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【第五課 第六節】   小説読解


  失格」     太宰治  


我曾经看过三张那个男人的照片。
第一张照片,他大约十岁左右的样子,应该是他幼年时代的相片吧。
这个男人被一群女人簇拥着(她们大概是他的姐妹或堂姐妹们),站在庭院的池畔,
身穿粗条纹裙裤,脑袋向左歪了近三十度,笑得煞是难看。

难看吗?即便是感觉迟钝的人,表情漠然地随口夸他一句“真是个可爱的孩子啊!”也不会让对方觉得这是在阿谀。
虽说在那孩子的脸上并非找不到可爱的影子,但是对美丑多少有点概念的人,
只要瞥上他一眼,很可能会不快地发出:“哎呀,怪让人讨厌的小孩!”
甚至于会像掸落毛虫时那样,把照片一下子扔在地上。

第二张照片上的他,脸部发生了很大变化,让人不由得大吃一惊。
他是一副学生打扮。尽管很难判断是高中还是大学时代,但已出落为一个相当英俊的学子了。
只是有一点让人觉得疑惑,这张照片上的他竟没有丝毫那种活生生的人的感觉。
他穿着学生服,从胸前的口袋露出一角白色的手绢,交叉着双腿坐在藤椅上,依然笑着。

然而,这次的笑容不再是那种满是皱纹的猴子似的笑,而是变成了颇为巧妙的微笑,但不知为何,与人的笑容不大一样。
可以说是缺乏那种可以称之为鲜血的凝重或是生命的苦涩之类的充实感,
简直就像是一张白纸般笑着,宛如鸟儿的羽毛般轻飘飘的。

换言之,整个人都给人以假人的感觉。说其“做作”,或轻浮,或“女气”都不足以表达,称之为“矫情”仍不足以表达。
仔细打量的话,还会发觉这个相貌英俊的学生身上有种近似于鬼故事般的令人毛骨悚然的氛围。
迄今为止,我还从来没有见到过如此不可思议的英俊青年。

第三张照片是最为奇怪的,几乎无法判定他的年龄。他的头发已有几分斑白。
照片的背景是一间肮脏的房间(从照片上可以清楚看到房间的墙壁上有三处剥落),他正把双手拢在小火盆上烤火取暖。
这一次他的脸上没有笑容,毫无表情。

他木然坐在火盆前,双手伸向火盆,好像就这么坐着自然死亡了一般,使得整张照片弥漫着一股不祥的气息。
诡异的还不只这些,在这张照片中,他的脸部被放大成了特写,因此我得以仔细审视这张脸的整体构造,
额头长得很平凡,额头上的皱纹也很平凡,甚至连眉毛、鼻子、嘴唇、下巴也相当平凡,
啊!这张脸不但没有表情,甚至都不会给人留下深刻的印象。

因为没有任何特点,我看完照片后闭上眼睛,就想不起这张脸的模样了,
只依稀记得房间里的墙壁或小小的火盆,但是对这房间主人的印象犹如骤然烟消云散般怎么也回忆不起来。
这是一张无法入画的脸,也无法成为漫画中的人物。

等我睁开眼睛一看,啊!原来是这副模样呀!却感受不到一丁点终于回想起来时的快乐。
夸张点说的话,即使睁开眼睛再看一遍那张照片,也留不下什么印象。
剩下的只有不愉快和焦躁不安,不由自主地想把视线移开。

即便是所谓的“死相”,也应该多少有些表情或给人留下些印象吧!
假如在人的身上安上马的头,兴许就是这样的感觉吧!
总之,让看到照片的人感到毛骨悚然、厌恶至极。
到现在为止,我还从未见过这么不可思议的男人的面孔。




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【注 釈】


人间失格】 rén jiān shī gé   人間失格 (にんげんしっかく)
太宰治の小説。昭和23年(1948)発表。
人間の生活の営みに適応できずに破滅していく主人公を、作者自身の体験と生涯を投影させて手記の形で描く。

太宰治】 tài zǎi zhì  「太宰治」  (だざいおさむ)  (1909~1948)
小説家。本名、津島修治。青森県生れ。東大仏文科中退。
1935年 「逆行」、「道化の華」、「ダス・ゲマイネ」 を発表して認められ、創作集 「晩年」、「虚構の彷徨」、
「二十世紀旗手」 を経て 「駈込み訴へ」、「走れメロス」 などにより作家としての地位を確立。
屈折した罪悪意識を道化と笑いでつつんだ秀作が多い。1948年、入水自殺。


太宰治(1909-1948)日本小说家。原名津岛修治,生于青森县一大地主家庭,1930年入东京大学法语系。
于1935年以「丑角之花」走上文坛。他的小说「惜别」(1945)描写鲁迅在日本仙台的留学生活。
太宰治的作品,大多通过混乱的两性关系或男女纠葛,表现活着不过是求取官能享乐的生活态度,
反映了日本资产阶级经历了第二次世界大战的失败和战后群众运动的冲击而产生的绝望情绪。
长篇小说「斜阳」(1947),和「人间失格」(1948)是他的代表作。战后投水自杀死去。




有点概念】 持論がある
】 挺。めっぽう。ひどく
出落为】 仕上がる。成長する


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【口語訳】


「人間失格」    太宰治


私は、その男の写真を三枚、見たことがある。
一枚目は、その男の幼年時代だろうか、十歳前後と思われる写真である。

その子供は、大勢の女性に取りかこまれていた。(子供の姉たち、妹たち、それから従姉妹たちかと想像される)
庭園の池のほとりに荒い縞(しま)の袴(はかま)をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け醜く笑っている写真である。

醜く? しかし鈍い人たち(美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何ともない顔をして、「可愛い坊ちゃんですね」などと言うかもしれない。
そんないい加減なお世辞を言っても、まんざらお世辞に聞えないくらいの、いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではない。

しかし、いささかでも美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、「なんて、いやな子供だ」と頗(すこぶ)る不快そうに呟つぶやくだろう。
毛虫でも払いのけるような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。


二枚目の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生の姿である。
高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないが、とにかく、おそろしく美貌の学生である。

しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。
学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗ぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。
こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。

血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無い。
それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。

つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。
おしゃれと言っても、もちろん足りない。

しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。
私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。


もう一枚の写真は、最も奇怪なものである。
まるでもう、歳の頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。

それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)
の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。

謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。

奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来た。
しかし、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。

特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。
部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。

画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。
極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。

そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。
いわゆる「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろう。

人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか。
とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。

私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。