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【第五課 第三節】 小説読解
「舞女」 森鸥外
第一集
煤炭早就载上了船。二等舱的桌旁一片寂静,白炽灯徒然地大放光明。
每晚聚集此处打牌的人,今夜都宿在了酒店,只留我一人在船上。
那已是五年前的旧事。我得偿平生之望,奉命出洋留学,曾途经这西贡港。
当时我眼中所见、耳中所闻,没有一样不令我新奇,于是援笔为文,
每日里写下游记洋洋数千言,刊载在报纸上,颇得时人的称赞。
如今想来,那无非是些幼稚的思想,无端自诩的狂言,不然便是将寻常的草木禽兽、
金石器物以及异乡风俗,当作稀奇事记录下来,有识之士见了,正不知作何感想。
此番动身时,我也买了一册日记本,但直到此时,还是空空的白纸。
难道我在德国求学期间,养成了一种冷漠虚无的性情?并非如此,这其中别有缘故。
其实,如今东归的我,已非昔日西渡的我了。
学问上虽多有不能称意之处,但我已体会了浮世的辛酸,悟到他人之心固然不可依赖,便是自己的心意,也是一般无常易变。
昨是而今非,我这瞬间的感触纵然形诸笔墨,又有何人来读?那么,莫非这就是我无法写日记的原因?并非如此,这其中别有缘故。
唉!轮船离开布林迪西港,已经二十多天了。依照世间惯例,航海中即便初次谋面的旅客,也会彼此交往,以慰藉旅途的孤寂。
可是,我却托言身体不适,终日闷在客舱,与同行的伙伴也很少交谈。如此这般,皆因有一桩不为人知的恨事,令我心绪烦乱。
起初,悔恨如一抹微云掠过心头,令我既无法欣赏瑞士的山色,也无心领略意大利的古迹。
其后,我竞觉得世事可厌、此身无常,心中的惨痛之感,可说是“肠一日而九回”。
如今,它已凝固在心底,虽只是一点儿阴翳,但每当我读书睹物,它就仿佛影之随形、响之应声,
唤起我无限怀旧之情,几次三番,令我心中苦痛。
啊,此种悔恨,如何才能消解?倘是别样恨事,或许还可以咏诗作歌,慰藉心神。唯有这件事,竟是刻骨铭心,任怎样也无计排遣。
今夜四下无人,还要等上许久,侍者才会来熄灯。也罢,我且趁此时机,将此中情形连缀成篇吧。
我自幼秉承严格的家教,虽然父亲早亡,却并未荒废学业。
无论是在旧藩的学馆,还是到东京上大学预科,抑或进入帝国大学的法学部,太田丰太郎的名字总是位居全级榜首。
与我这个独子相依度日的母亲,心中大约可以感到些安慰。十九岁那年,我获得学士称号,据说这是帝国大学成立以来,前所未有的荣誉。
我进入某部任职,将故乡的母亲接到东京,度过了三年愉快时光。承蒙长官倚重,派遣我出洋留学,研习本部门的业务。
我振作精神,心想此次正是难得的良机,可以显身扬名、光耀门楣。因此虽然要拜别年过半百的母亲,我也未觉多么悲伤。
就这样,我去国离乡,万里迢迢地来到了柏林这座大都市。
我怀着模糊的功名心和惯于自律的勤勉精神,忽然置身于这座欧洲新都会的中央。
那是何等流光溢彩,令我眼花缭乱;何等五色斑斓,令我心旌摇荡!Unter den Linden大街果真是“大道直如发”,
街名译作“菩提树下”,令人以为是个幽静的所在,但来到此处,便可看到大街两旁,石板人行道上仕女如云。
其时,威廉一世尚住在俯瞰街市的宫室里,军官们挺胸耸肩,礼服上佩着彩饰,娇艳的少女仿照巴黎风尚精心装扮,一切无不令人瞠目结舌。
各式马车悄无声息地奔驰在柏油道上,楼阁高耸入云,楼间的空隙中喷泉飞流而下,在晴朗天空下奏起骤雨的声响。
遥遥望去,勃兰登堡门绿树掩映,胜利纪念柱上的女神像浮现在半空。这诸多景物一齐聚集于眉睫之间,自然令初来乍到者应接不暇。
然而,我曾在心中发誓:“无论置身何地,我的心决不为虚妄的美景所动。”我总是用这一誓言来抵御外物的诱惑。
我拉响门铃求见,递交公文说明远道东来之意,普鲁士官员都欣然接待,并允诺只要办妥公使馆方面的手续,无论何事都会予以关照。
庆幸的是,我已在故乡学过德语和法语。他们初次见我,没人不问我在何时何地将外语学得这般好。
我早就得到上峰准许,公事之余,可到当地的大学修习政治学,我遂入了学籍。
过了一两个月,公务接洽完毕,调研事务也渐次进展,我将急事写成报告寄往国内,不急之务则誊录下来,积成了好几卷。
不过大学方面,并不像我这幼稚之人所期望的,没有专门培养政治家的课程。我左思右想,选定了两三位法学家的讲座,交纳了学资,前往听讲。
就这样,三年的时光,梦一般过去了。人的秉性就是如此,一旦时机到来,终究难以压抑。
我恪守父亲的遗训,遵从母亲的教诲。从前,别人称赞我是神童,我虽然欢喜,却不敢懈怠学业。后来,长官褒奖我能干,我虽然欣慰,却更加兢兢业业。
我并未察觉到,自己只是个被动的、机械般的人物。如今我已经二十五岁,或许是长久熏染了这所大学的自由之风,我的心中总难以安宁。
潜藏在内心深处的“真我”,终于显露于表面,仿佛要攻伐昨日之前的“伪我”。
我恍然明白,自己既不能成为雄飞于世的政治家,也不宜当个深谙法典、善于断狱的法律家。
我暗暗思忖:母亲希望我成为活字典,长官想要我成为活法律,成为字典尚可忍耐,成为律条则实在不堪。
从前,无论多么琐碎的问题,我都不厌其烦地郑重回复。
但最近我在寄给长官的文书中,竟屡次论及不应拘泥于法律的细目,并放言道,一旦领会了法的精神,虽万事纷扰,皆可势如破竹。
在大学里,我将法学讲义置之一旁,心思转到文史方面,并渐入佳境。
然而,长官本想将我造成得心应手的工具,怎会喜欢一个怀有独立思想、卓尔不群的人?当时,我的处境便有些不稳。
不过若仅如此,尚不足倾覆我的地位。
可是在柏林的留学生中,有一拨家伙颇有势力,他们素日就与我不睦,对我怀疑、猜忌,最终竟至于出言诬陷。自然,这其中并非没有缘故。
那伙人见我既不与他们举杯同饮啤酒,也不擎杆共打台球,便认为我顽固不化、道貌岸然,又是嘲笑,又是嫉妒。
其实,这皆是由于他们不了解我。唉,其中的缘故,我自己尚且不明了,又岂能指望他人知晓?我的心就像合欢树的叶子,稍一触碰便会退缩躲避。
这颗心,竟仿佛处女之心一般。我自幼对长辈教导言听计从,无论求学之路,还是出仕之途,都并非因为有勇气而得以实现。
我表面上忍耐勤勉,其实无非是自欺,甚至于欺瞒他人。
别人要我走那条路,我便一门心思去走,如此而已。我的心志能够不为外界扰乱,并非我有勇气置外物于不顾,只不过是我害怕外物,自己束缚了手脚罢了。
离开故乡前,我并不怀疑自己是有为青年,且深信自己意志坚毅。
唉,真是此一时,彼一时!我一向自以为有英雄气概,但轮船离开横滨时,泪水竟忍不住滚落,沾湿了手绢,连自己都深为惊诧。
然而,这才正是我的本性。我这性情是生来如此,还是因早年丧父、由母亲一手抚养成人所致?
故而,他们嘲笑我,倒还不无道理。可是嫉妒我,嫉妒这样一颗脆弱可怜的心,他们岂不愚蠢?
当我看到涂脂抹粉、衣饰华艳的女人坐在酒吧招徕客人,我没有勇气过去搭讪;
看到戴着夹鼻眼镜高礼帽、一口普鲁士贵族鼻音的“花花公子”们,我也没有勇气与他们结交。
我既然无此勇气,自然无法同那些活跃的同乡们周旋。
由于交情疏淡,他们不仅嘲笑我、嫉妒我,还对我无端猜忌。这正是我蒙受不白之冤,在短暂时日里尝尽无限艰辛的缘由。
一天黄昏,我在蒂尔加滕公园散步后,打算回我在珍宝街的寓所,遂走过菩提树下大街,来到修道院街的旧教堂前。
我从灯火通明的大街,走进狭窄昏暗的小巷,来到凹字形的教堂前。
教堂对面是一座公寓楼,楼上的住家晾在栏杆上的床单、衬衣等物,还没有收进去。
楼下小酒馆门口,站着一个长胡子犹太老人,一部楼梯直通楼上,一部楼梯则通往地下室的铁匠家。
不知多少次,当我望见这座三百年前的老教堂,都不禁心神恍惚,要在这里伫立片刻。
那晚,我刚要走过此处,却看到一个少女倚靠着教堂上锁的门扉,正轻声啜泣。
少女约莫十六七岁,头巾下露出淡金色秀发,衣裳也还整洁。听到我的脚步声,她吃了一惊,转过头来。
我没有诗人的妙笔,描摹不出她的面容,可是她那缀着泪珠的长睫毛下,半掩着一双清澈的碧眼,眼中满含哀愁,又似惶惑无解。
我原本生性谨慎,可不知何故,少女只是一瞥,便直透我的心底。
她想必遭遇了意外的不幸,彷徨无助,才会站在这里哭泣。
胆小如我,也抵不住心中的恻隐之情,不觉走上前,问:“你为何哭泣?我这个外来人,在此地没有牵累,或许反而容易帮你。”
我竟如此大胆,连自己也甚觉惊讶。
少女诧异地望着我黄皮肤的面孔,或许是我的真诚形诸于色,她说道:“看来您是个好人,不会像他那么冷酷,也不会像我母亲……”
刚停歇的泪泉又涌出来,泪珠落到惹人怜爱的脸颊上。
“您救救我。我不想成为不知羞耻的人。母亲嫌我不顺从,打了我。父亲死了,明天不能不举行葬礼,可是家里一分钱都没有。”
然后便只余唏嘘声。少女俯首而泣,我的目光落在她微微颤动的脖颈上。
“我送你回家,先冷静一下。这里是街上,不要让人听见了。”
少女说话时,不知不觉倚在了我的肩上,此时蓦然抬头,大约刚意识到,慌忙退到一旁。
她仿佛怕被人看到,走得很快,我跟在她身后,走进教堂对面公寓的大门。
一进门,是一座破损的石头楼梯,循梯上到四楼,看到一扇小门,须弯下腰才能进去。
门上用生锈的铁丝拧成了把手,少女抓住把手,使劲儿一拉,里面传来老妇人沙哑的问话声:“谁?”少女答道:“爱丽丝回来了。”
片刻后,房门被粗鲁地拉开,露出老妇人的脸。她头发已经半白,相貌并不凶,但额上刻着贫苦的印痕,穿着旧羊毛衣裳和脏拖鞋。
爱丽丝向我点点头,走进门去,老妇人仿佛已等得不耐烦,“砰”地把门撞上。
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【注 釈】
【舞女】 wǔ nǚ 「舞姫」 (まいひめ)
森鴎外作。1890年 (明治23年) 「国民之友」 発表。
ベルリンを舞台に,日本の若い官吏と可憐な踊り子との悲恋を描く。
清新な文脈をちりばめた文体は、ロマンの香気を漂わせ、鴎外文学の基底をなす作品となった。
【森鸥外】 sēn ōu wài 「森鴎外」 (もりおうがい) (1862~1922)
小説家。名は林太郎。島根県生れ。東大医科出身。軍医となり、ヨーロッパ留学。
傍ら西欧文学の紹介・翻訳、創作・批評を行い、明治文壇の重鎮。
主な著作は 「舞姫」 「雁」 「阿部一族」 「高瀬舟」、翻訳は 「即興詩人」 「ファウスト」 など。
森鸥外(1862-1922)日本小说家、评论家、翻译家,日本近代文学奠基人之一。本名森林太郎。
生于藩主 侍医家庭,从小受国学、汉学与西学教育,后赴德国学医,深受欧洲文学与叔本华、哈特曼的唯心主义哲学影响。
回国后以启蒙作家姿态出现,努力介绍、翻译西方文学与文艺理论,创办刊物,开展文艺批评,致力于文学改革。
1890年以个人经历为素材写出处女作小说「舞女」。代表作长篇小说「雁」(1911~1913)写一贫苦少女沦为高利贷者的情妇,
渴望摆脱屈辱处境却终未成功的悲剧。小说心理刻画真切、细腻。晚年思想益趋消沉,兴趣转向历史小说与史料考证。
其作品深刻反映了明治时期受西方影响的上层知识分子的思想矛盾。
【西贡港】 xī gong gǎng サイゴン港 (Saigon port)南ベトナム、ホーチミン市、サイゴン河に臨む港。
即现在越南的胡志明市。19世纪末发展为东南亚重要港口,有“东方巴黎”之称。
【昨是而今非】 zuó shì ér jīn fēi 昨日の是 (ぜ) を今日の非とする。
【形诸笔墨】xíng zhū bǐ mò 筆で書き留める。(用笔墨把它写出来)
她将儿童的天真无邪形诸笔墨,每每成为绝妙文章。子供の無邪気さを筆に込め、見事な文章を紡ぎだす。
【布林迪西】 bù lín dí xī (Brindisi)ブリンディジ。イタリア南東部、アドリア海に面するアプリア (Apulia) 州の港湾都市。
布林迪西(Brindisi)是意大利东南部城市,位于普利亚大区,布林迪西省首府。城筑于一个小海湾内的半岛上,有东、西两个港口。
【肠一日而九回】cháng yī rì ér jiǔ huí (与断肠一般,表示心思重重,痛苦不已)断腸の思い。
【心旌摇荡】xīn jīng yáo dàng (情思起伏,不能自持)感情が浮き沈みして自制できない。
【Unter den Linden 大街】(under the linden tree avenue)ウンテル・デン・リンデン大通り。ベルリン市を東西に貫く公園式道路。
Unter den Linden大街,即菩提树下大街,是柏林著名的林荫道,长1475米,宽60米,从勃兰登堡门一直延伸到宫殿大桥,
因两侧遍植椴树(Linden)而得名。因日语中“椴树”也写作汉字“菩提树”,故而日语译为菩提树下大街,中文译名或许受此影响。
【威廉一世】wēi lián yí shì (William I, German Emperor)ウィルヘルム1世。ドイツを統一したプロイセン王。(在位1871~1888年)
【勃兰登堡门】bó lán dēng bǎo mén (Brandenburg Gate)ブランデンブルグ門。
ウンテル・デン・リンデン西端にある城門。門の上に勝利の女神像を頂く。
勃兰登堡门(Brandenburg Gate)位于德国首都柏林的市中心,最初是柏林城墙的一道城门,因通往勃兰登堡而得名。
【卓尔不群】zhuó ěr bù qún 衆にぬきんでる。(超出常人)他那卓尔不群的风格使人钦佩。彼のすばぬけた品位には敬服だ。
【合欢树】hé huān shù ネムノキ。マメ科の落葉高木。夜間葉を閉じるのでこの名がある。
【此一时,彼一时】cǐ yì shí,bǐ yì shí あの時はあの時、今は今。以前と現在とでは事情が違う。
(说时间不同,情况亦异,不能相提并论)我以前是答应过你的要求,但此一时,彼一时,我现在真的无能为力了。
私はあのとき君の要求を受け入れたが、あの時はあの時、今の私は君の力になれないよ。
【蒙受不白之冤】méng shòu bù bái zhī yuān 無実の罪を着せられる。(难于辩白洗雪的冤枉)
经过认真调查, 终于弄清了事实真相, 使他免受不白之冤。慎重な調査の結果、ようやく真実が判明し、彼は無実の罪を免れた。
【蒂尔加滕公园】dì ěr jiā téng gōng yuán (Tiergarten Park)ティーアガルテン公園。ブランデンブルグ門に隣接する森林公園。
蒂尔加滕公园(Großer Tiergarten),柏林中心区的大公园。“Tiergarten”意为动物园,这里原是皇家狩猎场,后逐渐改造成大公园,
面积2.1平方千米,公园东侧为勃兰登堡门,西南有柏林动物园。
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【口語訳】
「舞姫」 森鴎外
第一集
石炭はすでに積み終わった。二等船室のテーブルのあたりは静まり返り、白熱灯の明かりだけが煌々と輝いている。
夜毎にここに集まるカルタ仲間も、今宵はみなホテルに泊って、船に残るは私ひとり。
あれは五年前の事、念願かなって留学の命を受け、ベトナムのサイゴン港に到着。
そこでは、見るもの、聞くもの、すべて新鮮であった。
筆にまかせて書き記した紀行文は、日ごと数千言にも及んだ。当時の新聞に発表したところ、非常に高評であった。
しかし今日になって思えば、幼稚な思想、身の程を知らぬ放言、さして珍しくもない動植物、金属や石、はては風習など、
もの珍しげに記したものを、世の心ある人はどのように思ったことだろうか?
今回旅の途についた時、日記を記そうと購入した冊子も未だに白紙のまま。
これはドイツ留学中に身に付けた、何事にも無感動、無関心という習慣がそうさせたのであろうか?
いや! 別に理由がある。
もとより、今、東へ帰る私は、西に航した昔の私ではない。学問は未だ意に満たぬが、浮世の悲哀だけは知りえた。
人の心はあてにならない。自分の心さえも変わり易い。
昨日の是 (ぜ) を今日の非とする、この瞬時にして心変わりする自分の感触を、筆に記して誰にみせようというのか?
これが日記の書けぬ理由なのか? いや! 別に理由がある。
ああ! イタリアのブリンディジ港を出て、虚しき日々を過ごすこと二十日余り。
世の常なれば、初めて出会った客同士、旅の愁いを慰めあうのが航海の習わし。
しかるに、いささかの体調不振にかこつけ、船室にばかり引きこもり、ほとんど誰とも会おうとしなかったのは、
人知れぬ愁いに心を悩ませていたからだ。
この愁いは、一抹の雲の如く私の心を掠めて、美しきスイスの山々も、イタリアの古跡にも心を留めさせなかった。
やがて私は世を厭い、わが身の儚さに嘆き、はらわたをよじるほどの悲痛を味わった。
今となっては、その思いも、心の底に沈んだ一点の影にすぎなくなった。
しかるに書を読むごと、事を為すごと、鏡に映る影、声に応ずる木霊 (こだま) の如く、
たちまち現れては限りなき懐旧の情を呼び起こし、幾度となく私の心を苦しめる。
ああ、この愁いは、いかにして消し去ることができるのか?
他の愁いであれば、詩歌に詠むなりして、気持ちは一新されるに違いない。
このことだけは、私の心に深く刻み込まれているのでそうもいくまい。
今宵は辺りに人もいない。ボーイが消灯するまでまだ時間がある。
ひとまず事の委細について書き記してみようと思う。
私は幼い頃から厳しい躾を受け、父を早く亡くしたが、学業を怠ることはなかった。
旧藩の学館にいても、東京の大学予科にいても、帝国大学の法学部にいても、私、太田豊太郎の名はいつもトップだった。
一人息子の私と二人きりで暮らしている母は、さぞや心を慰められたであろう。
十九の年に学士の称号を得たのは、帝国大学の創立以来、前代未聞の栄誉だという。
私はある省庁に就職し、故郷の母を東京に連れてきて、三年ほど楽しい日々を送った。
役所の長官の信頼を得て、留学して省本部の業務を研究せよとの命を受けた。
私は、今度こそ、自分の名をあげ、家名をあげられる、またとない機会だと勇み立った。
だから五十歳を過ぎた母に別れを告げても、それほど悲しいとは思わなかった。
こうしてはるばるベルリンの都にやってきたのである。
私は漠然とした功名心と、たゆみない勤勉な精神をもって、このヨーロッパの新都市の中央に身を置いた。
そこには、目を射るが如くまばゆく輝き、心を揺さぶる色彩豊かな世界があった。
そして、流れる髪のように、まっすぐ伸び走るUnter den Lindenの大通り。
「菩提樹の下」と訳せば、閑静な所かと思われるが、両側の石畳の歩道にあふれる士官や娘たちを見るがいい。
当時はプロイセン皇帝ウィルヘルム一世が街を見下ろす宮殿に住んでいた時代だ。
飾り立てた礼服に身をかため、胸を張り、肩をそびやかして行く士官たち。パリの装いをこらした美しい娘たち。
何一つ私を驚かさないものはない。
馬車はアスファルトの道を音もなく走り、楼閣は雲に聳えるように並び立つ。
その隙間から、晴れた空に夕立のごとく音を響かせ、流れ落ちる噴水。
遙かに見ると、ブランデンブルク門の緑に覆われ、戦勝記念柱の女神像が宙に浮かぶ。
それらが一斉に目の前に迫ってくるのだから、初めて訪れた者が目移りするのも無理はない。
しかし、私は心に誓った。「どこにいようと、虚妄の美しさに心を動かしてはならぬ」
私は常にこのような誓いで、外界の刺激にはつとめて用心深くしていた。
私が呼び鈴を鳴らして面会を求め、本国からの紹介状を出し、遠来の旨を伝えると、プロイセンの役人は快く私を迎えた。
公使館の手続きが済んだら、どんなことでも協力しようと約束してくれた。
幸いなことに、私はドイツ語とフランス語を本国で習っている。
初めて私に出会った彼らは、いつどこで外国語をこんなに上手に習得したかと聞かぬ者はなかった。
公事のかたわら、地元の大学で政治学を修めることは、かねてから上司の許可を得ていたので、学籍に入った。
ひと月ふた月と過ごすうち、公務の打ち合わせも済み、調査も次第にはかどった。
急ぐことは報告書にして本国に送り、それ以外のものは清書して手元に置いたが、それが次第に何冊かの量になった。
しかし大学には、私のような世間知らずな人間が希望する政治家養成のコースはなかった。
あれこれ考えた末、法学の講座を二、三選び、授業料を納めて受講した。
こうして、三年の時が、夢のように過ぎた。人間というのは、時とともに抑えがたい本性が現れてくるものだ。
私はこれまで、父の遺訓を守り、母の教えに従ってきた。神童などと、もてはやされながらも勉強を怠らなかった。
その後、仕事ができると上司にほめられ、私は嬉しくなったが、さらに怠りなく勤務に精を出そうと決心した。
だが私は自分が受け身で機械的な人間であることに気づいていなかった。
二十五歳になった今、この大学の自由の風に長く染まってきたせいか、心がどうも落ち着かない。
心の奥に潜んでいた「真の我」が、昨日までの「偽の我」を責めるかのように、ついに表に出てきた。
自分は雄飛して政治家になるのは本意ではない。また法律をそらんじて裁判に臨む法律家になるのも自分にあわないと思い始めた。
母は私に生き字引になってほしい、上司は私に歩く法律になってほしい、などと期待していたのではないか。
生き字引となるのはまだしも、法律そのものになるのは実際、私には耐えられないだろうと思った。
以前の私は、どんな些細な問題にも丁寧に対応してきた。
だが、近頃、私は上司宛の書状の中で、しばしば法の細目にとらわれてはならないと論じるようになった。
ひとたび法の精神を会得すれば、いかなる紛糾であろうとも、破竹の勢いで解決できるなどと広言しだしたのだ。
一方、大学では法学の講義よりも、歴史や文学に関心が移り、ようやくそれらの面白さを味わえるようになった。
しかし、上司は私を、意のままにできる操り人形にしようとしたのだろう。
そんな上司が、独立した思想を持つ、人並ならぬ人間をどうして好きになることがあろうか。
そんなわけで当時の私の立場は、少しあやうい状況にあった。しかし、それだけのことでは、私をクビにしたりできないだろう。
ベルリンの留学生の中には、日頃から私と不仲な連中がいて、私をことさら疑ったり、果ては有ること無いこと悪し様に言う者がいた。
もちろん、理由がないわけではない。
連中は、私が彼らとビールを酌み交わしたり、玉突き遊びをしたりしないのを見て、私が融通の利かぬ者だと嘲笑し、また嫉妬した。
それは、彼らが私という人間を知らないからなのだろう。
まあ、私自身も己の事を知らないのだから、他の人はもとよりわからぬことは言うまでもない。
私の心はネムの木の葉に似て、ちょっとでも触れようものなら縮んで避けようとしてしまう。
私の心は臆病で、まるで処女の心のようだ。
幼い頃から、目上の人の教えに従い、学問はもちろん、官吏の道を歩むようになったのも、みな勇気があってしたわけではない。
私は表向きは勤勉そうに見えるが、実は自分自身に噓をつき、果ては他人さえも欺いてきたに過ぎない。
その道を行けと言われれば、ひたすら他人の言うがままに歩んできただけだ。
わき目もふらずに頑張れたのは、外界に惑わされない勇気があったからではなく、むしろ外のものを恐れて、自分で手足を縛っていたからなのだ。
故郷を離れる前、私は自分が有為の青年であることを疑わず、また自分の意志が堅固であることを信じていた。
ああ、まさにこの時の自分は、英雄の気概をもっているつもりでいたのだ。
しかし、汽船が横浜を発つとき、涙がこぼれてハンカチを濡らしてしまった自分に、我ながら驚いてしまった。
まさに、これが自分の本性なのだ。
この性分は生れついたものなのか、それとも早く父を失い、母の手一つで育てられてこうなったのか。
だから人に笑われるのも無理はない。
しかし、こんな脆い哀れな男を妬んだりするのは、それはむしろ彼らの愚かさのせいではないだろうか。
私は、店で客寄せをしている化粧をした女を見ても、声をかける勇気はない。
また鼻眼鏡をかけ、シルクハットをかぶり、プロイセン貴族の鼻声で話す「プレイボーイ」たちと付き合う勇気もなかった。
それほど勇気がないのだから、あれら同郷のやたらに元気な者たちと対等に付き合えるはずがない。
付き合いが悪いため、彼らは私を嘲笑し、私を妬み、私を忌み嫌う。
これこそ私が無実の罪を着せられ、短期間に様々な苦労を味わうことになった原因なのだ。
ある日の夕暮れ、私はティーアガルテン公園を散歩し、ウンテル・デン・リンデンの大通りを過ぎて、
宝物街の我がアパートに帰ろうと、修道院街の古い教会の前まで来た。
明かりのついた通りから、狭くて暗い路地を入って、凹字型にくぼんだ形の教会の前に出た。
教会の向こうには宿舎があり、二階の階段の手すりには、まだ取り入れていないシーツ、シャツなどが並べられていた。
階下の居酒屋の入り口には、ほおヒゲの長いユダヤ教徒の老人がたたずんでいる。
ひとつの階段は上に伸び、ほかの階段は地下の鍛冶屋に通じていた。
三百年前の古い教会は幾度となく見かけたが、そのたびに私はうっとりとして、しばしの間たたずんでしまう。
その晚、そこを通り過ぎようとしたとき、一人の娘が閉ざした教会の扉にもたれて、声をしのんですすり泣いていた。
娘は十六、七歳くらいで、頭巾の下から黄金色の髪がのぞいている。
着ている服は、汚れているようには見えない。その娘は、私の足音に驚いてはっと振り向いた。
私には詩人の才能がないので、彼女の顔立ちを形容できない。
だが、長い睫毛の下には涙を浮かべて、その瞳は、哀愁を含んでいた。
また、困惑しているような、澄んだ碧の眼が半ば隠されている。
なぜかその娘をちらっと見ただけで、用心深い私の心の底にまで焼き付いてしまった。
きっと思いがけない不幸に見舞われ、彷徨って、ここで泣いているのだろう。
臆病者の私も、惻隠の情に堪えかねて、思わず前に出て言った。
「なぜ泣いている。私はよそ者だが、かえって力を貸してやれることもあろう」
私は自分でも驚くほど大胆だった。
娘は怪訝そうに私の黄色い顔を見ていたが、私の誠実さが顔に現れていたのだろう。
「あなたは、きっといい人ですね。あの人のように酷くはない、また母のようにも……」と言った。
止まりかけていた涙がまた溢れ出し、可憐な頰に涙が落ちた。
「助けてください。私は恥知らずになりたくないのです。母は私が素直でないのを嫌って、私を打ちました。
父が死んで、明日は葬式をしないわけにはいきません。でも、家には一銭もないのです」
あとはしのび泣くばかりである。うつむいて泣いている娘の、小刻みに震える首筋に、私は目を落とした。
「家まで送るから、落ち着いて。ここは通りだから、人に聞かれるよ」
娘は話すうちに、私の肩にもたれかかったが、ふと顔を上げ、気づいて慌てて身を引いた。
誰かに見られるのを恐れるかのように早足で歩いていく彼女に続いて、私は教会の向かいのアパートの門をくぐった。
門を入ると壊れた石の階段があり、それをたよりに四階まで上がると、かがんで入らなければならない小さな門があった。
錆ついた針金で取っ手が捻られていた。娘が取っ手をつかんで、ぐいっと引くと、「誰?」と老女のしゃがれた声がした。
娘は答えた。「エリスよ、いま帰りました」
やがて乱暴にドアが開き、老婦人の顔が見えた。
髪はすでに半白で、人相は悪くなかったが、額には貧苦の跡が刻まれ、古いウールの衣裳に汚れたスリッパをはいていた。
エリスが私に会釈して中に入るのを待ちかねたように、老婦人はドアをばたんと閉めた。