「我是猫」。1906年完成中篇小说「哥儿」以及「草枕」和「二百十日」,在文坛上轰动一时。
1907年他宁愿辞去大学教授的职位到报社工作,他认为报社是商业,大学也是开买卖。
最后一部长篇小说「明暗」(1916)没有完成即病逝,这部小说被誉为日本近代心理小说的典范。
他的小说主要是揭露和批判明治维新后的文明社会,思想深刻,笔触锋利。
他主张 「自我本位」,反对当时流行的自然主义,著有「文学论」。有「夏目漱石全集」(十六卷,1960)。
【生性莽撞】 shēng xìng mǎng zhuàng 親譲りの無鉄砲
【说开来也没什么】 shuō kāi lái yě méi shén me
解き明かしてみれば大したことではない。
「开来」 は、明瞭化を表す結果補語。
(用例) 好不容易误会解释开来。(誤解を解くのは容易でない)
【讶异】 yà yì (=惊讶 jīngyà 诧异 chàyì)
訝 (いぶか) しむ。不審に思う。
【逮个正着】 dài ge zhèng zhāo (=当场逮着 zháo)
ものの見事に捕まえた。その場でひっ捕らえた。
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【口語訳】
「坊っちゃん」 夏目漱石
生来向う見ずな性分が災いして損ばかりしている。
小学校のとき、校舎の二階から跳び下りて、まる一週間足腰が立たなかったことがある。
なぜそんな無茶な事をしたのかと、怪訝 (けげん) に思うかもしれぬが、
ぶっちゃけ大したことではない。
新築の校舎の二階から首を出していたら、同級生のひとりが軽口をたたいたのである。
「この腰ぬけめ! いくら威張っても、そこから飛び降りることはできまい。」
からかって言ったのであろうが、私は本気で飛び降りたのである。
用務員におぶさって帰って来たとき、おやじは目を見開いて、けなすように、
「二階から飛び降りて腰を抜かす奴があるか!」 と言ったから、
「この次は、抜かさずに飛んでみせます。」 と答えた。
親戚から舶来 (はくらい) のナイフをもらって、きらりと光る刃を日にかざしていたら、友達がこう言った。
「光ることは光るが、どうも切れそうにない。」
「切れぬことがあるか、何でも切って見せてやる!」
「そんなら、君の指を切ってみろ!」
私は負けずに言い返した。 「指ぐらいなんだ、ほれこのとおり。」
ほんとに自分の手を伸ばして、親指の甲の上を切り込んだ。
幸いナイフが小さく、指の骨も硬かったので、いまだに親指は手についている。
しかし傷あとはずっと消えることはなかった。
家の中庭を東へ二十歩行って南に歩くと、
高いところに一面の菜園があって、真中に栗の木が立っている。
この木には、命より大事な栗の実がなっている。
栗の実の熟する季節は、朝起きたらすぐに裏木戸を出て、いくつか摘んできては学校で食べたものである。
菜園の西側が 「山城屋」 という質屋につながっており、
この質屋の店主の息子で、勘太郎という十三、四歳の憶病者がいた。
臆病のくせに、しばしば垣根を乗り越えて栗を盗みにくる。
ある日の夕方、両開きの戸のかげに隠れて、まさに栗を盗もうとする勘太郎をがっちり捕まえてやった。
勘太郎は逃げ道を失って、しゃにむに飛びかかって来た。
むこうは二つばかり年上で、胆っ玉は小さいが、力は強い。こっちの胸をめがけて頭をぐいぐい押して来る。
うかっとした拍子に、勘太郎の頭がすべって私の着物の袖に入って来た。
手が抑えられて動かないから、思いっきり振り回してやったら、袖の中で勘太郎の頭があちこちぐらぐら揺れた。
勘太郎はしまいに苦しがって、見境無く私の腕に噛みついた!
痛くてたまらんから、勘太郎を垣根に押しつけ、足をひっかけて、垣根の向こうに押し倒してやった。
山城屋の土地は、菜園より六尺ほど低い。四番目の堀の片側に押し倒された勘太郎は、
自分の 「領土」 にもんどり打って卒倒した。
勘太郎の転落で、着物の片袖がもげたが、手のほうはがぜん自由になった。
その晩、母が山城屋にあやまりに行ったついでに、もげた片袖も取りかえして来た。
このほか、いたずらはずいぶんやった。