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    漢詩百選

【唐詩四】  李賀 賈島  銭起  韋応物 賀知章  張継 崔敏童 鄭谷

              高適 張籍 司空曙 秦嘉   諸葛亮   陳琳 王粲 曹操


(李賀)

(李憑箜篌引) (馬詩五) (馬詩八) (馬詩十)


李凭箜篌引 lǐ píng kōng hóu yǐn    (唐)  李贺    
 

吴丝蜀桐张高秋 空山凝云颓不流 wú sī shǔ tóng zhāng gāo qiū kòng shān níng yún tuí bù liú
江娥啼竹素女愁 李凭中国弹箜篌 jiāng é tí zhú sù nǚ chóu lǐ píng zhōng guó dàn kōng hóu
昆山玉碎凤凰叫 芙蓉泣露香兰笑 kūn shān yù suì fèng huáng jiào fú róng qì lù xiāng lán xiào
十二门前融冷光 二十三丝动紫皇 shí èr mén qián róng lěng guāng èr shí sān sī dòng zǐ huáng
女娲炼石补天处 石破天惊逗秋雨 nǚ wā liàn shí bǔ tiān chù shí pò tiān jīng dòu qiū yǔ
梦入神山教神妪 老鱼跳波瘦蛟舞 mèng rù shén shān jiāo shén yù lǎo yú tiào bō shòu jiāo wǔ
吴质不眠倚桂树 露脚斜飞湿寒兔 wú zhì bù mián yǐ guì shù lù jiǎo xié fēi shī hán tù




【注 釈】

李憑(りひょう)の箜篌(くご)の引(うた)

呉糸(ごし)蜀桐(しょくとう)高秋(かうしう)に張り
空山(くうざん)凝雲(ぎょううん)頽(くづ)れんとして流れず
江娥(かうが)竹に啼(な)き 素女(そぢょ)愁(うれ)ふるは
中国(なかつくに)李憑(りひょう)の箜篌(くご)を 弾(だん)ずればなり

崑山(こんざん)玉(ぎょく)砕(さ)けて 鳳凰(ほうおう)叫び
芙蓉(ふよう)露(つゆ)に泣き 香蘭(かうらん)笑ふ

十二門前(じうにもんぜん)冷光(れいくわう)を融(と)かし
二十三糸(にじうさんし)紫皇(しくわう)を動かす
女媧(ぢょくわ)石を錬(ね)りて 天を補(おぎな)ひし処(ところ)
石破(やぶ)れ 天驚(おどろ)きて 秋雨(しうう)逗(ほとばし)る

夢(ゆめ)神山(しんざん)に入りて 神嫗(しんう)に教(おし)うれば
老魚(らうぎょ)波に跳(おど)り 痩蛟(そうかう)舞(ま)へり
呉質(ごしつ)眠らずして 桂樹(けいじゅ)に倚(よ)り
露脚(ろきゃく)斜(しゃ)に飛びて 寒兎(かんと)湿(うるほ)す


【口語訳】 

呉の糸を 蜀の桐(とう)に 張りし箜篌(くご)
秋空に 紡(つむ)ぎ調(しら)べを 奏(かな)でむと
流るる雲は 息凝(こ)らし 頽(くづ)れむとして 動かじを
江娥 (かうが)は竹に 涙を注ぎ 
素女(そぢょ)は その音(ね)を 愁ひたり

李憑(りひょう)の弾(だん)ぜし 箜篌(くご)の音(ね)は
げに崑崙(こんろん)の 玉(ぎょく)砕(くだ)けし音(おと)か 
鳳凰(ほうおう)の 叫びし声か 蓮花(はすはな)の 
露(つゆ)に泣く音(ね)か 天地(あめつち)に 
響く調べに 眠りから 覚めたる蘭(らん)の 笑ひをり

十二門(じうにもん)凍(こご)えし光 融(と)けゆるみ
その調べ 天(あま)つ御神(みかみ)の 心添(そ)ひたり
 
石を練(ね)り 女媧(ぢょくわ)が天を 繕(つくろ)へば
天は驚き 石は破(やぶ)れて 秋雨(しうう)の洩(も)れり

夢のうち 神の御山(みやま)に 入りゆきて
仙女に曲を 教(おし)ふれば 老いし魚(うお) いたく驚き 波に跳ね 
痩せし蛟(みずち)も 海に舞(ま)はん

かの呉質(ごしつ)寝もやらず ひとり桂樹(けいじゅ)に 佇(たたず)めば
樹(き)の露(つゆ)は 斜めに飛びて 寒々と 月の兎(うさぎ)を 濡らしをり


【李凭箜篌引】 lǐ píng kōng hóu yǐn     李憑(りひょう)の箜篌(くご)の引(うた)

李憑(りひょう)という箜篌(くご 竪琴)の名人の演奏をたたえた詩。
箜篌の演奏から連想されるイメージを、神話や伝説を引用して展開し、豊饒にして絢爛な想像の世界を繰り広げる。

【箜篌】 kōng hóu    箜篌(くご) 二十三絃の竪琴
【江娥】 jiāng é     江娥 (こうが)湘江(湖南省)の女神。夫の舜帝の死を悲しみ竹に涙を注いだ
【素女】 sù nǚ     素女(そじょ)仙女。琴をひくのが巧み
【李凭】 lǐ píng     李憑(りひょう)箜篌(くご)の名手
【昆山】 kūn shān     崑崙山(こんろんざん)古代神話上の山

【十二门】 shí èr mén     十二門(じゅうにもん)長安(陝西省西安)の十二の城門
【紫皇】 zǐ huáng     紫皇(しこう)道教の至高の神
【女娲】 nǚ wā     女媧(じょか)伝説上の女帝。五色の石を練り天を補修した
【神妪】 shén yù     神嫗(しんう)老年の神女
【蛟】 jiāo      蛟(みずち)竜の一種。蛇に似て四つ足を持つという
【吴质】 wú zhì     呉質(ごしつ)仙術の修行中、罪を犯し月に流され、桂の木を切り倒す罰を科された




马诗 mǎ shī 二十三首其五 (唐) 李贺    

大漠沙如雪 dà mò shā rú xuě
燕山月似钩 yān shān yuè sì gōu
何当金络脑 hé dāng jīn luò nǎo
快走踏清秋 kuài zǒu tà qīng qiū



【注 釈】

馬の詩(うた)

大漠(たいばく)の沙(すな)雪の如く
燕山(えんざん)月 鉤(こう)に似たり
何(いつ)か当(まさ)に洛脳(らくなう)を金となし
快走(くわいそう)清秋(せいしう)に踏むべき


【口語訳】

果てしなく むき出しの砂漠の砂は 雪のようにきらめき
燕山の月が 曲がった剣のように ほの輝いている
金の馬具を付けた 立派な軍馬が 爽やかな秋の平原を
疾走するのは 一体いつになるのだろうか


【大漠】 dà mò    砂漠
【燕山】 yān shān    モンゴルにある山の名
【络脑】 luò nǎo    おもがい(馬のたてがみにつける装飾)

李賀の「馬の詩」は、不遇の名馬に託して感慨を述べた二十三首の連作。
その詩の多くは、史上名高い駿馬に、作者自身を重ね、並みの者では逸材の力を
活用できないといった、日の目を見ない自らの境遇を嘆じて詠ったものである。

李賀は、その優れた詩才にもかかわらず、生涯、正統派の詩人とはみなされなかった。
また傲慢不遜な一面があり、人から恨まれ嫌われることが多かったと伝えられる。




马诗 mǎ shī 二十三首其八 (唐) 李贺    
     
赤兔无人用 chì tù wú rén yòng
当须吕布骑 dāng xū lǚ bù qí
吾闻果下马 wú wén guǒ xià mǎ
羁策任蛮儿

jī cè rèn mán ér



【注 釈】

馬の詩(うた)

赤兔(せきと)人の用(もち)ゐる無し
当(まさ)に呂布(りょふ)の騎(の)るのを須(ま)つべし
吾(わ)れ聞く 果下(くわか)の馬は 
羈策(きさく)蛮児(ばんじ)に任(まか)すと


【口語訳】

赤兔(せきと)のような名馬は 常人には乗りこなせない
呂布のような 猛将が乗ってやらねば
聞くところによれば 小馬の果下馬(かかば)なら
蛮族の子供でも たづなとむちで 自在に操れるとか


【赤兔】 chì tù    赤兔(せきと)後漢の将軍・呂布(りょふ)が乗っていた名馬
【果下】 guǒ xià    (非常矮小的马,因乘之可行于果树之下故名)馬の品種。丈が低い小柄の馬
【羁策】 jī cè    たづなと鞭(むち)
【蛮儿】 mán ér    異民族の子供

蛮族の子供でも乗れる果下馬と、呂布のような豪傑しか乗りこなせない赤兔を対比したもの。
呂布の武勇は、陳寿の三国志の中で「人中に呂布あり、馬中に赤兔あり」と称えられている。

羅貫中の三国志演義でも、劉備、関羽、張飛の三人を相手に、一人で対等に渡り合っている。
なお呂布が曹操に滅ぼされた後、赤兔は関羽の愛馬となり、関羽が死ぬまで苦楽をともにした。




马诗 mǎ shī 二十三首其十 (唐) 李贺    

催榜渡乌江 cuī bǎng dù wū jiāng
神骓泣向风 shén zhuī qì xiàng fēng
君王今解剑 jūn wáng jīn jiě jiàn
何处逐英雄 hé chù zhú yīng xióng



【注 釈】

馬の詩(うた)

榜(ばう)を催(うなが)して 烏江(うかう)を渡らんとす
神騅(しんすゐ)泣いて 風に向かう 
君王(くんわう)今(いま)剣(けん)を解かば
何(いづ)れの処にか 英雄を逐(お)わん


【口語訳】

楚王・項羽が船の櫂(かい)をせきたて 烏江を渡らんとしたとき
名馬・騅(すい)は 寒風に向かって泣いた
王が今 自刃して死んでしまったら 私はこれから一体
王のような英雄を どこに追い求めることが出来ましょうぞ


【榜】 bǎng    (船桨)舟の櫂(かい)
【催】 cuī    舟を漕ぐ速度を速める
【乌江】 wū jiāng    烏江(うこう 安徽省)長江北岸の渡し場
【神骓】 shén zhuī    神騅(しんすい)楚王・項羽の愛馬

項羽は結局、烏江を渡らず、愛馬の騅(すい)を渡し場の亭長に譲り、
その後、徒歩で敵に向かい、最後に自刃して果てた。(史記 項羽本紀)
本作は、項羽亡き後、悲嘆にくれる騅の独白という形で詠ったもの。



李賀  lǐ hè   (りが)  (791~817年)
中唐の詩人。字は長吉(ちょうきつ)河南省宜陽(ぎよう)の人。
その詩は絢爛にして凄絶、鬼気迫る幻想の世界を得意とし、美女の亡霊、深山の妖かし、墓前の鬼火などを好んで詩題としたため、
後世の批評家から「冥界の鬼才」と称されるに至った。

わずか二十七歳で夭逝したが、死に際に「天帝が白玉の高楼を建てた祝いに、詩を作らせようと私をお召しになる」と母に告げたという。
ここから文人の死を「白玉楼中(はくぎょくろうちゅう)の人となる」との成句が生まれた。
著作に詩集「李賀歌詩篇」(四巻)




(賈島)

(尋隠者不遇) (渡桑乾)


寻隐者不遇    (唐) 贾岛  

松下问童子 sōng xià wèn tóng zǐ
言师采药去 yán shī cǎi yào qù
只在此山中 zhǐ zài cǐ shān zhōng
云深不知处 yún shēn bù zhī chǔ




【注 釈】

隱者(いんじゃ)を尋ぬるに遇(あ)はず
                    
松下(しょうか)童子(どうじ)に 問へば 言ふ 「師は 薬を採り去る」
只(ただ)此の山中に 在らんも   雲深くして 処(ところ)を知らずと


【口語訳】  「訳詩: 森亮(唐詩絶句)」

松かげの童(わらべ)に問へば 師の君は 薬採りにと
この山にいますなれども 雲ふかく 見れど見えぬとふ


【隐者】 yǐn zhě    世捨人。隠者を訪ねたが遇えなかった

旧知の隠者をその山荘に訪ねて行ったのだが、会えなかったことを述べる。
隠者を訪問する題材は、詩や小説の世界では古くからあるが、孤高に生きる隠者には
容易に会えないことが基本となっている。明の羅貫中の歴史小説「三国志演義」では、
後漢の劉備が、山野に隠遁していた諸葛孔明を何度も訪問するくだりがある。




渡桑干 dù sāng gān   (唐) 贾岛    

客舍并州已十霜  kè shě bìng zhōu yǐ shí shuāng
归心日夜忆咸阳  guī xīn rì yè yì xián yáng
无端更渡桑干水  wú duān gèng dù sāng gān shuǐ
却望并州是故乡  què wàng bìng zhōu shì gù xiāng




【注 釈】

桑乾(さうかん)を渡る

并州(へいしう)に 客舍(かくしゃ)すること 已(すで)に 十霜(じつさう)
帰心(きしん)日夜(ひるよる)咸陽(かんやう)を 憶(おも)ふ
端(たん)無くも 更に渡る 桑乾(さうかん)の水
却(かへ)つて 并州(へいしう)を 望めば 是れ 故郷(こきゃう)


【口語訳】
   
故郷(さと)を出てより 早や十年(じうねん)
ここ并州(へいしう)に われ住めど
異境(いきゃう)のおもひ 切にして
あけくれ咸陽(かんやう)慕(した)ひ来し 

今ゆくりなく 桑乾(さうかん)の
水をわたりて いや遠(とほ)く
道の極みに 在るわれぞ
かの并州(へいしう)を しみじみと
故郷(さと)のごとくに なつかしむ 


【渡桑干】 dù sāng gān     桑乾(そうかん)を渡る。桑乾は川の名

片田舎の任地に、止むなく赴任してから、もう十年になるが、やはり住めば都で、
今では第二の故郷と思っている、という長年仮住まいした土地に対する感慨を述べる。

【客舍】 kè shě      旅先で投宿する
【并州】 bìng zhōu     地名。山西省太原
【咸阳】 xián yáng     地名。咸陽。作者の故郷



賈島 jiǎ dǎo   (かとう)  (779~843年)
中唐の詩人。字は浪仙(ろうせん)河北范陽(はんよう)の人。 僧であったが韓愈(かんゆ)に才を認められて還俗。
詩の「僧推月下門(そうすいげっかもん)」の「推(おす)」を「敲(たたく)」とすべきか否かに苦心したことは有名。
「賈浪仙体(かろうせんたい)」と呼ばれる一字一句に苦吟を重ねる詩風で「推敲」の語源とされる逸話を生んだ。
代表作に詩集「賈浪仙長江(かろうせんちょうこう)集」(十巻)




(銭起)


归雁  guī yàn    (唐) 钱起    

潇湘何事等闲回 xiāo xiāng hé shì děng xián huí
水碧沙明两岸苔 shuǐ bì shā míng liǎng àn tái
二十五弦弹夜月 èr shí wǔ xián dàn yè yuè
不胜清怨却飞来 bú shèng qīng yuàn què fēi lái




【注 釈】

帰雁(きがん)

瀟湘(せうしゃう)より 何事(なんごと)ぞ 等間(とうかん)に回(かへ)る
水 碧(みどり)に 沙(いさご)明(あきら)かにして 両岸(りゃうがん)に苔(こけ)あり
二十五弦(に じふごげん)夜月(やげつ)に弾(だん)ずれば
清怨(せいゑん)に 勝(た)へずして 却(かへ)り 飛び来(きた)る


【口語訳】

水は碧(みど)りに 砂白く
苔(こけ)また青き 瀟湘(せうしゃう)の
ながめをあとに 春の雁(かり)
すげなき様(さま)に など帰る 

月にむかひて 弾(ひ)き調(しら)ぶ
二十五絃(げん)の 音(ね)をわびて
堪(た)へでや 雁(かり)は帰るらむ


【潇湘】 xiāo xiāng     川の名。瀟水(しょうすい)と湘水(しょうすい)。洞庭湖に注ぐ
【等闲】 děng xián     わけもなく。理由もなく
【清怨】 qīng yuàn     もののあはれ

何ゆえ雁は、北に帰るのかという問いかけに答える。それは月夜に湘水の女神である江娥(こうが)が
二十五弦の琴を奏でるのを聞くと、その哀切な音色に堪えかねて、北に飛び帰るのだと説明する。



銭起 qián qǐ   (せんき)  (722~780年)
中唐の詩人。字は仲文(ちゅうぶん)浙江省呉興(ごこう)の人。
詩風は、五言詩にすぐれ、感傷に独自の味わいがあり、叙景、送別の作品が多い。
中唐の大暦期を代表する詩人として「大暦十才子(たいれきじっさいし)」の筆頭に数えられる。
著作に詩集「銭考功(せんこうこう)集」(十巻)




(韋応物)

(二十二員外) (滁州西澗) (聞雁)


秋夜寄丘二十二员外   (唐) 韦应物    

怀君属秋夜 huái jūn shǔ qiū yè
散步咏凉天 sàn bù yǒng liáng tiān
山空松子落 shān kòng sōng zǐ luò
幽人应未眠 yōu rén yìng wèi mián




【注 釈】

秋夜(しうや)丘(きう)二十二員外(ゐんぐわい)に寄す

君(きみ)を 懐(おも)ひて 秋夜(しうや)に属(しょく)し
散歩(そぞろ)して 涼天(りゃうてん)に詠(えい)ず
山 空(むな)しくして 松子(しょうし)落ち
幽人(いうじん)応(まさ)に未だ眠らざるべし


【口語訳】

山深く 入りにし君を 偲(しの)びつつ
秋の涼夜(りゃうや)に うたひつつ
さまよひ行けば 閑(のど)かさの
声なき山に 松の実の
かさこそ落つる 音聞ゆ 

よしや逃れて 世の中を
外に住みなす 君とても
今宵はいまだ 寝(い)ざるべし 


【丘二十二员外】 qiū èr shí èr yuán wài     丘家の二十二男である員外(官吏)
【幽人】 yōu rén     隠者

秋の夜、ふと友の隠者を思い出し、そぞろ歩きに詩を詠じる。すると人けのない山の中に、
ぽつりと松かさの落ちる音。作者も詩を送られた友も、世の喧騒を離れた静寂の境地にいる。




滁州西涧   chú zhōu xī jiàn  (唐) 韦应物    

独怜幽草涧边生 dú lián yōu cǎo jiàn biān shēng
上有黄鹂深树鸣 shàng yǒu huáng lí shēn shù míng
春潮带雨晚来急 chūn cháo dài yǔ wǎn lái jí
野渡无人舟自横 yě dù wú rén zhōu zì héng



【注 釈】

滁州(ぢょしう)の西澗(せいかん)
    
独(ひと)り憐(あは)れむ 幽草(いうそう)の 澗辺(かんべん)に生(しゃう)ずるを
上(うへ)に 黄鸝(くわうり)の 深樹(しんじゅ)に鳴(な)く有(あ)り
春潮(しゅうてう) 雨を帶(お)びて 晩来(ばんらい)急(きふ)なり
野渡(やと) 人(ひと) 無く 舟(ふね) 自(おのづか)ら橫(よこ)たはる


【口語訳】

愛(かな)しき小草(をぐさ)岸辺に生(お)ひて
深き樹(こ)の間(ま)に うぐひすの啼(な)く
夕まぐれ 雨を添え 流れも早し 春の川水(かはみづ)
渡り場に 人影絶えて ただ横たはる 舟ひとつ 


【滁州】 chú zhōu  安徽省の滁(じょ)市
【西涧】 xī jiàn  滁州(じょしゅう)の西側の谷川
【幽草】 yōu cǎo  奥深い谷に生ずる草

【涧边】 jiàn biān  谷川の岸辺
【黄鹂】 huáng lí  高麗うぐいす
【春潮】 chūn cháo  春の増水した川の流れ
【野渡】 yě dù  田舎の舟渡し場

782年、作者が滁州(じょしゅう 安徽省)の刺史(しし 長官)となった時期の作品。
何気ない水辺の景観を描いた詩だが、作者の春景を慈しむ心情が、細やかに詠いあげられている。




闻雁   wén yàn   (唐) 韦应物    

故园眇何处 gù yuán miǎo hé chù
归思方悠哉 guī sī fāng yōu zāi
淮南秋雨夜 huái nán qiū yǔ yè
高斋闻雁来 gāo zhāi wén yàn lái



【注 釈】

雁(かり)を聞く

故園(こゑん) 眇(べう)として何(いづ)れの処(ところ)ぞ 
帰思(きし) 方(まさ)に悠(いう)なる哉(かな) 
淮南(わいなん) 秋雨(しうう)の夜 
高斎(かうさい)に 雁(かり)の来たるを聞く


【口語訳】  「訳詩: 森亮(唐詩絶句)」
 
ふるさとは えこそ見分(みわ)かね
帰りなむ こころせつなり
淮南(わいなん)に しぐれする夜(よ)を
たかどのに 雁が音(ね)聞(き)こゆ


【故园】 gù yuán  故郷(長安)
【眇】 miǎo hé chù  はるかかなた
【悠】 yōu  思いは尽きないさま
【淮南】 huái nán  淮水(わいすい)の南、滁州(じょしゅう 安徽省)を指す
【高斋】 gāo zhāi   高殿にある書斎。

782年、作者が滁州(じょしゅう 安徽省)の刺史(しし 長官)となった時期の作品。
秋雨ふる夜、高楼の書斎で、北に帰る雁の声を聞き、望郷の念に駆られて詠んだもの。



韋応物  wéi yìng wù   (いおうぶつ)  (735~790年)
中唐の詩人。陝西西安の人。
名門の家に生まれ、玄宗に近衛士官として仕えた。安史の乱の後、職を失ったため故郷に帰って学問に励んだ。
田園、自然を詠じた穏やかな詩風で、盛唐の王維、孟浩然、中唐の柳宗元とともに唐代の自然詩人の代表的存在とされる。
著作に詩集「韋蘇州(いそしゅう)集」(十巻)




(賀知章)

(回郷偶書) (詠柳)


回乡偶书   (唐)  贺知章    

少小离家老大回 shǎo xiǎo lí jiā lǎo dà huí
乡音无改鬓毛衰 xiāng yīn wú gǎi bìn máo shuāi
儿童相见不相识 ér tóng xiāng jiàn bù xiāng shí
笑问客从何处来 xiào wèn kè cóng hé chù lái




【注 釈】

郷(さと)に 回(かへ)りて 偶(たまさか)に書く

少小(せうせう)にして 家を離れ 老大(らうだい)にして 回(かへ)る
郷音(なまり)改まること 無(な)く 鬢毛(びんもう)衰(すた)る
児童(こども)相見て 相識(し)らず
笑ひて問ふ 「客(かく)何処(いづ)れより 来(きた)る」 と


【口語訳】

いとけなきより家を出て 今  年長(た)けて帰りけり
里の言葉はそのままに  鬢(びん)の白髪(しらが)ぞ変わりける
初めてわれ見る 児(こども)らは 笑ひふくみて 問ひけらく
「客いづくより来れる」と


【偶书】ǒu shū たまたま書いた詩

作者が、官を辞して、50年ぶりに故郷へ帰った感慨を述べたもの。古巣に戻っても、なじみの人はおらず、
子供から「おじさん、だあれ」と尋ねられるしまつ。そぞろに悲哀が漂う詩となっている。




咏柳 yǒng liǔ  (唐) 贺知章    

碧玉妆成一树高 bì yù zhuāng chéng yī shù gāo
万条垂下绿丝绦 wàn tiáo chuí xià lǜ sī tāo
不知细叶谁裁出 bù zhī xì yè shéi cái chū
二月春风似剪刀 èr yuè chūn fēng sì jiǎn dāo



【注 釈】

柳(やなぎ)を詠(えい)ず

碧玉(へきぎょく)粧(よそほ)い成(なっ)て 一樹(いちじゅ)髙(たか)し
万条(ばんてう)垂下(すいか)す 緑糸条(りょくしてう)
不知(しらず)細葉(さいえふ)誰(たれ)か裁(た)ち出(い)だす
二月(にぐわつ)の春風(しゅんぷう)剪刀(せんたう)に似(に)たり


【口語訳】

碧玉で 着飾ったように 美しい柳の木
すらりと高く伸び いくすじも垂れ下がる 緑の枝葉

こんな細い糸を いったい誰が 切り裂いたのか
そう まるで剪刀のような 二月の春風に違いない


【碧玉】 bì yù    玉のような緑(が柳を彩る)
【万条】 wàn tiáo    千万の枝(が糸のように垂れさがる)

早春二月の柳を詠んだもの。柳は、しばしばすらりとした女性の姿にたとえられる。
風にたなびく細い柳の葉は、鋭い刃物のような春風によって切り出されたに違いないという
目に見えない春風を擬人化し、生き生きとした実感のあるものとして表現している。



賀知章 hè zhī zhāng (がちしょう) (659~744年)
盛唐の詩人。字は季真(きしん)浙江省紹興の人。
695年、科挙に及第し、玄宗に仕えた。放縦な性格で酒を好み、李白と親交があり、彼の才能を発見し玄宗に紹介した。
清淡風流な詩で世に知られ、また書は草書、隸書を得意としていた。飲中八仙歌(唐の八大酒豪)の一人としても知られる。




(張継)


枫桥夜泊  (唐)  张继    

月落乌啼霜满天 yuè luò wū tí shuāng mǎn tiān
江枫渔火对愁眠 jiāng fēng yú huǒ duì chóu mián
姑苏城外寒山寺 gū sū chéng wài hán shān sì
夜半钟声到客船 yè bàn zhōng shēng dào kè chuán




【注 釈】

楓橋(ふうけう)夜泊(やはく)
                       
月 落ち 烏 啼き   霜 天に満つ
江楓(かうふう)の 漁火(ぎょくわ)愁眠(しうみん)に対す
姑蘇(こそ)城外(じゃうぐわい)の 寒山寺(かんざんじ)
夜半(よは)の 鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到る


【口語訳】

楫(かじ)まくら 波の浮寝(うきね)に 漁(いさ)り火の
遠(とほ)くゆれつつ ふり仰(あふ)ぐ
空に月落ち 鳥は啼き 夜明けに近き霜の冴え

折りしもひびく鐘の音ぞ
姑蘇(こそ)城外(じゃうぐわい)は寒山寺
かき数(かぞ)うれば うたしてや
夜更けを告ぐる鐘なりき


【楓橋】 fēng qiáo    (ふうきょう)江蘇省蘇州市郊外にある石橋の名
【江枫】 jiāng fēng    川のほとりのカエデ
【对愁眠】 duì chóu mián    旅の寂しさに寝つかれない自分に向かって
【姑苏城】 gū sū chéng    呉越時代の呉の都。現在の江蘇省蘇州市
【寒山寺】 hán shān sì    中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある寺

作者が旅の夜、蘇州で船どまりしたときの夜景を詠んだもの。
この詩について、宋の欧陽修が批判を加えている。「真夜中に寺の鐘が鳴るはずがない」と疑問を呈したのだ。

これに対して、実際に聞いたことがある、文献で見た、など反論が相次いだ。
この件はその後、大激論となり、おかげでこの詩一首だけで、張継の名は広く知られることになった。



張継 zhāng jì  (ちょうけい)  生没年不詳
盛唐の詩人。字は懿孫(いそん)湖北襄陽の人。
飾らない自然な詩風で、七言絶句にすぐれる。なかでも「楓橋夜泊」が古来有名。
著作に詩集「張祠部(ちょうしぶ)詩集」(一巻)




(崔敏童)


宴城东庄  yàn chéng dōng zhuāng (唐)崔敏童    

一年始有一年春 yī nián shǐ yǒu yī nián chūn
百岁曾无百岁人 bǎi suì céng wú bǎi suì rén
能向花前几回醉 néng xiàng huā qián jǐ huí zuì
十千沽酒莫辞贫 shí qiān gū jiǔ mò cí pín



【注 釈】

城東(じゃうとう)の荘(さう)に宴(えん)す  

一年(いちねん)始(はじ)めて一年(いちねん)の春(はる)有り
百歳(ももとせ)曾(かつ)て百歳(ももとせ)の人(ひと)無し
能(よ)く花前(くわぜん)に向(むか)ひて 幾回(いくくわい)か酔(ゑ)わん
十千(じうせん)もて酒を沽(か)ひ 貧(ひん)を辞(じ)すること莫(な)かれ


【口語訳】

ひと年に ひとたび春はめぐれども
百年(ももとせ)に めぐりあひにし人やある

春ながら 花に酔ふ日は 稀(まれ)なるを 
よしやわれ 貧に落つとも 花見酒 うたた楽しく 酔ひ痴れむ


【城东庄】 yàn chéng dōng zhuāng  長安の東郊にあった作者の別荘。

本作は、この別荘で宴会が開かれ、その席上で詠んだものとされる。
酔いしれることのできる日は人生でそうあるものではない。財布のことは気にせず酒を買ってこいという。
漢詩には酒を詠じたものが多いが、この詩もまた、酒の賛歌である。

【一年始】 yī nián shǐ   一年を経てようやく(次の春がまた訪れる)
【曾无百岁人】 céng wú bǎi suì rén  (百歳の寿などと言うが)かつて百歳まで生きた人はいない

【能向花前】 néng xiàng huā qián  花を肴に酔えるのは(一生に何回もない)
【十千】 shí qiān  千の十倍。値段の高いこと
【莫辞贫】 mò cí pín  貧乏を口実にするな(だから銭をはたいて酒に換えろ)の意

 
崔敏童 cuī mǐn tóng (さいびんどう)生年没不詳
初唐の詩人。山東省博州(はくしゅう 聊城市)の人。
生没年、経歴は不詳。よく知られたこの詩の作者としてのみ名が伝わる。




(鄭谷)


淮上与友人别  huái shàng yǔ yǒu rén bié (唐)郑谷    

扬子江头杨柳春 yáng zǐ jiāng tóu yáng liǔ chūn
杨花愁杀渡江人 yáng huā chóu shā dù jiāng rén
数声风笛离亭晚 shù shēng fēng dí lí tíng wǎn
君向潇湘我向秦 jūn xiàng xiāo xiāng wǒ xiàng qín



【注 釈】

淮上(わいじゃう)にて友人(いうじん)と別る 

揚子(やうす)江頭(かうとう) 楊柳(やうりう)の春
楊花(やうくわ)愁殺(しうさつ)す 江(かう)を渡る人
数声(すうせい)の風笛(ふうてき) 離亭(りてい)の晩(くれ)
君は 瀟湘(せうしゃう)に向かひ 我れは秦(しん)に向かふ


【口語訳】

長江の岸の柳に 春闌(た)けて  波は柳の 花浮(う)けて
江(かは)をゆく人 いたましむ 

明日の別れを惜しみては 酒くみかはす杯(さかづき)の 
中に流るる笛の音ぞ やるかたなくも 切なしや

思ひはつきじ いざ友よ 君は瀟湘(みなみ)に われは秦(きた)
互(かたみ)に 遠(とほ)く しばし別れむ


【淮上】 huái shàng  淮水(淮河 わいが)のほとり

本作は、淮水が揚子江と交わる揚州(江蘇省)の船着き場で、南北に別れる友人との惜別の気持ちを、
目の前の風物に託して詠ったもの

【杨花愁杀】 yáng huā chóu shā  柳の白い花が風に飛び交い(旅だつ人の心を)物悲しい思いにひきこむ
【离亭】 lí tíng  送別の宴を張る亭

【潇湘】 xiāo xiāng  (湖南一带)瀟水(しょうすい)と湘水(しょうすい)は、
ともに湖南省を流れる大河であり、ここでは湖南一帯をさす
【秦】 qín  (都城长安)秦の都長安



鄭谷 zhèng gǔ (ていこく)(851~910年)
晩唐の詩人。字は守愚(しゅぐ)江西省宜春(ぎしゅん)の人。
幼少から才名が高く、七歳で詩をつくったといわれる。

887年、進士に及第、897年、都官郎中(とかんろうちゅう 司法官)に昇進、周囲からは鄭都官(鄭検事)と呼ばれた。
907年、唐の滅亡後は、僧侶となり、晩年は故郷の宜春(ぎしゅん)で隠遁生活を送ったという。
その詩は、清新な作風で、抒情にすぐれ、七言詩を得意とした。著作に詩集「雲台編(うんだいへん)」(三巻)




(高適)

(別董大) (使青夷軍入居庸) (除夜作)


别董大   (唐) 高适    

千里黄云白日曛 qiān lǐ huáng yún bái rì xūn
北风吹雁雪纷纷 běi fēng chuī yàn xuě fēn fēn
莫愁前路无知己 mò chóu qián lù wú zhī jǐ
天下谁人不识君 tiān xià shuí rén bù shí jūn




【注 釈】

董大(とうだい)に別る 

千里(せんり)黄雲(くわううん) 白日(はくじつ)曛(くん)じ
北風(ほくふう)雁(かり)を 吹きて 雪 紛紛(ふんふん)たり
愁(うれ)ふる 莫(なか)れ 前路(ぜんろ)知己(ちき) 無きと
天下(てんが)誰人(たれひと)か 君を 識(し)らざらん


【口語訳】

見る限り 雲かきたれて 日も昏(くら)し
雁(かり)を伴(とも)なう北風に 今しも雪の降りいでぬ
愁(うれ)ふるなかれ 天(てん)が下(もと)
名に聞えたる君なれば ゆく果て果てにあたたかく
君を迎ふる友のありなむ


【董大】 dǒng dà   (とうだい)人名。董家の長男と別れる
【白日曛】 bái rì xūn   日の入の時刻で暗くなりつつある

「董大」は、琵琶の名手で、当時の宮廷音楽家「董庭蘭(とうていらん)」を指す。安史の乱の勃発で、
止む無く流浪の旅を続けていたが、旅先で巡り会った高適が、激励して、いたわりの言葉をなげかけた詩。




使青夷军入居庸  shǐ qīng yí jūn rù jū yōng  其一   (唐)  高适  

匹马行将久 征途去转难 pǐ mǎ xíng jiāng jiǔ zhēng tú qù zhuàn nán
不知边地别 只讶客衣单 bù zhī biān dì bié zhǐ yà kè yī dān
溪冷泉声苦 山空木叶干 xī lěng quán shēng kǔ shān kōng mù yè gān
莫言关塞极 云雪尚漫漫 mò yán guān sài jí yún xuě shàng màn màn




【注 釈】

青夷軍(せいいぐん)に使(つかい)して居庸(きょよう)に入(い)る
     
匹馬(ひつば) 行(ゆ)き 行(ゆ)きて 将(まさ)に 久しくならんとす     
征途(せいと) 去(さ)って 転(うた)た 難(かた)し      
辺地(へんち)の別(べつ)なるを 知(し)らず     
只(ただ)客衣(かくい)の 単(ひとえ)なるを 訝(いぶか)る      
渓(たに)冷(ひや)やかにして 泉声(せんせい)苦(くる)しみ      
山(やま)空(むな)しくして 木葉(ぼくえふ)乾(かわ)く     
言(い)う莫(なか)れ 関塞(かんさい)極(きわ)まると
雨雪(うせつ) 尚(なほ)漫漫(まんまん)たり


【口語訳】

馬上(ばじゃう)はるかに 沈みゆく
夕日(ゆふひ)の影を 望みつつ
ゆく道いよよ 険(けん)となる 

異郷(いきゃう)の季節(しき)に 疎(うと)くして
わが衣手(ころもて)の うすきかと
肌さす風に いぶかりし

たぎつ流るる 谷川の
水冷(ひや)やかに 岩間もる
泉の声も 身にしみて 
住む人ぞなき 山中の
木の葉枯葉の 色ぞ憂(う)き 

旅も終わりと 言ふなかれ
ゆくては尚(なほ)も 雨雪(あまゆき)の
かきくれ降りて 道の奥
いつ果つるとも なきものを


【青夷军】 qīng yí jūn   青夷軍(せいいぐん)北京から西北へ長城を越えた辺境の地に駐屯する軍
【居庸】 jū yōng   居庸関(きょようかん)北京の西北60kmにある要塞。北方異民族に対する防衛の拠点
【客衣】 kè yī     旅先で着ている着物

作者は李白と親交があり、そのつてで玄宗に仕官し、封丘県(ふうきゅうけん 河南省)武官の官職を得た。
750年、欠員を補うための補充兵を引き連れ、嬀州(きしゅう 河北省)に駐屯する青夷軍(せいいぐん)に向かった。
本作はその帰途、昌平県(河北省)の居庸関(きょようかん)に入ったときに詠んだもの。



除夜作 chú yè zuò   (唐) 高适    

旅館寒灯独不眠 lǚ guǎn hán dēng dú bù mián
客心何事转凄然 kè xīn hé shì zhuàn qī rán
故乡今夜思千里 gù xiāng jīn yè sī qiān lǐ
霜鬓明朝又一年 shuāng bìn míng zhāo yòu yì nián




【注 釈】

除夜(ぢょや)の作

旅館(りょくわん)の寒灯(かんとう) 独(ひと)り 眠らず
客心(かくしん)何事(なんごと)ぞ 転(うた)た 悽然(せいぜん)
故郷(こきゃう) 今夜(こよひ) 千里(せんり)を 思はん
霜鬢(さうびん) 明朝(みゃうてう)又(また)一年


【口語訳】

流離(りうり)の旅の 宿にして
灯(とも)し火 寒く 寝もやらず
しみじみ 偲(しの)ぶ 故里(ふるさと)の
遠き思ひぞ 身を責むる
今宵(こよひ)過ぐれば また一つ
年の白髪(しらが)の 数ぞ添(そ)ふ


【客心】 kè xīn     旅先での思い
【转凄然】 zhuàn qī rán     悲しみがいやまさる

一家団欒で過ごすべき除夜を、旅先で迎えた作者の、ひときわつのる望郷の念を詠ったもの。



高適 gāo shì (こうせき) (702~765年)
盛唐の詩人。字は達夫(たっぷ)山東渤海の人。五十歳を過ぎてから詩作を志したが、たちまち文名があがった。
辺境の自然をうたった辺塞詩(へんさいし)にすぐれ、同じ辺塞詩人の岑参(しんじん)と共に「高岑」と並び称される。
代表作に辺境での憂いの気持ちを詠じた詩集「高常侍(こうじょうじ)集」(八巻)がある。




(張籍)

(秋思) (野老歌)


秋思 qiū sī   (唐) 张籍    

洛阳城里见秋风  luò yáng chéng lǐ jiàn qiū fēng      
欲作家书意万重  yù zuò jiā shū yì wàn chóng     
忽恐匆匆说不尽  hū kǒng cōng cōng shuō bú jìn      
行人临发又开封  xíng rén lín fā yòu kāi fēng



       
【注 釈】

秋思(しうし)
   
洛陽(らくやう)城裏(じゃうり)秋風(しうふう)を見る
家書(かしょ)を作らんと欲して 意(い)万重(ばんちょう)
復(また)恐(おそ)る 怱怱(さうさう)説き尽くさざるを
行人(かうじん)発するに臨(のぞ)みて 又封(ふう)を開く


【口語訳】

都に秋の風たてば 思ひはかける ふる里へ
文(ふみ)したためて 言伝(ことづ)てむ

思ひは千千(ちぢ)に 重なりて 
書きつくすべくもあらざるに 伝えし人の発(た)つあした
もらせし事の ありやせむ また読みかへす 筆の跡(あと)


【家书】 jiā shū   妻への手紙
【意万重】 yì wàn chóng  思いは千々に乱れる
【行人】 xíng rén  使者

洛陽で官職にあった作者が、秋の気配に望郷の念にかられ、手紙を書くことを詠ったもの。




野老歌 yě lǎo gē  (唐) 张籍   

老农家贫在山住   lǎo nóng jiā pín zài shān zhù
耕种山田三四亩   gēng zhòng shān tián sān sì mǔ
苗疏税多不得食   miáo shū shuì duō bù dé shí
输入官仓化为土   shū rù guān cāng huà wéi tǔ
岁暮锄犁傍空室   suì mù chú lí bàng kòng shì
呼儿登山收橡实   hū ér dēng shān shōu xiàng shí
西江贾客珠百斛   xī jiāng gǔ kè zhū bǎi hú
船中养犬长食肉   chuán zhōng yǎng quǎn cháng shí ròu



【注 釈】

野老(やろう)の歌  

老翁(ろうをう)家(いへ)貧(まづ)しくして山に在(あ)りて住み
山田(さんでん)に耕種(かうしゅ)することの三四畝(さんしほ)
苗(なえ)は疎(そ)にして 税(ぜい)は多く 食を得ず
官倉(くわんさう)に輸(うつ)し入(い)れしは 化(か)して土と為(な)る

歳暮(さいぼ)鋤犁(じょれい)は空室(くうしつ)に傍(よ)り
児(こ)を呼びて 山に登り 橡実(しゃうじつ)を収(をさ)む
西江(せいかう)の賈客(こかく)珠(しゅ)百斛(ひゃくこく)
船中(せんちう)に犬を養い 長(つね)に肉を食らわす


【口語訳】  「訳詩: 倉石武四郎(歴代詩選)」

貧乏じいさん 山家(やまが)のすまい
やせた山田(やまだ)で 種(たね)まき耕す
税が高くて 獲(と)れたもの食えぬ
お上に納めりゃ 腐らすくせに

年の瀬 すきくわ ただたてかけて
こどもと山で 橡(とち)の実ひろう
舟の商人(あきんど) お宝どっさり
狗(いぬ)さえ しこたま 肉くらいおる


【野老歌】 yě lǎo gē  野老(やろう)の歌。「野老」は、田舎の老人の意

農民は貧困に苦しんでいるのに、租税ばかり重くて、食べるものもない。
しかたなく山で橡(とち)の実を拾って食べる。ところが豪商は財宝をたくわえ、
その家の犬も肉を食っている。といった不合理な社会を風刺した一篇。

【输入】 shū rù  収め入れる
【岁暮】 suì mù  年の暮れ
【空室】 kòng shì   空っぽの部屋
【傍】 bàng  (鋤を)立てかける
【呼儿】 hū ér  子供を呼んで
【收橡实】 shōu xiàng shí   トチの実を拾う
【西江】 xī jiāng  西江は、長江の中下流を指す。商船の往来が盛ん
【贾客】 gǔ kè  旅商人
【珠百斛】 zhū bǎi hú  真珠600キロ



張籍 zhāng jí   (ちょうせき)  (766~830年)
中唐の詩人。字は文昌(ぶんしょう)安徽省和州(わしゅう)の人。
韓愈(かんゆ)の高弟のひとり。各地の民謡を題材とした楽府(がふ)の詩にすぐれる。
平易な詩語で人心を伝えるその詩風は、盟友の王建(おうけん)とともに「張王楽府」と並び称された。
著作に詩集「張司業(ちょうしぎょう)詩集」(八巻)。




(司空曙)

(江村即事) (留盧秦卿)


江村即事 jiāng cūn jí shì  (唐) 司空曙    

钓罢归来不系船 diào bà guī lái bù xì chuán
江村月落正堪眠 jiāng cūn yuè luò zhèng kān mián
纵然一夜风吹去 zòng rán yí yè fēng chuī qù
只在芦花浅水边 zhǐ zài lú huā qiǎn shuǐ biān



【注 釈】

川辺の村の風情を詠む

釣 罷(や)め 帰(かへ)り来(きた)りて  船を繋(つな)がず
江村(かうそん)月 落ちて 正(まさ)に眠(ねむ)るに堪(た)へたり
縱然(たとひ)一夜  風 吹き去るとも
只(ただ)蘆花(ろくわ)浅水(せんすい)の辺(ほとり)に 在(あ)らん


【口語訳】

流れに釣を楽しみて 今 こぎ帰る川岸の
水辺の村に月落ちて 眠りをさそふ夜の静けさ
繋(つな)がぬ舟に丸寝して 鳰(にお)の浮巣(うきす)の風まかせ
よしや吹かれて 流るるも 一夜あくれば浅き瀬の
芦(あし)の花間(はなま)にわれを見む


【江村即事】 jiāng cūn jí shì     川辺の村の風情を詠じた詩
【芦花浅水】 lú huā qiǎn shuǐ     芦の花ある水の浅い処

夜釣りの後、船を繋がずに、そのまま横になって眠ってしまう。
風まかせ波まかせ、悠々自適の心境を詠ったもの。




留卢秦卿  liú lú qín qīng  (唐) 司空曙    

知有前期在 zhī yǒu qián qī zài
难分此夜中 nán fēn cǐ yè zhōng
无将故人酒 wú jiāng gù rén jiǔ
不及石尤风 bù jí shí yóu fēng



【注 釈】

盧秦卿(ろしんけい)を留(とど)む

前期の在(あ)ること有るを知れども
分(わか)れ難し この夜の中(うち)
故人(こじん)の酒を将(も)て
石尤(せきいう)の風に及ばず とする無かれ


【口語訳】  「訳詩: 森亮(唐詩絶句)」

ゆくてを急ぐ 汝(な)が旅も
今宵 別れの惜しきかな
ふる友どちの 長酒(ながざけ)を
みちのあらしと ゆるせかし


【卢秦卿】 lú qín qīng    盧秦卿(ろしんけい)作者の友人
【前期】 qián qī   再会する機会
【故人】 gù rén   昔からの友人(作者自身を指す)
【石尤风】 shí yóu fēng    向かい風

作者の友人が旅に出ようとするとき、送別の宴席で、別れるに忍びない心情を詠ったもの。
石尤(せきゆう)の風とは、旅人の行く手をはばむ向かい風のこと。作者の友人は急ぎの旅だと言うが、
昔なじみの作者の酒では、向かい風には及ばぬとでも言うのか、と出立を慰留しているのである。



司空曙  sī kōng shǔ   (しくうしょ)  (740~790年)
中唐の詩人。 字は文明(ぶんめい)河北省広平(こうへい)の人。
770年、科挙に及第し、節度使(地方長官)などを歴任したが、潔癖な性格で権勢に媚びず、出世とは無縁だったが平然としていたという。
その詩は、静謐にして清新と評され、大暦十才子(たいれきじゅっさいし 中唐の十詩仙)の一人に数えられている。
著作に詩集「司空文明(しくうぶんめい)詩集」(三巻)




(秦嘉)


留郡赠妇诗 liú jùn zèng fù shī (东汉)秦嘉  

(其一)     
人生譬朝露  居世多屯蹇  rén shēng pì zhāo lù  jū shì duō tún jiǎn
忧艰常早至  欢会常苦晚  yōu jiān cháng zǎo zhì  huān huì cháng kǔ wǎn
念当奉时役  去尔日遥远  niàn dāng fèng shí yì  qù ěr rì yáo yuǎn
遣车迎子还  空往复空返  qiǎn chē yíng zǐ huán  kòng wǎng fù kòng fǎn
省书情凄怆  临食不能饭   xǐng shū qíng qī chuàng  lín shí bù néng fàn
独坐空房中  谁与相劝勉   dú zuò kōng fáng zhōng  shéi yǔ xiāng quàn miǎn
长夜不能眠  伏枕独辗转   cháng yè bù néng mián  fú zhěn dú zhǎn zhuǎn
忧来如循环  匪席不可卷  yōu lái rú xún huán  fěi xí bù kě juǎn
     
(其二)     
皇灵无私亲  为善荷天禄    huáng líng wú sī qīn  wéi shàn hé tiān lù 
伤我与尔身  少小罹茕独   shāng wǒ yǔ ěr shēn  shǎo xiǎo lí qióng dú
既得结大义  欢乐苦不足   jì dé jié dà yì  huān lè kǔ bù zú
念当远离别  思念叙款曲   niàn dāng yuǎn lí bié  sī niàn xù kuǎn qǔ
河广无舟梁  道近隔丘陆   hé guǎng wú zhōu liáng  dào jìn gé qiū lù
临路怀惆怅  中驾正踯躅   lín lù huái chóu chàng  zhōng jià zhèng zhí zhú
浮云起高山  悲风激深谷   fú yún qǐ gāo shān  bēi fēng jī shēn gǔ
良马不回鞍  轻车不转毂   liáng mǎ bù huí ān  qīng chē bù zhuàn gū
针药可屡进  愁思难为数   zhēn yào kě lǚ jìn  chóu sī nán wéi shù
贞士笃终始  恩义不可属   zhēn shì dǔ zhōng shǐ  ēn yì bù kě zhǔ
     
(其三)     
肃肃仆夫征  锵锵扬和铃   sù sù pú fū zhēng  qiāng qiāng yáng hé líng
清晨当引迈  束带待鸡鸣   qīng chén dāng yǐn mài  shù dài dài jī míng
顾看空房中  仿佛想姿形   gù kàn kōng fáng zhōng  fǎng fú xiǎng zī xíng
一别怀万恨  起坐为不宁   yī bié huái wàn hèn  qǐ zuò wèi bù níng
何用叙我心  遗思致款诚   hé yòng xù wǒ xīn  yí sī zhì kuǎn chéng
宝钗好耀首  明镜可鉴形   bǎo chāi hǎo yuè shǒu  míng jìng kě jiàn xíng
芳香去垢秽  素琴有清声   fāng xiāng qù gòu huì  sù qín yǒu qīng shēng
诗人感木瓜  乃欲答瑶琼   shī rén gǎn mù guā  nǎi yù dá yáo qióng
愧彼赠我厚  惭此往物轻   kuì bǐ zèng wǒ hòu  cán cǐ wǎng wù qīng
虽知未足报  贵用叙我情    suī zhī wèi zú bào  guì yòng xù wǒ qíng


【注 釈】

郡(さと)に留(とど)むる婦(つま)に贈る詩(うた)

(其の一)
人生は 朝露(てうろ)の譬(ごと)く  
世に居(ゐ)るも 屯蹇(ちゅんけん)多し
憂艱(いうかん)は 常(つね)に早(はや)く至(いた)り  
歡會(くわんくわい)は 常(つね)に苦(はなは)だ晚(おそ)し

念(おも)う 奉時(ほうじ)の役(えき)に當(あ)たり  
爾(なんぢ)を去(さ)ること 日(ひ)びに遙遠(えうえん)たるを
車(くるま)を遣(や)りて 子(し)の還(かえ)るを迎(むか)うるに  
空(むな)しく往(ゆ)きて 復(ま)た空しく返(かへ)る

書(しょ)を省(かえり)みれば 情(じゃう)は悽愴(せいさう)たり  
食(しょく)に臨(のぞ)むも 飯(はん)する能(あた)わず
獨(ひと)り 空房(くうばう)の中に坐(ざ)し  
誰(たれ)と與(とも)にか 相(あ)い勸勉(くわんべん)せん

長夜(ちゃうや)眠(ねむ)る能(あた)わず  
枕(まくら)に伏して 獨(ひと)り輾轉(てんてん)す
憂(うれ)ひの來(きた)ること 循環(じゅんくわん)の如(ごと)し  
席(むしろ)に匪(あら)ざれば 卷(ま)く可(べ)からず


(其の二)
皇霊(くわうれい)私親(ししん)無く  善を為(な)せば 天祿(てんろく)を荷(に)なふ
傷(いた)むらくは 我と爾(なんぢ)が身の 少小(せうせう)より 煢独(けいどく)に罹(かか)れるを
既(すで)に大義(たいぎ)を結び得(う)るも 歓楽(くわんらく)の足らざるを苦しむ
念(おも)ふ 遠(とほ)く離別(りべつ)するに当りて 款曲(くわんきょく)を叙(の)べんと思念(しねん)す 

河広くして舟梁(しうりゃう)無く 道近くして 邱陸(きうりく)を隔(へだ)つ
路(みち)に臨(のぞ)みて 惆悵(ちうちゃう)を懐(いだ)き 中駕(ちうが) 正(まさ)に躑躅(てきちょく)たり
浮雲(うきぐも) 高山(かうざん)に 起(お)き 悲風(ひふう) 深谷(しんこく)に 激(はげ)し
良馬(りゃうば) 鞍(くら)を回(めぐら)さず 軽車(けいしゃ) 穀(こく)を転(てん)ぜず

針薬(しんやく)は 屢(しばしば)進(すす)む可(べ)きも 愁思(しうし)は 数(しばしば)することを為(な)し難(かた)し
貞士(ていし)は 終始(しゅうし)篤(あつ)くし 恩義(おんぎ)促(うなが)す可(べ)からず

(其の三)
肅肅(しゅくしゅく)として 僕夫(ぼくふ)征(ゆ)き  鏘鏘(しゃうさう)として和鈴(われい)揚(あ)ぐ
清晨(せいしん)當(まさ)に引(すす)み邁(ゆ)くべし 束帶(そくたい)して雞鳴(けいめい)を待たん
顧(かへり)みて空室(くうしつ)の中(うち)を看(み)るに 髣髴(はうふつ)として姿形(しけい)を想(おも)ふ
一(ひと)たび别(わか)れて萬恨(ばんこん)を懷(いだ)き 起坐(きざ)して爲(ため)に寧(やすら)かならず

何を用(もつ)て 我が心を叙(の)べん 思(おも)ひを遺(おく)りて 款誠(くわんせい)を致(いた)さん
寳釵(ほうさ)は 首(かうべ)を耀(かがや)かす可(べ)く 明鏡(めいきゃう)は形(かたち)を 鑒(かんが)みる可(べ)し
芳香(はうかう)は 垢穢(こうわい)を去り 素琴(そきん)は 清聲(せいしゃう)有(あ)り

詩人(うたびと)は 木瓜(ぼくくわ)に感(かん)じ 乃(すなは)ち 瑶瓊(えうけい)もて答(こた)えんと欲す
彼(か)の我に贈ることの厚きを愧(は)じ 此(こ)の往物(わうぶつ)の 軽(かろ)きを慙(は)ず
未(いま)だ報(むく)ゆるに足(た)らざるを知ると雖(いへど)も 用(もつ)て我が情(じゃう)を 叙(の)ぶるを貴(たふと)ぶ



【口語訳】  「訳詩: 倉石武四郎(歴代詩選)」

(其の一)
朝露(あさつゆ)の 人のいのちは ちりの世の ちりにまみれて
なげきこそ きそいあつまれ よろこびの 逢瀬(あうせ)たまさか

みやづかえ 勤めつれなく 吾妹子(わぎもこ)と 離れ住む身の
せめてもと 車やりしに からのまま 車はもどりぬ

きみ病むと 書かれし文(ふみ)に 飯(いひ)さへも 咽喉(のど)をとおらず
独り住む むなしき部屋に なぐさむる 人かげもなし

寝つかれぬ 夜は長くして 枕いだき 伏しまろぶ身の
うれひのみ いやつもりきて とりかたづけむ すべさえ知らに

(其の二)
善きことを 努め はげめば 神々の 見そなふといふ
ああわれら ふたりの運命(さだめ) おさなくて 人にすてらる 

夫婦(めおと)のちぎり 固めてのちも よろこびに ひたる日すくなく
いまはまた 遠き旅出(たびで)に 胸の思ひ いかにか述べむ

河(かは)広くして 渡るにすべなく 丘のありて きみが家みえず
道のべに 胸し いためば わが駒(こま)も 足ぶみすなる

白雲(しらくも)は 峯(みね)の秀(ほ)をゆき 秋風は 峡(はざま)をわたる
良き馬は 鞍(くら)をかえさず 軽(かろ)き車 轂(こしき)めぐらさず

身の愁(うれ)ひ つとめてわすれ 針薬(はりくすり) おこたるなゆめ
恩愛(おんあい)の 心かわらねど 男(おのこ)なれや 勤(つとめ)の義(すじ)のおもくして


(其の三)
しずしずと 車すすめば りんりんと 駒(こま)の鈴鳴る
朝はやき 門出のわれは 衣裳(いしゃう)ととのへ 夜明くるを待つ

ふりかへる 人なき部屋に おぼろなり きみがおもかげ
別れし日ゆ 恨(うら)みはながく かたときも 心しずまらず

せめてもの 思ひをこめて 品々を きみに贈らむ
このかざし 黒髪かざれ このかがみ おもわを映(うつ)せ

この香(かう)は 肌(はだ)きよくせむ この琴(こと)は さやけく鳴らむ
木瓜(ぼけ)に感じて 玉(ぎょく)おくれるぞ いにしえびとの ためしなりとか

わが品々は いと薄くして きみが情(なさけ)の 厚きにふさわしからず
さりながら わがむらぎもの まごころの しるしまでにこそ


(其の一)
【屯蹇】 tún jiǎn  (艰难困苦、不顺利)難儀、困難
【忧艰】 yōu jiān  (忧愁困苦)艱難や悲しみ
【欢会】 huān huì  (喜悦、欢乐)喜びや楽しみ
【苦】 kǔ  (非常)はなはだ(副詞)

【奉时】 fèng shí  (被派遣入京)都(朝廷)に出仕する。都に赴く役目が廻ってきた。
【子】  zǐ  妻を指す。自分が上京する前に、車を遣って妻を迎えるようとしたが来なかった。
【省书】 xǐng shū  妻からの手紙を読む

【凄怆】 qī chuàng  (悲伤)悲痛の極みだ。食事ものどを通らない。
【空房】 kōng fáng  妻のいない寝室
【劝勉】 quàn miǎn  (鼓励)励ます
【席】 xí  敷物。心は敷物でないから、巻いて片づけることは出来ない。

(其の二)
【皇灵】 huáng líng  (神灵)天帝
【无私亲】 wú sī qīn  私情やひいきが無い
【天禄】 tiān lù  (天赐之福)天からの恵み
【伤】 shāng  悲しむべきは

【少小】 shǎo xiǎo  (年轻)幼少の頃より
【罹】 lí  (遭遇)遭遇する
【茕独】 qióng dú  (孤独)離れ離れの孤独
【结大义】 jié dà yì  (结为婚姻)結婚する

【欢乐】 huān lè  幸福な日々
【叙款曲】 xù kuǎn qǔ  (说知心话)細やかな胸の内を語る
【中驾】 zhōng jià  (车在途中)道の途中で
【踯躅】 zhí zhú  (徘徊不进的样子)名残惜しさに立ち止まる

【针药】 zhēn yào  (治療のための)針や薬
【屡进】 lǚ jìn  何度も用いるべきだ
【愁思】 chóu sī  心中の憂い
【难为数】 nán wéi shù  耐えがたきことだ

【贞士】 zhēn shì  (言行一致,守志不移的人)貞操の士たる自分
【笃终始】 dǔ zhōng shǐ  (敦厚,忠实)終始一貫して篤実だ
【恩义】 ēn yì  (情谊)(夫である自分に対する)義理
【不可属】 bù kě shǔ  強制すべきでない


(其の三)
【仆夫】 pú fū  (赶车的人)召使いの馭者
【锵锵】 qiāng qiāng  (铃声)金属が触れ合う音
【扬和铃】 yáng hé líng  (系在车前横木上的铃叫和铃)馬車に付けた鈴が鳴り響く
【引迈】 yǐn mài  (启程)出発する

【束带】 shù dài  身支度を整え
【待鸡鸣】 dài jī míng  鶏の鳴きだすのを待つ
【遗思】 yí sī  思いのほどを贈り物として残し
【致款诚】 zhì kuǎn chéng  我が真心として伝えたい

【宝钗】 bǎo chāi   玉のかんざし
【明镜】 míng jìng  曇りのない鏡
【去垢秽】 qù gòu huì  体の穢れを取り除く
【素琴】 sù qín  (没有装饰的琴)白木の琴

【诗人】 shī rén    (詩経に登場する)古代の詩人
【感木瓜】 gǎn mù guā  贈られた木瓜の花に感じるところがあり
【答瑶琼】 dá yáo qióng  美玉をもってこれに応える

最古の詩集とされる「詩経」の衛風篇に「投我以木瓜 報之以瓊琚」
(我に投ずるに木瓜を以てす 之に報ゆるに美玉を以てす)という一節がある。

女性が思う男性に木瓜の果実を投げて求愛し、男性がこれに美玉で答えるという
古代の投果の習俗を詠んだものである。

【愧彼赠我厚】 kuì bǐ zèng wǒ hòu  手厚い贈り物に君の深い情けを感じる
【惭此往物轻】 cán cǐ wǎng wù qīng  自分の返礼がささやかなことを恥じる

【虽知未足报】 suī zhī wèi zú bào  自分の返礼は十分とは言えないが
【贵用叙我情】 guì yòng xù wǒ qíng  自分の一片の真心を伝えることが大切だ



秦嘉  qín jiā (しんか) 生年没不詳
後漢の詩人。字は士会(しかい)隴西郡(甘粛省)の人。

後漢の桓帝(かんてい 在位146~168年)の治世に郡の役人となり、後に会計主任として洛陽に赴いた。
その時、妻の徐淑(じょしゅく)が病気で、里の実家に帰っていた。
別れの言葉を交わすことができなかったため「婦(つま)に贈る詩」という詩を贈った。

洛陽で秦嘉は黄門郎(皇帝の側近)に遷任したが、その間も夫婦は詩を応酬して心を寄せ合った。
不幸にも秦嘉が病死すると、妻の徐淑はこれを悲しみ、喪に服して一生を終えたという。
この「婦に贈る詩」は、南北朝時代に編纂された詩集「玉台新詠」(ぎょくだいしんえい)に収められている。




(諸葛亮)


(出師表) (臥龍吟)


出师表 chū shī biǎo  (三国) 诸葛亮    

先帝创业未半而中道崩殂 xiān dì chuàng yè wèi bàn ér zhōng dào bēng cú
今天下三分益州疲弊 jīn tiān xià sān fēn yì zhōu pí bì
此诚危急存亡之秋也 cǐ chéng wēi jí cún wáng zhī qiū yě
然侍卫之臣不懈于内 rán shì wèi zhī chén bú xiè yú nèi
忠志之士忘身于外者 zhōng zhì zhī shì wàng shēn yú wài zhě
盖追先帝之殊遇欲报之于陛下也 gài zhuī xiān dì zhī shū yù yù bào zhī yú bì xià yě




【注 釈】

出師表(すいしのひょう)

先帝創業(さうげふ)未だ半ばならずして 中道に崩殂(ほうそ)せり

今 天下三分し益州は疲弊す
此れ誠に危急存亡の秋(とき)なり

然れども待衛(じえい)の臣 内に懈(おこた)らず
忠志の士、身を外に忘るるは
蓋(けだ)し先帝の殊遇(しゅぐう)を追ひ 之を陛下に報いんと欲すればなり


【口語訳】

先帝、王業を創(はじ)め給ひ、其の義、未だ半ば至らざる途上にて崩御し給へり

今や天下三国に分れ、其の内、我が益州は疲弊の様相に在り
此れ実に危急にして、容易ならざる時勢 之(こ)れあり

斯くの如き時節にも拘はらず、侍衛(じえい)の臣、宮中に相ひ励み居(を)り
忠義の武士(もののふ)、一身を忘れ、外に刻苦奮励致す所以(ゆゑん)は

誠に先帝の特段なる恩遇(おんぐう)に相ひ応へ、以つて陛下に報い奉らんと欲すればなり



【出师表】 chū shī biǎo    出師表(すいしのひょう)臣下が出陣する際に君主に奉る文書。

ここでは、蜀の丞相であった諸葛亮が、皇帝劉禅に奏上したものを指す。その内容は、魏から中原を奪回して
漢室を復興することが最終目的であり、そのために呉蜀同盟を固めるとともに、南は雲南に及ぶ地域の異民族を
平定して後方の不安を除いたのち、魏に対する北伐に全力を尽くすという、憂国忠誠の心を吐露した名文である。


【益州】 yì zhōu    益州(えきしゅう)。蜀漢の地。現在の四川省。
【侍卫】 shì wèi    側近の臣下。
【殊遇】 shū yù     格別の待遇。




卧龙吟  wò lóng yín   (三国) 诸葛亮      

束发读诗书 修德兼修身   shù fà dú shī shū xiū dé jiān xiū shēn
仰观与俯察 韬略胸中存   yǎng guān yǔ fǔ chá tāo lüè xiōng zhōng cún
躬耕从未忘忧国 谁知热血在山林   gōng gēng cóng wèi wàng yōu guó shéi zhī rè xiě zài shān lín
凤兮凤兮思高举 世乱时危久沉吟   fèng xī fèng xī sī gāo jǔ shì luàn shí wēi jiǔ chén yín
茅庐承三顾 促膝纵横论   máo lú chéng sān gù cù xī zòng héng lùn
半生遇知己 蛰人感兴甚   bàn shēng yù zhī jǐ zhí rén gǎn xìng shèn
明朝携剑随君去  扇纶巾赴征尘   míng cháo xié jiàn suí jūn qù yǔ shàn guān jīn fù zhēng chén
龙兮龙兮风云会 长啸一声抒怀襟   lóng xī lóng xī fēng yún huì cháng xiào yì shēng shū huái jīn
归去归去来兮 我夙愿  余年还做垅亩民  guī qù guī qù lái xī wǒ sù yuàn  yú nián hái zuò lǒng mǔ mín
清风明月入怀抱 猿鹤听我再抚琴   qīng fēng míng yuè rù huái bào yuán hè tīng wǒ zài fǔ qín




【口語訳】

束髪 (そくはつ) して史書を読み 徳と身を修 (おさ) む
仰ぎ また臥 (が) して 艱難辛苦し「韜略 (とうりゃく) 」 を始め 古今の兵法を学ぶ

手に鋤 (すき) を持ち 隴畝 (ろうほ) を耕せど 国を憂える心 忘れし事なし
誰知るや この山林の奥に 国を想う赤心の漢 (おとこ) ありしを

鳳凰よ 我が熱き想いを伝えよ 我が気高き孤高の志を
今 国乱れ 社稷 (しゃしょく) 危うく 詩を吟ずる事久しけれど


茅廬 (ほうろ) に三顧の礼を受け 胸襟 (きょうきん) を開き 膝を交えて 国を論ず
人生半ばにして 生涯の友に逢い 隠士の感慨深く 胸躍る

暁に剣を携 (たずさ) え 君とともに 輝く明日に旅立つ
羽扇 (うせん) をうち振り 綸巾 (りんきん) を翻し 王覇 (おうは) の征途に赴く

竜よ 風雲の空を翔 (か) けよ 一声高く鳴いて その広き心を 万民に知らせよ


今 この地を離れ また帰る これ我が変わらぬ願い 
この地に戻りて 再び 鋤 (すき) を手にする時 我が心に安らぎがかえる

清風 明月 変わらず 我を抱 (いだ) け
山の猿 里の鶴 胸ふくらませて 我が琴の音を待て



【卧龙吟】 wò lóng yín  臥龍吟 (がりょういん)

1994年に放映されたCCTVドラマ 「三国演義」 挿入歌。北京の作詞家、王建(1928~)の作。
劉備に三顧の礼を受け、故郷である臥龍岡(がりょうこう)を出立する諸葛亮の忠臣と愛国を称える歌である。

【韬略】 tāo lüè    中国古代の兵法書 「六韬」(りくとう)と 「三略」(さんりゃく)の合称。転じて兵法の極意。
【纶巾】 guān jīn    綸巾(りんきん) 絹の組みひもでつくった頭巾。
【夙愿】 sù yuàn    宿願。前々からの願い。




諸葛亮   zhū gě liàng   (しょかつりょう) (181~234年)
三国時代の蜀漢の丞相。字は孔明。山東省琅邪郡(ろうやぐん)陽都のひと。
蜀の劉備の知遇に感じてこれに仕え、天下三分の計をたて、劉備を国主とした。
劉備の死後はその子の劉禅をたすけ、魏と戦いつつ雲南までも出兵した。
その出征のとき奉った 「出師表」(すいしのひょう)は名文として名高い。のち魏軍と対陣中、五丈原で病死。




陳琳


饮马长城窟行 yǐn mǎ cháng chéng kū xíng (魏)陈琳  

饮马长城窟  水寒伤马骨   yǐn mǎ cháng chéng kū  shuǐ hán shāng mǎ gǔ
往谓长城吏  慎莫稽留太原卒   wǎng wèi cháng chéng lì  shèn mò jī liú tài yuán zú
官作自有程  谐汝声   guān zuò zì yǒu chéng  jǔ zhù xié rǔ shēng
男儿宁当格斗死  何能怫郁筑长城   nán ér níng dāng gé dòu sǐ  hé néng fú yù zhù cháng chéng
长城何连连  连连三千里   cháng chéng hé lián lián  lián lián sān qiān lǐ
边城多健少  内舍多寡妇   biān chéng duō jiàn shǎo  nèi shě duō guǎ fù
作书与内舍  便嫁莫留住   zuò shū yǔ nèi shě  biàn jià mò liú zhù
善侍新姑嫜  时时念我故夫子   shàn shì xīn gū zhāng  shí shí niàn wǒ gù fū zǐ
报书往边地  君今出语一何鄙   bào shū wǎng biān dì  jūn jīn chū yǔ yī hé bǐ
身在祸难中  何为稽留他家子  

shēn zài huò nán zhōng  hé wéi jī liú tā jiā zǐ

生男慎莫举  生女哺用脯   shēng nán shèn mò jǔ  shēng nǚ bǔ yòng pú
君独不见长城下  死人骸骨相撑拄  

jūn dú bú jiàn cháng chéng xià  sǐ rén hái gǔ xiāng chēng zhǔ

结发行事君  慊慊心意关   jié fā xíng shì jūn  qiàn qiàn xīn yì guān
明知边地苦  贱妾何能久自全  míng zhī biān dì kǔ  jiàn qiè hé néng jiǔ zì quán




【注 釈】

飲馬長城窟(いんばちゃうじゃういはや)の行(うた)

馬(うま)に飲(みずか)ふ 長城(ちゃうじゃう)の窟(いはや)
水(みづ)寒(さむ)くして馬骨(ばこつ)を傷(そこな)ふ
往(ゆ)きて長城(ちゃうじゃう)の吏(り)に謂(い)ふ
慎(つつし)みて太原(たいげん)の卒(そつ)を稽留(けいりう)する莫(な)かれ  

官作(くわんさく)自(おのづ)から程(てい)有(あ)り
築(ちく)を挙(あ)げ 汝(なんぢ)が声(こゑ)を諧(ととの)はしめよ
男児(だんじ)寧(むし)ろ 当(まさ)に格闘(かくとう)して死(し)すべし
何(なん)ぞ 能(よ)く怫鬱(ふつうつ)として長城(ちゃうじゃう)を築(きづ)かんや

長城(ちゃうじゃう) 何(なん)ぞ連連(れんれん)たる
連連(れんれん)として三千里(さんぜんり)
辺城(へんじゃう)健少(けんせう)多(おほ)く
内舎(ないしゃ)寡婦(くわふ)多(おほ)し


書(しょ)を作りて 內舍(ないしゃ)に與(あた)ふ
便(すなは)ち 嫁(とつ)ぎて留住(りうじゅう)する莫(な)かれ
善(よ)く新姑嫜(しんこしゃう)に侍(つか)へよ
時時(ときどき)念(おも)へ 我(われ)故(もと)の夫子(ふうし)を


報書(はうしょ)邊地(へんち)に往(ゆ)く
君(きみ)今(いま)語(かた)り出(い)づるや 一(いつ)に何ぞ鄙(いや)しき


身(み)禍難(くわなん)の中(うち)に在(あ)り
何爲(なんす)れぞ他家(たか)の子(こ)を 稽留(けいりう)せんや
男(だん)を生まば 慎(つつ)しみて舉(あ)ぐること莫(な)かれ
女(ぢょ)を生まば 哺(はぐく)むに脯(ほ)を用(もち)ゐよ
君(きみ)獨(ひと)り見(み)ずや 長城(ちゃうじゃう)の下(もと)
死人(しびと)の骸骨(しかばね)相(あ)ひ撐拄(たうちゅ)するを


結髮(けつばつ)行(ゆ)きて君(きみ)に事(つか)ふ
慊慊(けんけん)心意(しんい)關(くわん)す
明(あきらか)に知る 邊地(へんち)の苦(くる)しきを
賤妾(せんせふ)何(なん)ぞ 能(よ)く久(ひさ)しく自(みづか)ら全(まった)からんや


【口語訳】

馬に長城の泉の水を飲ませると、その水の冷たさに馬の骨も凍(こご)えるようだ。

人足の一人が、監督の役人に願い出る。
「太原から来た人足たちを期日どおり帰してやってくれ。」
すると役人が言う。
「お上の仕事には工程が決められているのだ。文句を言わず、築城の仕事に精を出せ!」

人足は憤懣(ふんまん)やるかたなく言う。
「男たるもの、戦で死ぬならまだしも、どうして鬱々(うつうつ)と長城など築かねばならぬのか。」


長城はどこまでもはてしなく続き、三千里の長きに及んでいる。
この辺境の地に駆り出される若者は数多く、郷里の留守宅にはやもめが多い。

征夫は手紙を妻に送る。「我が家にとどまることなかれ。再婚せよ。
新たな嫁ぎ先の舅姑(しゅうと)によく仕え、時おり私のことも思い出してくれ。」


征夫への返事が妻から届く。「貴方は私に再婚しろなどと、何と賤(いや)しい事をおっしゃるのか。」


征夫は又、手紙で妻に伝える。「わが身は今、艱難の最中にある。どうして人の子(自分の妻)を、
いつまでも引き留めておけようか。早く他所(よそ)に嫁げ。

男児が生まれたら、取り上げるを慎め。女児を生んだら、乳を与え大切に育てよ。
お前にこの長城の下が見えるか。死者の屍が互いを支えるように重なり合っているのだ。
男なんぞは生むだけ無駄だ。」


妻は又、返事の手紙で言う。
「髪を結った頃よりこのかた貴方にお仕えし、満ちたりた生を過ごし、今日までまいりました。
さいはての地におられる貴方の苦労は、重々承知しておりまする。
どうしてわが身のみ、生命(いのち)ながらえてゆけましょうぞ。」


【饮马长城窟行】 yǐn mǎ cháng chéng kū xíng   飲馬長城窟行(いんばちょうじょうくっこう)

長城の石窟で馬に水をやる行(うた)の意。秦の始皇帝の時代、万里の長城に徴用された人足たちが、
馬に水をやりながら、遠い故郷の妻を思う、というところから楽府の題名となった。
本作は、彼らと故郷の妻とが、互いに手紙をやりとりして、長城労役の苦しみを述べたもの。

【长城窟】 cháng chéng kū  長城の岩屋。
万里の長城には、その下に、所々に泉のわきでる岩屋があった。

【慎莫】 shèn mò  (千万不要)くれぐれも~なかれ
【稽留】 jī liú  (延长服役期限)労役に服する期限を延長する
【太原】 tài yuán  太原(山西省)秦の郡名。征夫の郷里。
【官作】 guān zuò  (官府的工程)お上の工事

【程】 chéng  (期限)工事の期限
【筑】 zhù  (夯类等筑土工具)土を固めるのに用いる杵(きね)
【谐汝声】 xié rǔ shēng  (喊齐你们打夯的号子)掛け声を揃えて(仕事に励む)
【怫郁】 fú yù  (烦闷,憋着气)気が塞ぐ

【健少】 jiàn shǎo  (健壮的年轻人)壮健な若者
【内舍】 nèi shě  (戍卒的家中)妻のいる郷里
【姑嫜】 gū zhāng  (婆婆和公公)舅と姑
【报书】 bào shū  (回信)妻の返信

【他家子】 tā jiā zǐ  (人家女子,这里指自己的妻子)人の子(ここでは自分の妻)
【哺】 bǔ  (喂养)噛む(食べさせるの意)
【脯】 pú  (干肉,腊肉)ほした肉

【撑拄】 chēng zhǔ  (支架)支える(骸骨相互撑拄,可见死人之多)
骸骨は互いに支え合うように重なって、死人の数がわかる。

【结发】 jié fà  (指十五岁,古时女子十五岁开始用笄结发,表示成年)
当時、女は十五にして成人し髪を結った。

【事】 shì  (侍奉)仕える
【慊慊】 qiàn qiàn  (满意)心満ち足りる
【心意关】 xīn yì guān  「关」は、つなぎ留める。気持ちがつながっている。
【自全】 zì quán  (独自活着)独りで生きている



陳琳 chén lín (ちんりん) (未詳~217年)
魏の詩人。字は孔璋(こうしょう)徐州広陵郡 (江蘇省) の人。
袁紹に仕えていたが、官渡の戦い(200年)で袁紹が敗れると、曹操に仕官した。

文才に恵まれていたので曹操の参謀として重用され、檄 (げき) 文の起草など宣撫工作を任された。
その詩は、力強く感情豊かに詠う作風が特徴であり、とりわけ万里の長城に徴用されていった夫と、
故郷の妻とが手紙をやり取りして、長城労役の苦しみを綴った楽府詩「飲馬長城窟行」は古来有名。




(王粲)


七哀诗  qī āi shī (魏) 王粲  

西京乱无象 豺虎方遘患   xī jīng luàn wú xiàng chái hǔ fāng gòu huàn
复弃中国去 远身适荆蛮   fù qì zhōng guó qù yuǎn shēn shì jīng mán
亲戚对我悲 朋友相追攀   qīn qī duì wǒ bēi péng you xiāng zhuī pān
出门无所见 白骨蔽平原   chū mén wú suǒ jiàn bái gǔ bì píng yuán
路有饥妇人 抱子弃草间   lù yǒu jī fù rén bào zǐ qì cǎo jiān
顾闻号泣声 挥涕独不还   gù wén hào qì shēng huī tì dú bù huán
未知身死处 何能两相完   wèi zhī shēn sǐ chǔ hé néng liǎng xiāng wán
驱马弃之去 不忍听此言   qū mǎ qì zhī qù bù rěn tīng cǐ yán
南登霸陵岸 回首望长安   nán dēng bà líng àn huí shǒu wàng cháng ān
悟彼下泉人 喟然伤心肝  

wù bǐ xià quán rén kuì rán shāng xīn gān




【注 釈】

七哀詩(しちあいし) 

西京(せいきゃう)乱(みだ)れて 象(かたち)無く  豺虎(さいこ)方(まさ)に 患(わざは)ひを遘(かま)ふ
復(ま)た中国(なかつくに)棄(す)てて去(さ)り  身(み)を遠(とほ)さけて 荊蛮(けいばん)に適(ゆ)く

親戚(はらから)我(われ)に対(たい)して悲(かな)しみ  朋友(ほういう)相(あ)ひ 追攀(ついはん)す
門(もん)を出(い)づるも 見(み)る所(ところ)無(な)く  白骨(はっこつ)平原(へいげん)を 蔽(おほ)ふ

路(みち)に飢(う)えたる婦人(ふじん)有(あ)り  子(こ)を抱(いだ)きて 草間(さうかん)に 棄(す)つ
顧(かへり)みて号泣(がうきう)の声(こえ)を聞(き)くも  涕(なみだ)を揮(ふる)ひて 獨(ひと)り 還(かへ)らず

未(いま)だ身(み)の死する処(ところ)を知(し)らず  何(なん)ぞ能(よ)く両(ふた)つながら 相(あ)ひ完(まった)からん

馬(うま)を駆(か)りて 之(これ)を棄(す)てて去(さ)る  此(こ)の言(げん)を聴(き)くに忍(しの)びず

南(みなみ)のかた 霸陵(はりょう)の岸(きし)に登(のぼ)り  首(かうべ)を迴(めぐら)して 長安(ちゃうあん)を望(のぞ)む
彼(か)の 下泉(かせん)の人(ひと)を悟(さと)り  喟然(きぜん)として 心肝(しんかん)を傷(いた)ましむ



【口語訳】  「訳詩: 倉石武四郎(歴代詩選)」

みやこべは 麻(あさ)とみだれ 虎(とら)のむれ 時(とき)を得顔(えがお)
なかつくに のぞみたつ我(あ) 夷(えびす)すむ 鄙(ひな)ににげむ

はらからは わかれおしみ ともびとも ながえを攀(よ)ず
しろのそと ひとかげたえ されこうべ 野にみちみつ

みちのべに 飢(う)ゑしおみな いだく児(こ)を くさまに捨つ 
叫(おら)ぶ児(こ)を ふりかえりつつ あしはやめ なみだの号(がう) 

あすしらぬ いのちなれば 汝(な)とともに いくるかたし

このこえを われききえで むちあげつ ひたはしれる

みんなみの ふるきつかに のぼりたち みやこのぞむ
泉(いづみ)の人(ひと) ふるきうたを まこと我(あ)も なげきすさむ



【七哀诗】 qī āi shī    七哀詩(しちあいし)七つの哀しみを詠う詩の意。

董卓の乱(189年)の頃、作者は戦乱の長安を後にして、劉表をたよって、荊州(湖北省)に向かう途中の
見聞を述べたもの。白骨が平原を蔽い、民衆は飢餓に苦しむという、後漢末の悲惨な状況が写実的に描かれる。

【西京】 xī jīng  西京(長安)東京(洛陽)に対していう。
【豺虎】 chái hǔ  山犬と虎。ろくでもない者のたとえ。
【遘患】 gòu huàn  (制造叛乱)反乱を起こす

【中国】 zhōng guó (京师)国都(ここでは長安を指す)作者・王粲は、
 黄巾の乱(184年)に始まる後漢末の動乱に巻き込まれ、長安から南方の荊州(湖北省)に逃れた。

【荆蛮】 jīng mán  荊州。現在の湖北省一帯。
黄河中流域の中原地区(河南省)から見ると南方は野蛮な地方であった。 

【追攀】 zhuī pān  (依依不舍的攀车相送)追いすがりひきとどめる。 
【霸陵】 bà líng  霸陵(はりょう)前漢の文帝の陵。陝西省西安市。
【下泉】 xià quán  詩題。「詩経」に「下泉」という当時の乱を嘆き、優れた君主の出現を願う詩がある。

【喟然】 kuì rán  (叹息)嘆息する。
【心肝】 xīn gān  (心中)心の中。


王粲 wáng càn(おうさん)(177~217年)
魏の詩人。字は仲宣(ちゅうせん)山陽郡(山東省)の人。
193年、17歳のとき荊州(湖北省)の劉表に仕えたが、208年、劉表の病死後は、魏の曹操に仕えた。

博学で文章に長けていたため、曹操が儀礼制度を作る際には必ず王粲に任せたという。
魏の法令制度の整備に尽力したが、最後は曹操に従って呉との戦いに行く途中、病没した。
その詩文は悲哀に満ちた美しい作品が多く、とくに「七哀詩」は、当時の社会情況をも反映する彼の代表作となった。




(曹操)


短歌行 duǎn gē xíng (魏)  曹操   

对酒当歌 人生几何   duì jiǔ dāng gē rén shēng jǐ hé
譬如朝露 去日苦多   pì rú zhāo lù qù rì kǔ duō
慨当以慷 忧思难忘   kǎi dāng yǐ kāng yōu sī nán wàng
何以解忧 唯有杜康   hé yǐ jiě yōu wéi yǒu dù kāng
青青子衿 悠悠我心   qīng qīng zǐ jīn yōu yōu wǒ xīn
但为君故 沉吟至今   dàn wèi jūn gù chén yín zhì jīn
呦呦鹿鸣 食野之苹   yōu yōu lù míng shí yě zhī pín
我有嘉宾 鼓瑟吹笙   wǒ yǒu jiā bīn gǔ sè chuī shēng
明明如月 何时可掇   míng míng rú yuè hé shí kě duō
忧从中来 不可断绝   yōu cóng zhōng lái bù kě duàn jué
越陌度阡 枉用相存   yuè mò dù qiān wǎng yòng xiāng cún
契阔谈宴 心念旧恩   qì kuò tán yàn xīn niàn jiù ēn
月明星稀 乌鹊南飞   yuè míng xīng xī wū què nán fēi
绕树三匝 何枝可依   rào shù sān zā hé zhī kě yī
山不厌高 海不厌深   shān bú yàn gāo hǎi bú yàn shēn
周公吐哺 天下归心   zhōu gōng tǔ bǔ tiān xià guī xīn



   
【注 釈】

短歌行(たんかかう)

酒に対しては 当(まさ)に 歌ふべし 人生 幾何(いくばく)ぞ
譬(たと)へば 朝露(てうろ)の如く 去日(こじつ)苦(はなは)だ 多し

慨(がい)して 当(まさ)に 以(もつ)て 慷(かう)すべきも 憂思(いうし)忘れ難(かた)し
何を以(もつ)てか 憂(うれ)ひを 解かん 唯(ただ)杜康(とかう)の 有るのみ

青青(せいせい)たる 子(きみ)が衿(えり) 悠悠(いういう)たる 我が心
但(ただ)君が為(た)め 故(ゆゑ) 沈吟(ちんぎん)して 今に至る
呦呦(ゆうゆう)として 鹿鳴き 野の苹(よもぎ)を 食(くら)ふ

我に 嘉賓(かひん)有り 瑟(しつ)を鼓(こ)し 笙(しゃう)を吹かむ
明明(めいめい)たること 月の如きも 何(いづ)れの時にか 輟(と)る可(べ)けんや
憂(うれ)ひは 中(うち)従(よ)り来たりて 断絶(だんぜつ)す可(べ)からず

陌(みち)を 越え 阡(みち)を 度(わた)り 枉(ま)げて 用(もつ)て 相存(そん)す
契闊(けつかつ) 談讌(だんえん)して 心に 旧恩(きうおん)を 念(おも)はむ

月明るく 星稀(まれ)にして 烏鵲(うじゃく)南に飛ぶ
樹を 繞(めぐ)ること 三匝(さんさふ)何(いづ)れの枝にか 依(よ)る可(べ)き

山高きを 厭(いと)はず 水深きを 厭(いと)はず
周公(しうこう)哺(ほ)を 吐きて 天下 心を 帰(き)せり


【口語訳】 「訳詩: 伊藤正文(漢魏六朝詩集)」

酒は飲むべし 歌うべし 人の生命(いのち)は 果(はか)なきものよ
朝露(あさつゆ)の似(ごと)き この生命(いのち) 過ぎゆく日々は 徒(あだ)なりき
高ぶる心 歌に託すも 苦しき想ひ 消えやらず
この憂(うれ)ひ 如何に解くべき 杜康(さけ)よりほかに 何かある

青き衿(えり)つけたる人よ  ひたぶるに 慕(した)ふは わが心
君をしも 求めんと 沈吟(いのり)つつ 今に至りぬ
鹿は鳴きて 友を呼び 仲むつまじく よもぎ喰(は)む

我にも良き 客人(まろうど)あり いざや瑟(こと)ひき 笙(ふえ)吹かむ
明るきは かの月か されど その光 掬(すく)う術(すべ)なく
憂愁(うれひ)のみ 胸底(むなそこ)よりわき しばしだに やむ時の なきぞ悲しき

もろもろに 道たづね はろばろと 良き客(ひと)の 来たりなば
心くだきて 酒席(ざしき)しつらえ つもる話に 旧情(よしみ)をば 温めん

月さやかにして 星暗く 鳥鵲(かささぎ)は 南に翔(か)ける
樹をめぐること 三度(みたび)なるも 依るべき枝の 絶へてなし

土塊(つちくれ)拒(こば)まずして 山高く 流る水 厭(いと)はずして 海深し
口中(こうな)の食(じき)吐(は)きしは かの周公(しうこう)
世に慕(した)はるるも むべなれや


【短歌行】 duǎn gē xíng     短歌行(たんかこう)。楽府題(がふだい)。民謡の名のひとつ  ※01

優れた人材を集め、為政者としての事業を達成したいとの、曹操の積極的な意思を詠っている。
とりわけ「月明るく 星稀(まれ)にして 烏鵲(うじゃく)南に飛ぶ」の一節は、蘇軾の「赤壁の賦」
の中でも引用されており、曹操の代表的な句として知られる。

【去日苦多】 qù rì kǔ duō     何ら成果を挙げぬまま、月日が虚しく過ぎ去った
【慨当以慷】 kǎi dāng yǐ kāng     これを思えば、もとより嘆き憤らずにはおれぬ。「当以」は強調。まことに以て
【青青子衿】 qīng qīng zǐ jīn     知略に長けたすぐれた若者
【何时可掇】 hé shí kě duō     その人材は何時になったら獲得できるのか
【契阔谈宴】 qì kuò tán yàn     固く交わりを結び談笑して酒宴を催す
【何枝可依】 hé zhī kě yī     すぐれた人材もまた名君を探し求めている
【周公吐哺】 zhōu gōng tǔ bǔ◦     周公(文王の子)は、来客があれば食事も中断して、天下の賢人を求めたのだ

※01 楽府題(がふだい)とは、漢代に伝わる民謡の題名であり、その題にあわせてうたわれる歌詞は、楽府(がふ)と呼ばれる。
漢代以降、その民謡自体は次第に失われ、題名だけが知られており、その残された題にあわせて、詩人たちは楽府を作ったのである。



曹操  cáo cāo    (そうそう)  (155~220年)
魏の武帝。字は孟徳(もうとく)安徽省亳州(はくしゅう)の人。
後漢に仕えて184年、黄巾(こうきん)の乱を平定、政敵の袁紹(えんしょう)を滅ぼし、華北を統一。
しかし208年、赤壁(せきへき)の戦に敗れ、長江以南へ進出できず、呉の孫権、蜀の劉備とともに三国分立の形勢となった。
博学多才で詩や書をよくした。また権謀に富み、兵書や兵法に精通するなど、文武両面に優れていた。