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    漢詩百選

【唐詩六】  
杜甫  李白   王維   駱賓王 陳子昂 王昌齢 孟郊 劉禹錫  曹松 崔顥  寒山  


(杜甫)

(登高) (月夜) (八仙歌)   (絶句漫興四)   (前出塞)


登高 dēng gāo   (唐) 杜甫    

风急天高猿啸哀 渚清沙白鸟飞回 fēng jí tiān gāo yuán xiào āi zhǔ qīng shā bái niǎo fēi huí
无边落木萧萧下 不尽长江滚滚来 wú biān luò mù xiāo xiāo xià bú jìn cháng jiāng gǔn gǔn lái
万里悲秋常作客 百年多病独登台 wàn lǐ bēi qiū cháng zuò kè bǎi nián duō bìng dú dēng tái
艰难苦恨繁霜鬓 潦倒新停浊酒杯 jiān nán kǔ hèn fán shuāng bìn liáo dǎo xīn tíng zhuó jiǔ bēi



【注 釈】

高きに登る

風 急に 天 高くして 猿 嘯(ゑんせう)哀(かな)し
渚(なぎさ) 清く 沙(すな) 白くして 鳥 飛び廻(めぐ)る
無辺(むへん)の落木 蕭蕭(せうせう)として 下(くだ)り
不尽(ふじん)の長江 滾滾(こんこん)として 来(きた)る
万里(ばんり) 悲秋(ひしう) 常に 客(かく)と作(な)り
百年 多病 独(ひと)り 台(だい)に登る
艱難(かんなん)苦(はなは)だ 恨む 繁霜(はんさう)の鬢(びん)
潦倒(らうたう)新たに停(とど)む 濁酒(だくしゅ)の杯


【口語訳】

吹く風冴えて天高く 猿の啼く声うらがなし
渚(なぎさ)は清く 砂白く はるかに鳥の翔ける見ゆ
落葉(おちば)の音は降りしきり 永久(とわ)につきざる長江の
水は悠々流れたり

めぐる宿世(すくせ)か 年ごとに 秋や旅なるこの愁ひ
菊酒(きくしゅ)の台に登れども 多年(せきねん)病み来しわれの身は
人の浮世のうらめしく 辛苦に霜の数(かず)そひて
年老い果てし 今はかの 獨酒(にごり)の杯もとどめてむ


【登高】 dēng gāo      重陽の節句に高台に登り酒に菊の花びらを浮かべて飲む風習

767年、杜甫56歳の作。李白など親友は相次いで亡くなり、その悲しみを酒で紛らわそうにも、病のために
飲めなくなってしまった。重陽の節句を迎え、高台に登り、悲痛きわまりない自らの心境を詠い上げたもの。

【作客】 zuò kè     さすらう旅人
【潦倒】 liáo dǎo      落ちぶれる(老衰する)




月夜 yuè yè   (唐) 杜甫    

今夜鄜州月 闺中只独看 jīn yè fū zhōu yuè guī zhōng zhǐ dú kàn
遥怜小儿女 未解忆长安 yáo lián xiǎo ér nǚ wèi jiě yì cháng ān
香雾云鬟湿 清辉玉臂寒 xiāng wù yún huán shī qīng huī yù bì hán
何时倚虚幌 双照泪痕干 hé shí yǐ xū huǎng shuāng zhào lèi hén gàn




【注 釈】

月夜(げつや)

今夜 鄜州(ふしう)の月
閨中(けいちゅう)只(ただ)独(ひと)り看(み)るらん
遥(はる)かに憐(あは)れむ 小児女(せうじぢょ)の
未(いま)だ 長安を 憶(おも)ふを 解(かい)せざるを
香霧(かうむ)雲髪(うんくわん)湿(うるほ)ひ
清輝(せいき)玉臂(ぎょくひ)寒からん
何(いづ)れの時か 虚幌(きょくわう)に倚(よ)り
双(なら)び 照らされて 涙痕(るゐこん)乾(かわ)かん


【口語訳】

今宵鄜州(ふしう)に照る月を さみしく孤り眺むらん
いとし懐かし妻や子の いまだに遠く恋ひわびて
思ひをわれに馳(は)するらん

窓辺に霧のたち添ひて その黒髪をぬらすらん
冴えにぞ冴ゆる月影は 玉の肌を透(すか)すらん

憂きにやせたるこの父の いつまた君と居ならびて
窓辺に月をながめつつ 涙の痕(あと)の乾くらん


【鄜州】 fū zhōu     陝西省富県
【虚幌】 xū huǎng     窓の覆い布

756年、杜甫45歳の作。安史の乱のなか、その賊軍の手で長安に幽閉されていた作者が、
おりからの満月を見て、北方の疎開先に入る妻子のことを思い、詠ったもの。




饮中八仙歌   yǐn zhōng bā xiān gē  (唐) 杜甫    

知章骑马似乘船    zhī zhāng qí mǎ sì chéng chuán 
眼花落井水底眠    yǎn huā luò jǐng shuǐ dǐ mián 
李白一斗诗百篇 lǐ bái yī dòu shī bǎi piān
长安市上酒家眠 cháng ān shì shàng jiǔ jiā mián
天子呼来不上船 tiān zǐ hū lái bù shàng chuán
自称臣是酒中仙 zì chēng chén shì jiǔ zhōng xiān



【注 釈】

飲中八仙歌(いんちゅうはっせんか) 

知章(ちしゃう)が 馬に騎(の)るは 船に乗るに似たり
眼花(がんくわ)井(ゐ)に落ちて 水底(すいてい)に眠る

李白(りはく)一斗(いっと) 詩(し)百篇(ひゃくへん)   
長安(ちゃうあん)市上(しじゃう)酒家(しゅか)に眠る

天子(てんし)呼び来たれども 船(ふね)に上(のぼ)らず
自(みづか)ら称(しょう)す 臣(しん)は 是(こ)れ 酒中の仙(せん)と


【口語訳】

賀知章(がちしょう)の 酔ひて馬乗るその様(さま)は 尻がすわらず 船乗る如し
目はうつろ 井戸に落ちても 気が付かず 水の底にて 眠り居たりぬ

李白に至りては 飲めば飲むほど 詩を多々つらね 何と一斗飲む間に 詩を百篇
飲むにも処を選ばず 長安の市中の酒屋にて 酔うて眠りて居たることあり

舟遊びのおり 玄宗が 李白を御召しになりしに 泥酔せる李白は 舟に上ることを得ざりしが
さても平然と みづから臣は 酒中の仙人なれば 不都合は御許し下されたし と言へり


【饮中八仙歌】 飲中八仙歌(いんちゅうはっせんか)酒好きの八仙人のうた

746年、杜甫34歳の作。飲酒で名の知られた八人を取り上げ、それぞれの飲みっぷりを描き分けて詠う。
この二年前の744年夏、43歳の李白と洛陽で出会い意気投合、ともに旅をするなど親交を深めている。




绝句漫兴九首其四  jué jù màn xìng jiǔ shǒu (唐) 杜甫    

二月已破三月来 èr yuè yǐ pò sān yuè lái
渐老逢春能几回 jiàn lǎo féng chūn néng jǐ huí
莫思身外无穷事 mò sī shēn wài wú qióng shì
且尽生前有限杯 qiě jìn shēng qián yǒu xiàn bēi



【注 釈】

絶句漫興九首其四(ぜっくまんきょうきうしゅ そのよん)

二月已(すで)に破(やぶ)れて三月来る
漸(やうや)く老いゆきて 春に逢ふこと 能(よ)く幾回ぞ
思ふ莫(な)かれ 身外(しんがい)無窮(むきゅう)の事
且(しば)し尽くせ 生前(せいぜん)有限(いうげん)の杯(さかづき)


【口語訳】  「訳詩: 土岐善麿(鶯の卵)」

きさらぎ去れば やよひなり
老いてゆくたび 逢ふ春ぞ
ただ身ひとつを おもいつつ
いのちのかぎり 酒くまん


【绝句漫兴】 jué jù màn xìng    興趣に任せて即興に詠んだ絶句

761年。杜甫49歳の作。二月が過ぎ去り、弥生の三月となった。
自分はもう若くない、あと何回春が迎えられるか、考えると心もとない。
今のうちに飲めるだけ飲んでおこう、というやはり飲兵衛の口実を詠ったもの。

【无穷事】 wú qióng shì  (自分のこと以外の)世の諸々の煩わしい事




前出塞 qián chū sài 九首其六  (唐) 杜甫    

挽弓当挽强  用箭当用长 wǎn gōng dāng wǎn qiáng  yòng jiàn dāng yòng cháng
射人先射马  擒贼先擒王 shè rén xiān shè mǎ  qín zéi xiān qín wáng
杀人亦有限  列国自有疆

shā rén yì yǒu xiàn  liè guó zì yǒu jiāng

苟能制侵陵  岂在多杀伤

gǒu néng zhì qīn líng  qǐ zài duō shā shāng 



【注 釈】

前出塞(ぜんしゅっさい)

弓を挽(ひ)かば 当(まさ)に強き弓を挽(ひ)くべし
箭(や)を用(もち)ひば 当(まさ)に長き箭(や)を用(もち)うべし
人を射(い)ば 先ず馬を射(い)よ
敵を擒(とりこ)にせんとすれば 先ず王を檎(とりこ)にせよ

人を殺すも 亦(ま)た限り有り
国を立つるにも 自(おのづか)ら疆(くにざかい)有り
苟(いやしく)も能(よ)く侵陵(しんりょう)を制すれば
豈(あ)に 多く殺傷(さっしゃう)するに在らんや


【前出塞】 qián chū sài  砦を出て戦う

九首連作の第六作。当初の題は「出塞」だったが、後に同じ題の詩をさらに五首つくったため
それぞれ「前出塞(ぜんしゅっさい)」「後出塞(こうしゅっさい)」として区別した。

事に当たる時には、まずその肝要な部分をしっかり押さえるべきことの喩えを示すとともに、
大事なのは、敵兵を多く殺傷することでなく、国土を守る点にあることを強調している。

【挽强】 wǎn qiáng  強い弓を引く。「强」は、強弓(ごうきゅう)
【自有疆】 zì yǒu jiāng  自ずから国境というものがある

【苟能制侵陵】 gǒu néng zhì qīn líng  敵国からの侵略をしのげればそれでよい
苟は、限定(さえすればよい)能は、可能(できる)

【岂在多杀伤】 qǐ zài duō shā shāng  敵を多く殺傷することが目的ではない
岂は、反語(どうして~することがあろうか)



杜甫 dù fǔ (とほ)  (712~770年)
盛唐の詩人。字は子美(しび)河南省鄭州(ていしゅう)の人。
科挙に及第せず、長安で憂苦するうちに安禄山の乱に遭遇し賊軍に捕らわれる。

脱出後、仕官したが、左遷されたため官を捨て、以後家族を連れて各地を放浪し、湖南で病没。享年五十九才。
国を憂い、民の苦しみを詠じた多数の名詩を残し、後世「詩聖」と称される。
著作に詩集「杜工部(とこうぶ)集」(二十巻)




(李白)

(送友人) (月下独酌) (山中問答) (独坐敬亭山) (哭晁卿衡)  

(遊洞庭湖)   (塞下曲五)  (望天門山)


送友人  sòng yǒu rén   (唐) 李白    

青山横北郭 白水绕东城 qīng shān héng běi guō bái shuǐ rào dōng chéng
此地一为别 孤蓬万里征 cǐ dì yí wèi bié gū péng wàn lǐ zhēng
浮云游子意 落日故人情 fú yún yóu zǐ yì luò rì gù rén qíng
挥手自兹去 萧萧班马鸣 huī shǒu zì zī qù xiāo xiāo bān mǎ míng




【注 釈】

友人(いうじん)を送る

青山(せいざん)北郭(ほくくわく)に 橫たはり
白水(はくすい)東城(とうじゃう)を 遶(めぐ)る
此地 一たび 別れを 為(な)し  孤蓬(こほう)万里に 征(ゆ)く
浮雲(ふうん)遊子(いうし)の意 落日(らくじつ)故人(こじん)の情
手を 揮(ふる)ひて 茲(ここ)より 去れば
蕭蕭(せうせう)として 班馬(はんば)鳴く


【口語訳】

青き山 北の郭(くるわ)に横たわり
白き水 城の東を ゆき廻(めぐ)る
はろばろと 旅ゆく君は 風に飛ぶ 蓬(よもぎ)の如く 
漂泊(へうはく)の 万里の彼方に 往(ゆ)かるなり

漂う雲は さぞなげに 君の想ひに 沁(し)みこまむ
佇(たた)ずみて 見送るわれぞ 入日なす 
別離(わかれ)の情に たへがたく
手をふりて 去りゆく君が 乗る駒の 声さへさみしき


【孤蓬】 gū péng     ヨモギの風に翻るが如く
【游子意】 yóu zǐ yì     (漂う雲は)旅立つ君の心
【故人情】 gù rén qíng     自分は落日を見る思い
【班马】 bān mǎ     離れていく馬

友人の旅に出かけるのを送別して詠ったもの。送られる友の心情を「浮雲」
送る李白を「落日」という実景を借りて惜別の思いを演出している。




月下独酌  yuè xià dú zhuó   (唐) 李白    

天若不爱酒 酒星不在天 tiān ruò bù ài jiǔ jiǔ xīng bù zài tiān
地若不爱酒 地应无酒泉 dì ruò bù ài jiǔ dì yìng wú jiǔ quán
天地既爱酒 爱酒不愧天 tiān dì jì ài jiǔ ài jiǔ bú kuì tiān
已闻清比圣 复道浊如贤 yǐ wén qīng bǐ shèng fù dào zhuó rú xián
贤圣既已饮 何必求神仙 xián shèng jì yǐ yǐn hé bì qiú shén xiān
三杯通大道 一斗合自然 sān bēi tōng dà dào yì dòu hé zì rán
但得酒中趣 勿为醒者传 dàn dé jiǔ zhōng qù wù wèi xǐng zhě chuán




【注 釈】

月の下(もと)で独り酒を酌(く)む

天 若(も)し  酒を愛さざれば  酒星(しゅせい)は 天に在(あ)らじ
地 若(も)し  酒を愛さざれば  酒泉(しゅせん)は 地に無かるべし
天地(あめつち)既(すで)に 酒を愛す 酒を愛して 天に愧(は)ぢず

已(すで)に聞く 清(せい)は 聖(せい)に比(ひ)し
復(ま)た道(い)ふ 濁(だく)は 賢(けん)の如(ごと)しと
聖賢(せいけん)すでに飲む 何ぞ必ずしも 神仙(しんせん)を求めん

三盃(さんばい)大道(たいどう)に 通じ   一斗(いつと)自然に合(がつ)す
但(ただ)酒中(しゅちう)の 趣(おもむき)を得んのみ
醒者(せいじゃ)の為に 伝(つた)ふること勿(な)かれ


【口語訳】  「訳詩: 日夏耿之介(唐山感情集)」

天もし 酒を愛(め)でざらば 酒星(しゅせい)は 天にあるまじを
地とて 酒を愛(め)でずんば 酒泉(しゅせん)の土地とて よもあらじ
あめつち 酒を愛(め)づるゆえ われも 酒もて 愧(は)ぢることなし

清酒(すみき)は聖(ひぢり)に比(くら)ぶとや 独酒(にごり)は賢(けん)のごとかりと
聖賢(せいけん)すでに飲むべかり いかでや仙(せん)を求むべき

三杯(さんはい)道にいたるべく 一斗(いつと)自然に合(かな)ひてむ
ただに 酒の妙味(めうみ)こそ 下戸(げこ)には知らすまじぞとよ


【酒星】 jiǔ xīng     星座の名
【酒泉】 jiǔ quán     地名。甘粛省酒泉県
【贤圣】 xián shèng     曹操が禁酒令を出したが、人々は濁り酒は「賢人」、清酒は「聖人」と隠語で呼び酒を飲んだ

連作四首の第二首。李白44歳の作。酒を飲むことの正当性を大真面目に展開している。
なお「詩仙」と言われた李白だが、杜甫は李白を「酒仙」と呼んでいる(飲中八仙歌)




山中問答  shān zhōng wèn dá  (唐) 李白    

問余何意棲碧山 wèn yú hé yì qī bì shān
笑而不答心自閑 xiào ér bù dá xīn zì xián
桃花流水杳然去 táo huā liú shuǐ yǎo rán qù
別有天地非人間 bié yǒu tiān dì fēi rén jiān




【注 釈】

山中問答(さんちゅうもんだふ)

余に問ふ 何の意ありてか 碧山(へきざん)に棲(す)むと
笑ひて答へず 心(こころ)自(おのづか)ら閑(かん)なり
桃花(たうくわ)流水(りうすい)杳然(えうぜん)として去る
別に天地(てんち)の人間(じんかん)に非(あら)ざる有り


【口語訳】

人ありて余に問ふ 
汝(なんぢ)如何なる意を以(も)て 深山(みやま)の奥に住みたるや
余は笑ひて答へず 
ただ自(おのづか)ら 長閑(のどか)なりや 我が心
流れゆく 桃の花びら 水はるか 
俗人(ただびと)の 知るなき秘(ひ)めの 天地(あめつち)ぞ


【桃花流水】 táo huā liú shuǐ   桃花が流れる水に散る。陶潜「桃花源記」に基づく句で「理想郷」の意
【杳然】 yǎo rán  はるかに遠いさま
【別有天地】 bié yǒu tiān dì  別世界。理想郷
【人間】 rén jiān  俗世間

李白53歳の作。問答体を用いて、悠然とした人生観を詠う。
成語「桃花流水(桃花水に流る)」「別有天地(理想郷)」は、本作に由来する。




独坐敬亭山  dú zuò jìng tíng shān  (唐) 李白  

众鸟高飞尽 zhòng niǎo gāo fēi jìn
孤云独去闲 gū yún dú qù xián
相看两不厌 xiāng kàn liǎng bú yàn
只有敬亭山 zhǐ yǒu jìng tíng shān



【注 釈】

独(ひと)り敬亭山(けいていざん)に坐(ざ)す 

衆鳥(しゅうてう) 高く飛び尽くし
孤雲(こうん) 独(ひと)り去りて 閑(かん)なり
相(あ)ひ看(み)て 両(ふた)つながら厭(いと)はざるは
只(た)だ 敬亭山(けいていざん) 有るのみ


【口語訳】  「訳詩: 森亮(唐詩絶句)」

群れ飛ぶ鳥は いつかきえ 
ひとつの雲も なくなりぬ
ながめくらして 厭(あ)かざるは
敬亭(けいてい)の 山と我(わ)れのみ


【敬亭山】 jìng tíng shān    安徽省宜城(ぎじょう)市にある山

李白54歳の作。山の景色を眺め、自然と一体となった心境を詠う。
互いに見飽きないという、相対する山を擬人化した作品。




哭晁卿衡 kū cháo qīng héng  (唐) 李白    

日本晁卿辞帝都 rì běn cháo qīng cí dì dū
征帆一片绕蓬壶 zhēng fān yí piàn rào péng hú
明月不归沉碧海

míng yuè bù guī chén bì hǎi

白云愁色满苍梧 bái yún chóu sè mǎn cāng wú



【注 釈】

晁卿衡(てうけいかう)を哭(こく)す

日本の晁卿(てうけい)帝都(ていと)を辞し
征帆(せいはん)一片(いっぺん)蓬壷(ほうこ)を繞(めぐ)る
明月(めいぐえつ)帰(かへ)らず 碧海(へきかい)に沈み
白雲(はくうん)愁色(しうしょく)蒼梧(さうご)に満つ


【口語訳】

わが友 日本の晁衡(ちょうこう)は 長安を辞し 船で旅立った
一片の去りゆく帆かげは 遙か東海の仙島をめぐり 故国に向かう

がしかし 皓々たる名月の如く 気高き君は あはれ帰国かなわず 
碧海の底に沈みゆき 志半ばにして 不帰の客となってしまわれた

いまはただ 流れゆく白雲が 悲しみの情をたたえ 
東海の空と海とに みち満ちているだけである


【晁卿衡】 cháo qīng héng  晁卿衡(ちょうけいこう)阿倍仲麻呂の中国名
【蓬壶】 péng hú  蓬壷(ほうこ)東海の果てにあるという蓬莱山。ここでは日本を指す
【苍梧】 cāng wú  蒼梧山(そうごさん)東海の花果山(かかざん 江蘇省)の別名

李白が仲麻呂と知り合ったのは、都の長安にあって、ともに玄宗に仕えたわずか三年足らずの短い期間のうちであった。
ときに李白42歳、阿倍仲麻呂44歳であった。まもなく李白は長安を去って流浪十年、その間仲麻呂とは会うことはなかった。

しかし李白の心には、仲麻呂を篤実な日本の友として心を許していたのである。
本作は、753年、仲麻呂が船の難波で死んだものと思った李白が、痛哭して一篇の詩を賦し、その死を悼んだもの。

幸いにも仲麻呂はベトナムに漂着していた。ベトナム経由で再び長安に舞い戻ったものの、そのまま二度と日本の地を
踏むことはかなわず、770年、唐で73歳の生涯を終えた。





游洞庭湖五首之一  yóu dòng tíng hú wǔ shǒu (唐)李白    

洞庭西望楚江分 dòng tíng xī wàng chǔ jiāng fēn
水尽南天不见云 shuǐ jìn nán tiān bú jiàn yún
日落长沙秋色远 rì luò cháng shā qiū sè yuǎn
不知何处吊湘君

bù zhī hé chù diào xiāng jūn



【注 釈】

洞庭湖(どうていこ)に遊ぶ         

洞庭(どうてい) 西に望めば 楚江(そかう)分(わ)かる 
水尽きて 南天(なんてん)に雲を見ず 
日落ちて 長沙(ちゃうさ) 秋色(しうしょく)遠し 
知らず 何(いづ)れの処にか 湘君(しゃうくん)を弔(とむら)はん


【口語訳】

洞庭湖上 舟を浮かべて眺むれば 西のかた 江(かう)の流れは 分れ出(い)で 湖水に注げり
首(かうべ)を回(めぐ)らせば 南のかた 水天(すいてん)髣髴(はうふつ)として 一片の雲なし

日落ちて 東南なる長沙(ちゃうさ)のかなた 蒼茫(さうばう)として 秋色(しうしょく)深し
さて何処(いづこ)に向かひて 湘君(しゃうくん)を弔ふべきかと ただただ 思ひ惑ふばかりなり


759年、李白59歳の秋。友人(李曄りよう、賈至かし)と共に洞庭湖に遊んだ時の作品。
長沙に沿って流れる湘江(しょうこう)は洞庭湖に注ぐ。

その湘江に身を投げて亡くなったのが、湘君こと堯帝の二姉妹(娥皇がこう、女英じょえい)
湘江は果てしなく広く、いったいどのあたりで湘君姉妹を弔えばよいのか、という訳である。

【楚江】 chǔ jiāng    楚江(そこう)長江の中流の別名。かつての楚国の地(湖南・湖北)を流れる部分をいう
【长沙】 cháng shā    長沙(ちょうさ)湖南省の省都

【湘君】 xiāng jūn    湘君(しょうくん)堯帝の娘で、舜帝の妻となった二人の姉妹。姉が娥皇(がこう)妹が女英(じょえい)
舜帝が湖南の巡行中に没したのを悲しんで、湘江に身を投げて亡くなり、その後水神となった




塞下曲六首其五  sài xià qǔ liù shǒu  (唐) 李白    

塞虏乘秋下 天兵出汉家 sài lǔ chéng qiū xià  tiān bīng chū hàn jiā
将军分虎竹 战士卧龙沙 jiāng jūn fēn hǔ zhú  zhàn shì wò lóng shā
边月随弓影 胡霜拂剑花 biān yuè suí gōng yǐng  hú shuāng fú jiàn huā
玉关殊未入 少妇莫长嗟

yù guān shū wèi rù  shào fù mò cháng jiè



【注 釈】

塞下曲(さいかきょく) 

塞虜(さいりょ) 秋に乗(じょう)じて 下(くだ)り
天兵(てんぺい) 漢家(かんか)を出づ
将軍 虎竹(こちく)を分(わ)かち
戦士 竜沙(りょうさ)に臥(が)す
辺月(へんげつ) 弓影(きゅうえい)に随(したが)ひ
胡霜(こさう) 剣花(けんくわ)を払ふ
玉関 殊(こと)に 未(いま)だ入らず
少婦(せうふ) 長嗟(ちゃうさ)する莫(な)かれ


【口語訳】

匈奴(きょうど) 馬肥ゆる秋に至りて 弓を携(たづさ)へ則ち来寇(らいこう)す
官軍(くわんぐん)之を迎へ撃たんと 都を出(い)で 辺塞(へんさい)に向ひたり
将軍 割符(わりふ)を賜ひて出征し 戦士 白龍堆(はくりゅうたい)の沙漠に陣す
辺境の月 弓の如く 剣光 霜に似たり 戦士 勇み戦ひ 玉門越ゆる 匈奴無からず
然(さ)すれば 空閨(くうけい)の少婦(せうふ) 悲しみ嗟(なげ)く莫(な)かれ


【塞下曲】 sài xià qǔ  塞下曲(さいかきょく)辺境守備の歌

743年、李白43歳の作。辺境を守備する兵士の労苦と、夫の帰りを待つ妻の思いを詠んだもの。
辺境の異民族は、秋の季節になると、きまって攻めてくる。騎兵を主力とする彼らは、秋になると
馬が肥えて逞しくなり、またそのころは、農作物の収穫があるから、略奪品も豊富になる訳である。

【塞虏】 sài lǔ  辺境の異民族。ここでは匈奴を指す
【虎竹】 hǔ zhú  兵を発するときに用いた割り符。
右半分を朝廷に保存し、左半分を将軍に与え、後日、朝廷の使者が命令を伝えに出向いたときに符を合わせて確認した

【龙沙】 lóng shā  白龍堆(はくりゅうたい)沙漠(新疆ウイグル自治区、ロプノール湖の東に広がる沙漠)
【随弓影】 suí gōng yǐng  月が、手に持つ弓と共に細く冴えわたる
【胡霜】 hú shuāng  胡地(異民族の住む地)の霜
【拂剑花】 fú jiàn huā  霜が、剣の刃を払って鋭い光を増す
【玉关】 yù guān  玉門関(ぎょくもんかん)甘粛省敦煌の西に置かれた砦。辺境守備の要衝であった
【少妇】 shào fù  年若い妻




望天门山 wàng tiān mén shān (唐)李白   

天门中断楚江开

tiān mén zhōng duàn chǔ jiāng kāi

碧水东流至此回 bì shuǐ dōng liú zhì cǐ huí
两岸青山相对出 liǎng àn qīng shān xiāng duì chū
孤帆一片日边来

gū fān yí piàn rì biān lái



【注 釈】

天門山(てんもんざん)を望む

天門(てんもん) 中断(ちゅうだん)して 楚江(そかう)開(ひら)く 
碧水(へきすい) 東に流れ 北に至りて廻(めぐ)る 
両岸の青山(せいざん) 相(あ)ひ対(たい)して出(い)で 
孤帆(こはん) 一片(いっぺん) 日辺(じつへん)より来たる 


【口語訳】

真ふたつに 天門山を 切り裂きて 楚江流るる
東流せし碧水は 山に隨ひて 北へ廻(めぐ)り
江を挟みて 相ひ対峙せし 二山の間 広からず 
折りしも一片の白帆(しらほ)下り来るを見たり
あたかも遥か遠き 西天の彼方より来たるが如し


【天门山】 tiān mén shān  東梁山と西梁山(安徽省)
長江を挟んだ両山が、まるで天にそそり立つ門のようだと喩えて「天門山」と命名された

【楚江】 chǔ jiāng  長江。この地域は楚国の領土であったため「楚江」と称する。
【出】 chū  (空に)突き出ている
【日边】 rì biān  (天水相接处的远方)西の地平線の彼方

紺碧の楚江、両岸に屹立する青山、遥か天の彼方からやって来る一艘の帆船。
雄大な自然の景観を、あたかも一幅の絵に描いた如く詠った大叙景詩である。



李白 lǐ bái (りはく) (701~762年)
盛唐の詩人。字は太白(たいはく)四川省江油(こうゆ)の人。
宮廷詩人として玄宗に仕えたが、その寵臣の憎しみを買い、宮廷を追われた。
晩年は、江南の地で湖に小舟を浮かべて酒を呑みながら月を眺めて過ごした。

最後は酔って水中の月を捕らえようとして溺死したという。享年六十一。
絶句を得意とし、奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。
著作に詩集「李太白(りたいはく)集」(三十巻)




(王維)

(臨高台送黎拾遺) (欒家瀬) (宮塊陌) (臨湖亭) (欹湖)


临高台送黎拾遗  lín gāo tái sòng lí shí yí (唐)王维    

相送临高台

xiāng sòng lín gāo tái

川原杳何极

chuān yuán yǎo hé jí

日暮飞鸟还 rì mù fēi niǎo huán
行人去不息

xíng rén qù bù xī



【注 釈】

高台(かうだい)に臨(のぞ)みて黎拾遺(れいしゅうい)を送る

相(あ)ひ送りて 高台(かうだい)に臨(のぞ)めば
川原(せんげん) 杳(えう)として何ぞ極(きは)まらん
日暮(にちぼ) 飛鳥(ひてう)還(かへ)り
行人(かうじん)は去って息(や)まず


【口語訳】  「訳詩: 土岐善麿(鶯の卵)」

たかどのに 送る別れは
河(かは)遠く 眼路(めじ)はるかなり
日は暮れて 鳥はねぐらに
ゆく人は 去りて還(かへ)らず


【黎拾遗】 lí shí yí     黎拾遺(れいしゅうい)黎は友人の名。拾遺(帝の側近)は官職名
【高台】 gāo tái   高楼
【川原】 chuān yuán   川辺の平野
【杳】 yǎo   はるかかなた(に広がる)
【何极】 hé jí   何と果てしないことであろうか。「何」は感嘆の副詞。
【行人】 xíng rén   旅人

夕暮れ時、鳥は寝ぐらへと戻って来るが、旅人は、とどまることなく去ってゆく。
旅ゆく友人の姿が、寝ぐらに帰って休息する鳥と対比して詠われており、
惜別の情ひとしお切なるものがある。




栾家濑  luán jiā lài  (唐)王维    

飒飒秋雨中 sà sà qiū yǔ zhōng
浅浅石溜泻 qiǎn qiǎn shí liū xiè
跳波自相溅 tiào bō zì xiāng jiàn
白鹭惊复下

bái lù jīng fù xià



【注 釈】
   
欒家瀬(らんからい)

颯颯(さつさつ)たる 秋雨(しうう)の中(うち)
浅浅(せんせん)として 石溜(せきりう)に瀉(そそ)ぐ
波は跳(は)ねて 自(おのづか)ら相(あ)ひ濺(そそ)ぎ
白鷺(はくろ)驚きて 復(ま)た下(くだ)れり


【口語訳】  「訳詩: 荒川太郎(踏花帖)」

そうそうと降る 秋雨(あきさめ)に
流れは早し 石清水(いはしみづ)
波おのづから しぶくとき
白露(はくろ)飛び立ち また下りぬ


【石溜】 shí liū   岩の上の流れ

欒家瀬(らんからい)は、早瀬の名で、輞川荘(もうせんそう)二十景のひとつ。
秋水が岩瀬を駆け抜け、水しぶきが跳ね散る。白鷺が驚いてさっと飛び立つが、すぐにまた降りてくる。
自然が見せる躍動感、思いがけない表情の一瞬をとらえることに、作者が意を注いでいたことが分かる。




宫槐陌  gōng huái mò  (唐)王维    

仄径荫宫槐 zè jìng yìn gōng huái
幽阴多绿苔 yōu yīn duō lǜ tái
应门但迎扫 yìng mén dàn yíng sǎo
畏有山僧来 wèi yǒu shān sēng lái



【注 釈】

宮塊陌(きゅうかいはく)

仄径(そくけい)宮槐(きゅうかい)の蔭(かげ)にして
幽陰(いういん)緑苔(りょくたい)多し
応門(おうもん)但(た)だ迎掃(げいさう)す
山僧(さんそう)来(き)たる有るを畏(おそ)る


【口語訳】  「訳詩: 荒川太郎(踏花帖)」

槐花(えんじゅ)下の 径(みち)はかたむき
蔭(かげ)深く 緑苔(こけ)いやむしぬ
門番(かどびと)は 心して掃(は)け
山の僧(そう) はや来まさむに


【宫槐】 gōng huái   槐(えんじゅ)
【陌】 mò   狭い小路
【仄径】 zè jìng   傾斜した道
【幽阴】 yōu yīn   小暗い木陰の部分   
【应门】 yìng mén  門衛

宮塊陌(きゅうかいはく)は、宮槐(えんじゅ)の植えられた小路。輞川荘(もうせんそう)二十景のひとつ。
本作は、山寺の僧が別荘を訪れるというので、柴門の前の緑苔や落ち葉の掃除に余念のない門番を描いている。




临湖亭  lín hú tíng  (唐)王维    

轻舸迎上客

qīng gě yíng shàng kè

悠悠湖上来 yōu yōu hú shàng lái
当轩对樽酒 dāng xuān duì zūn jiǔ
四面芙蓉开 sì miàn fú róng kāi



【注 釈】

臨湖亭(りんこてい)

軽舸(けいか)もて 上客(じゃうかく)を迎え
悠悠(いういう)として  湖上に来(き)たる
軒(けん)に当たりて 樽酒(そんしゅ)に対すれば
四面(しめん)  芙蓉(ふよう)開く


【口語訳】  「訳詩: 吉川幸次郎(中国詩人選集)」

軽やかな船に 立派な客をお迎えし
けちな世間なぞ 知らぬ顔して
のびのびと 湖上の臨湖亭にやってきた
窓のあたりで 酒樽にむかうと
なんと四方は はすの花盛り


【临湖亭】 lín hú tíng   臨湖亭(りんこてい)湖に臨んだあづまや
【轻舸】 qīng gě (轻便的小船)小型の小舟
【悠悠】 yōu yōu  俗世に拘束されないのびのびとした心の状態
【轩】 xuān (有窗的长廊)臨湖亭の窓
【樽酒】 zūn jiǔ  酒樽。酒つぼ

湖に臨んだあづまやに、大切な友人を迎えた作者の、喜々とした心境が伝わって来る。
満開の蓮の花も、作者と同様に、その友人の来訪を心から歓迎しているかのようだ。




欹湖  qī hú  (唐)王维    

吹箫凌极浦 chuī xiāo líng jí pǔ
日暮送夫君 rì mù sòng fū jūn
湖上一回首 hú shàng yī huí shǒu
青山卷白云 qīng shān juǎn bái yún



【注 釈】

欹湖(いこ)

簫(せう)吹いて 極浦(きょくほ)を淩(しの)ぎ
日暮(にちぼ)夫君(ふくん)を送る
湖上 一たび回首(かいしゅ)すれば
青山(せいざん)白雲(はくうん)を巻く


【口語訳】  「訳詩: 荒川太郎(踏花帖)」

簫(せう)を吹き 浦ゆはるけく
日の暮れに 友を送ると
湖(うみ)の上 ふと見返(さく)れば
山青く 白雲巻けり


【欹湖】 qī hú 欹湖(いこ)輞川荘(もうせんそう)の北にある天然の湖。輞川荘二十景のひとつ。
両岸に山が欹(そば)だっているので欹湖(いこ)と名付けたという。

【箫】 xiāo   簫(しょう)竹で作った笛
【凌】 líng  (湖面の果てまで)越えてゆき
【极浦】 jí pǔ  遙か遠くの湖面まで
【夫君】 fū jūn   友人(を日暮れに見送る)

別れの餞別として、簫(しょう)の笛を吹きつつ、舟に乗り込んだ友を見送る。
作者の切なる惜別の思いを込めた簫の音は、夕暮れの湖面の果てまで響き渡った。



王維  wáng wéi   (おうい)  (699~761年)
盛唐の詩人、画家。字は摩詰(まきつ)山西太原(たいげん)の人。
その詩は勇壮豪快な作もある一方、静謐な自然を詠じ、孟浩然(もうこうねん)と共に「王孟」と並び称される。

水墨画もまた鄭虔(ていけん)や呉道子(ごどうし)と比肩され「南宗画」の祖と仰がれる。
なお、字の摩詰は維摩詰(ゆいまきつ)に由来する。
著作に詩集「王右丞(おうゆうじょう)集」(十巻)




(駱賓王)

(詠鵝) (易水送別)


咏鹅  yǒng é  (唐) 骆宾王    

鹅,鹅,鹅 é,é,é
曲项向天歌 qū xiàng xiàng tiān gē
白毛浮绿水 bái máo fú lǜ shuǐ
红掌拨清波 hóng zhǎng bō qīng bō



【注 釈】

白鳥を詠む

白鳥(しらとり)よ 白鳥
汝(なんぢ)は うなじを反(た)め 天に向ひて歌ふ
白き羽毛(つばさ)は 緑水(りょくすい)に浮き
紅(あけ)の蹼(みあし)は 清波(せいは)を撥(か)く


【口語訳】  「訳詩: 石川忠久(漢詩鑑賞事典)」

白い毛並みのガチョウさん 
曲がった首を お空に向けて歌います

緑の水に 白い姿がポッカリコ
赤いお手々で きれいな波を立ててます


【鹅】 é    白鳥。白鳥(はくちょう)ではなく、白鳥(がちょう)である。

駱賓王7歳の時の作品。本作は、幼児向けの絵本や、小学校一年の国語の教科書に登場し、
中国の子供たちが最初に出会う漢詩である。

【曲项】 qū xiàng    うなじを反らして
【红掌拨清波】 hóng zhǎng bō qīng bō     紅い水かきが清く澄んださざ波をかきわける




于易水送人一绝  yú yì shuǐ sòng rén yì jué (唐) 骆宾王  

此地别燕丹 cǐ dì bié yàn dān
壮士发冲冠 zhuàng shì fā chòng guān
昔时人已没 xī shí rén yǐ mò
今日水犹寒 jīn rì shuǐ yóu hán



【注 釈】

易水(えきすい)に于(お)いて人を送る
 
此の地 燕丹(えんたん)に 別(わか)る
壮士(さうし) 髪(かみ) 冠(くわんむり)を衝(つ)く
昔時(せきじ) 人(ひと) 已(すで)に没(ぼっ)し
今日(こんにち) 水(みづ) 猶(な)ほ寒し


【口語訳】

太子よ さらばとて 壮士は 勇みしか
その人いまはなく さむざむ川のみづ


【易水】 yì shuǐ  燕(河北省)の国境を流れる河
【燕丹】 yàn dān  燕の太子・丹(たん)
【壮士】 zhuàng shì  屈強かつ勇敢な人物
【发冲冠】 fā chòng guàn   髪が逆立ち冠をつきあげる。憤怒の形相。

BC227年、燕の太子・丹(たん)は、壮士・荊軻(けいか)に、
秦の始皇帝の暗殺を頼み、易水(えきすい)で送別の宴をはった。

本作は、同じ易水のほとりで、作者が徐敬業(じょけいぎょう)に贈ったもの。
荊軻と同じく命を懸けて都に向かう徐敬業を、今生の別れと見送る送別の詩である。



駱賓王  luò bīn wáng (らくひんおう)(640~684年)
初唐の詩人。字は駱臨海(らくりんかい)浙江省義烏(ぎう)の人。
唐の高宗(在位649~683年)の時代に、滑州(かつしゅう 河南省)の長官であった李元慶(りげんえい)に仕えた。

684年、則天武后の即位に反対して将軍・徐敬業(じょけいぎょう)が兵をあげるとこれに加わり、
名文句で知られる「武后を討つ檄文」を草した。
反乱は同年に鎮圧され、駱賓王は髪を落として僧侶になったと伝えられる。

その詩は清麗で格調があり、特に長編の七言詩に優れた作品を残している。
王勃(おうぼつ)、盧照鄰(ろしょうりん)、楊炯(ようけい)とともに初唐四傑と称された。
著作に詩文集「駱臨海(らくりんかい)集」(十巻)




(陳子昂)


登幽州台歌  dēng yōu zhōu tái gē  (唐) 陈子昂    

前不见古人 qián bú jiàn gǔ rén
后不见来者 hòu bú jiàn lái zhě
念天地之悠悠 niàn tiān dì zhī yōu yōu
独怆然而涕下 dú chuàng rán ér tì xià



【注 釈】

幽州(ゆうしゅう)の台に登る歌 

前(まへ)に古人(こじん)を見(み)ず
後(しりへ)に来者(らいじゃ)を見(み)ず
天地(てんち)の悠悠(いういう)たるを念(おも)い
独(ひと)り愴然(さうぜん)として悌下(なみだくだ)る


【口語訳】  「訳詩: 倉石武四郎(歴代詩選)」

いにしえの ひとはみえず こむひとの けはいもなし
あめつちの かぎりなきをおもい ひとりたち わがなみだながる


【幽州】 yōu zhōu  幽州。北京市を含む河北省北部の地
【台】 tái  春秋の燕の時代に築かれた幽州の高台
【前不见古人】 ずっと前に生まれた昔の人には会えない
【后不见来者】 はるか後に生まれる人にも会うことはできない

この二句は、楚辞(遠遊)の「往く者は余(われ)及ばず、来る者は吾(われ)聞かず」
(古人はわが心を得たれば、一度あうて語らでとおもへど、其世に及ばねばかなはず)
の一節を踏まえている。

いにしえの燕の地である幽州の高台に登り、過去を思い、未来を想って感慨を発した。
短く簡潔な詩であるが、気宇が高大で、古くから愛誦されてきた作品である。



陳子昂 chén zǐ áng(ちんすごう)(661~702年)
初唐の詩人。字は伯玉(はくぎょく)射洪県(しゃこう 四川省)の人。
682年、進士に及第、則天武后に認められ、右拾遺(皇帝側近)に任ぜられた。

698年、父に孝養を尽くすため官を辞して帰郷した。
だが父の死後、財産に目をつけた県令に投獄され、獄死した。
詩では南朝時代からの軟弱な詩風を退け、漢魏の気骨ある詩を提唱し、盛唐詩人の先駆をなした。
著作に詩文集「陳伯玉(ちんはくぎょく)文集」(十巻)




(王昌齢)

(塞下曲) (出塞一) (閨怨)    (芙蓉楼送辛漸)


塞下曲 sài xià qǔ  (唐) 王昌龄    

饮马渡秋水  

yǐn mǎ dù qiū shuǐ

水寒风似刀   shuǐ hán fēng sì dāo
平沙日未没   píng shā rì wèi mò
黯黯见临洮   àn àn jiàn lín táo
昔日长城战   xī rì cháng chéng zhàn
咸言意气高   xián yán yì qì gāo
黄尘足今古   huáng chén zú jīn gǔ
白骨乱蓬蒿   bái gǔ luàn péng hāo



【注 釈】

塞下曲(さいかきょく) 

馬に飲(みづか)はんとして 秋水(しうすい)を渡り
水(みづ)寒くして 風 刀(たう)に似たり
平沙(へいさ)日(ひ)未(いま)だ没(しづ)まずして
黯黯(あんあん)として 臨洮(りんたう)を見(のぞ)む

昔日(せきじつ)長城(ちゃうじゃう)の 戦(いくさ)
咸(み)な言ふ 意気高しと
黄塵(くわうぢん)今古(きんこ)に足(み)ち
白骨(はくこつ)蓬蒿(ほうかう)に乱(みだ)る


【口語訳】

馬に飲(みづか)ふ 秋の河(かは)
水(みづ)は冷(ひ)やかに 風きびし
沙漠(さばく)に 日はなほ 落ちねども
臨洮(りんたう)の城 影(かげ)暗(くら)し

ありし日の 城の戦(いくさ)に 向かひたる
兵(つはもの)どもの 意気高し
黄塵(くわうぢん)いまも変(か)はらねど
白骨(はくこつ)草に 乱れ散る


【塞下曲】 sài xià qǔ  塞下曲(さいかきょく)国境守備の歌

塞下曲は、砦を守備する兵士たちの艱苦や望郷の念、あるいは夫の帰りを待つ妻の思いなどが描かれ、
辺塞詩という分野に属する楽府題の一つ。

本作はむしろ反戦歌に近い。戦いの始まる前、兵士たちの誰もが勇ましい言葉を口にしていたのだが、
戦塵のあと原野に乱れ散るのは無数の白骨ばかり。
詩には、度重なる無益な戦役を厭う作者の思いが反映されている。

【秋水】 qiū shuǐ  秋の河
【平沙】 píng shā  広漠たる沙漠
【临洮】 lín táo  臨洮(りんとう)甘粛省にある地名。万里の長城の西の起点となる地。
【黄尘】 huáng chén  沙漠の砂塵
【足今古】  zú jīn gǔ  (砂塵が)今も昔も変わることなく満ちている



出塞二首其一 chū sài èr shǒu qí yī (唐) 王昌龄  
     
秦时明月汉时关  

qín shí míng yuè hàn shí guān

万里长征人未还   wàn lǐ cháng zhēng rén wèi huán
但使龙城飞将在   dàn shǐ lóng chéng fēi jiāng zài
不教胡马度阴山   bù jiāo hú mǎ dù yīn shān



【注 釈】

出塞(しゅっさい)

秦時(しんじ)の明月(めいげつ) 漢時(かんじ)の関(くわん)
万里(ばんり) 長征(ちゃうせい)して 人 未(いま)だ還(かへ)らず
但(た)だ 龍城(りょうじゃう)の飛将(ひしゃう)をして 在(あ)ら使(し)めば
胡馬(こば)をして 陰山(いんざん)を度(わた)ら教(し)めず


【口語訳】

秦の名月 漢の関 ありし昔と 変わらねど 
万里に遠く 出で征(ゆ)きし 夫(つま)はいまだに 帰り来(こ)ず
龍城(りょうじゃう)に その名聞こえし 李広(りくわう)将軍(しゃうぐん)今在らば
夷狄(いてき)の騎馬も 陰山(いんざん)を 越え来ることは よもあらじ


【出塞】 chū sài  出塞(しゅっさい)辺境の砦から出立する
【龙城】 lóng chéng  龍城(りゅうじょう)匈奴の根拠地(現在の内蒙古自治区)
【飞将】 fēi jiāng  前漢の将軍李広を指す。匈奴におそれられた
【胡马】 hú mǎ  異民族(匈奴)の馬
【阴山】 yīn shān  陰山(いんざん)山西省から内蒙古に広がる山脈

内蒙古を舞台とした辺塞詩。作者の生きた唐の時代、すぐれた将軍にめぐまれず、
北方異民族の脅威が長期間に渡って継続していた。漢の李広将軍を引き合いに出し、
大唐帝国にも、それにふさわしい名将の登場を期待する一篇。




闺怨 guī yuàn    (唐)  王昌龄   

闺中小妇不知愁  guī zhōng xiǎo fù bù zhī chóu
春日凝妆上翠楼  chūn rì níng zhuāng shàng cuì lóu
忽见陌头杨柳色  hū jiàn mò tóu yáng liǔ sè
悔教夫婿觅封侯  huǐ jiāo fū xù mì fēng hóu


    
【注 釈】

独り寝の寂しさを憂(うれ)ふ

閨中(けいちゅう)の少婦(せうふ)愁(うれ)ひを知らず
春日(しゅんじつ)粧(よそほひ)をこらして翠楼(すいろう)に上る

忽(たちま)ち陌頭(はくとう)楊柳(やうりう)の色を見て
悔(く)ゆらくは夫婿(ふせい)をして封侯(ほうこう)を求めしを


【口語訳】

まだうら若き花嫁は 浮世の憂きを知らぬげに
春や春なる粧(よそほ)ひに 今 高楼に登りけり

ふと見し町のかたはらに ひとかぶ柳 うなだれて
立てる姿ぞ 別れきて 孤り在る身に 似たらずや

諸侯の望み たえずして わが背を駆りて なまじひに
戦人(いくさびと)とならしめし おのが心のはしたなさ

夢に罪あり 今さらに 妹背(いもせ)のなかの 真実の
涙ぞ頬を 伝ふなる


【闺怨】 guī yuàn     独り寝の寂しさを憂う

功名を夢見て景気よく夫を戦場に送り出したものの、春先になって柳が色づいたのを目にして
別れの日を思い出し、夫の不在に気づいて悲哀に落ちる若妻の姿を描く。

【陌头】 mò tóu      町の路ばた
【封侯】 fēng hóu     大名に封ぜられる




芙蓉楼送辛渐  fú róng lóu sòng xīn jiàn   二首其一(唐)王昌龄    

寒雨连江夜入吴  hán yǔ lián jiāng yè rù wú
平明送客楚山孤  píng míng sòng kè chǔ shān gū
洛阳亲友如相问  luò yáng qīn yǒu rú xiāng wèn
一片冰心在玉壶  yí piàn bīng xīn zài yù hú



【注 釈】

芙蓉楼(ふようろう)にて辛漸(しんぜん)を送る  

寒雨(かんう) 江(かう)に連なりて 夜 呉に入る
平明(へいめい) 客(かく)を送れば 楚山(そざん) 孤(こ)なり
洛陽(らくやう)の親友(しんいう)如(も)し 相(あ)ひ問(と)はば
一片の氷心(ひょうしん)玉壺(ぎょくこ)に在り


【口語訳】

冷雨(ひさめ)江(かは)に 降りそそぎ
呉の地は 雨に暮れゆけり
平明(よあけ)に 君を送れば 天の うち晴れて
雲間に遠く 孤立せる 楚山(そざん)を見たり

洛陽に ゆき着きてのち わが輩(ともどち)が
吾(われ)いかならむと 如(も)し問(と)はば
わが心 玉壺(ぎょくこ)の 氷の如しと 答へあれ


【芙蓉楼】 fú róng lóu     芙蓉楼(ふようろう)長江南岸の鎮江(ちんこう 江蘇省)の西北にある楼
【冰心】  bīng xīn    透き通って清い心
【玉壶】 yù hú    玉(ぎょく)で作った壷。出典は、南朝宋の鮑照(ほうしょう)「清如玉壺冰」(白頭吟 はくとうぎん)

735年、作者は南京(江蘇省)に左遷されたが、洛陽は左遷される前にいた場所だった。
友人はこれから賑やかな都・洛陽へと向かうが、南の地に残された作者の孤高の心境と
諦観の境地を「一片の氷心 玉壺にあり」とたとえている。



王昌齢  wáng chāng líng   (おうしょうれい)  (698~755年)
盛唐の詩人。字は少伯(しょうはく)陝西省西安の人。
不遇な役人生活ののち、安禄山の乱に遭い、官を辞して郷里に帰ったが、県の長官の閭丘暁(りょきゅうぎょう)に殺害された。
李白と並ぶ七言絶句の名手として、辺境の風物をうたう詩にすぐれる。著作に詩集「王昌齢集」(五巻)




(孟郊)

(遊子吟) (烈女操)


游子吟  yóu zǐ yín   (唐)  孟郊    

慈母手中线 游子身上衣 cí mǔ shǒu zhōng xiàn yóu zǐ shēn shàng yī
临行密密缝 意恐迟迟归 lín xíng mì mì féng yì kǒng chí chí guī
谁言寸草心 报得三春晖 shéi yán cùn cǎo xīn bào dé sān chūn huī




【注 釈】

遊子(いうし)の吟(うた)

慈母(じぼ)手中(しゅちう)の線(いと)
遊子(いうし)身上(しんじゃう)の衣(ころも)

行(ゆ)くに臨(のぞ)みて 密密(みつみつ)に 縫ふは
意(こころ)に恐る 遅遅(ちち)として 帰(かへ)らんことを

誰(たれ)か言ふ 寸草(すんさう)の心の
三春(さんしゅん)の暉(き)に 報(むく)ひ得(え)んとは


【口語訳】

われまさに旅路に上らんとするや
わが母 手中の糸もて わが旅衣(ころも)縫ひたまふ

道中にて破るることありても 縫ひて呉(く)るる人もなからんと
情けをこめて 縫ひ目も細かに仕立てぬ

かくて母の心には わが学びの道の早(と)く成りて
帰り来たらんことを切望す

草葉(くさば)にそそぐ春の日の あまりに深き母の恩
到底わが寸草(すんさう)の心もて かかる洪恩(こうおん)に報じ得べきにあらずや


【游子】 yóu zǐ     旅人
【三春晖】 sān chūn huī     春三月の光

他郷に遊学に出かける作者が、母親の慈愛を詠ったもの。切々とした母への思いが胸を打つ。




烈女操  liè nǚ cāo  (唐) 孟郊    

梧桐相待老 鸳鸯会双死 wú tóng xiāng dài lǎo yuān yāng huì shuāng sǐ
贞妇贵殉夫 舍生亦如此 zhēn fù guì xùn fū shě shēng yì rú cǐ
波澜誓不起 妾心古井水 bō lán shì bù qǐ qiè xīn gǔ jǐng shuǐ



【注 釈】
   
烈女(れつぢょ)の操(みさを)

梧桐(ごとう)相(あ)ひ待(ま)ちて老(お)い
鴛鴦(ゑんあう)会(かなら)ず 双(なら)びて死す
貞女(ていぢょ)夫(つま)に殉(じゅん)ずるを貴(たふと)ぶ
生(せい)を捨(す)つるも亦(また)此(かく)の如し
波瀾(はらん)誓(ちか)ひて起(お)こらず
妾(せふ)が心は 古井(こせい)の水(みづ)


【口語訳】

あおぎりは 二本(ふたもと)並び 老いゆきて
おしどりは 二羽(ふたは)つがひて 死ぬとかや
妻女(さいぢょ)が夫(つま)に 身を殉(じゅん)じ
いのち捨つるも これ同じ
仇波(あだなみ)は 誓ひて起(た)てず わが心(こころ)
古井戸の 水(みづ)の静かに 澄(す)めるがごとし


【烈女】 liè nǚ  貞節を守る妻
【梧桐】 wú tóng  アオギリ
【波澜】 bō lán  あだごころ

古井戸の水は、たとえ風が起こっても、動揺してにごることはなく、澄みとおっている。
心がわりしないことを井戸水にたとえ、女性の貞節を守る美徳を詠ったもの。



孟郊 mèng jiāo   (もうこう)  (751~814年)
中唐の詩人。字は東野(とうや)浙江省徳清(とくせい)の人。
人と合わない性格で、嵩山(すうざん 河南省)に隠棲していたが、五十歳近くになって、
ようやく科挙に及第し、常州(江蘇省)の尉(事務官) となった。
詩風は、五言詩にすぐれ、憂愁・窮苦を詠じたものが多い。韓愈の門下の俊才として「韓孟」と称せられた。
著作に詩集「孟東野(もうとうや)集」(十巻)




(劉禹錫)

(秋詞) (賞牡丹)    (烏衣巷)


秋词 qiū cí  (唐) 刘禹锡    

自古逢秋悲寂寥 zì gǔ féng qiū bēi jì liáo
我言秋日胜春朝 wǒ yán qiū rì shèng chūn zhāo
晴空一鹤排云上 qíng kōng yí hè pái yún shàng
便引诗情到碧霄 biàn yǐn shī qíng dào bì xiāo




【注 釈】

秋の詞(うた)

古(いにしへ)より 秋に逢(あ)へば  寂寥(せきれう)を悲しむも
我は言ふ  秋日(しうじつ)は 春の朝(あした)に勝(まさ)ると

晴空(せいくう)に 一鶴(いっかく)  雲を排(はい)して上(のぼ)り
便(すなは)ち 詩情(しじゃう)を引きて  碧霄(へきせう)に到る


【口語訳】

身にしむ 秋の寂しさを 世の人なべて喞(かこ)てども
われただ 讃(たた)ふ 秋の情 春の朝(あした)にまされるを

見よ 雲を凌(しの)ぎて とぶ鶴の 蒼穹(さうきう)高く舞ふ姿
仰ぎて立てば はろばろと われの想ひも天翔ける


【碧霄】 bì xiāo    (青天)青空

秋といえば、寂しさや切なさが連想されるが、本作は、そうした通念に対して批判を試みた作品。
作者は、従来の季節感を一転させ、秋の日の爽やかさは、春の朝の麗らかさに勝ると断言する。




赏牡丹 shǎng mǔ dān  (唐) 刘禹锡    

庭前芍药妖无格 tíng qián sháo yào yāo wú gé
池上芙蕖净少情 chí shàng fú qú jìng shǎo qíng
唯有牡丹真国色 wéi yǒu mǔ dān zhēn guó sè
花开时节动京城 huā kāi shí jié dòng jīng chéng



【注 釈】

牡丹(ぼたん)を賞(しゃう)す

庭前(ていぜん)の芍藥(しゃくやく)妖(えう)として 格(かく)無し
池上(ちじゃう)の芙蕖(ふきょ)淨(きよ)くして 情(じゃう)少(すく)なし
唯(た)だ 牡丹(ぼたん)のみ 真の国色(こくしょく)有り  
花(はな)開(ひら)くの時節(じせつ)京城(けいじゃう)を動(ゆる)がす


【口語訳】

庭の芍薬(しゃくやく)あでやかなれど 気品なく
池の蓮花(はちすくわ)きよらかなれど 情のすくなし
ただ牡丹(ぼたん)のみ 真の国色(こくしょく)
花咲くみぎり 都をちこち 人のさわがし


【国色】 guó sè    (倾国佳人)天下一の美人

「立てば芍薬、座れば牡丹」と、日本では芍薬と牡丹は同格だが、中国では牡丹がダントツのようだ。
牡丹といえば国色(美しさの化身)であり、そこから連想されるものは、かの楊貴妃であるからだ。







乌衣巷 wū yī xiàng (唐) 刘禹锡    

朱雀桥边野草花 zhū què qiáo biān yě cǎo huā
乌衣巷口夕阳斜 wū yī xiàng kǒu xī yáng xiá
旧时王谢堂前燕 jiù shí wáng xiè táng qián yàn
飞入寻常百姓家 fēi rù xún cháng bǎi xìng jiā



【注 釈】

烏衣巷(ういこう)

朱雀(すざく)橋辺(けうへん) 野草(やさう)の花 
烏衣巷(ういこう)口(こう) 夕陽(せきやう) 斜(なな)めなり 
旧時(きうじ)の王謝(わうしゃ) 堂前(だうぜん)の燕(つばめ) 
飛びて入る 尋常(じんじゃう)百姓(ひゃくせい)の家 


【口語訳】

栄華誇りし金陵の 朱雀(すざく)の橋の辺(べ) 草むら深く
古(いにしへ)の屋敷の町の烏衣巷に 暮れ逝く斜陽差し込めり
昔 貴族の家に 住みし燕(つばくろ) 今は百姓の家に巣くふ
まことに滄桑(さうさう)の感に堪へず 嘆息を禁じ得ざるなり


【乌衣巷】 wū yī xiàng    烏衣巷(ういこう)東晋の金陵(南京)にあった街。
南朝の王氏や謝氏などの貴族がみな黒い着物を着ていたので烏衣巷と呼ばれた

【朱雀桥】 zhū què qiáo    朱雀橋(すざくきょう) 烏衣巷入口の朱雀門に向かい合う浮橋の名
【王谢】 wáng xiè    王導や謝安を出した南朝の貴族

さしもの栄華を誇った東晋の都・金陵は、跡形もなく滅び去り、今はただ粛静たる残影だけが残されている。
かつては貴族の屋敷に巣くっていた燕も、今では名もなき人家に飛んでいる、という栄枯盛衰の変遷を、燕を借りて詠ったもの。



劉禹錫 liú yǔ xī   (りゅううしゃく)  (772~842年)
中唐の詩人。字は夢得(ぼうとく)河南省洛陽の人。
793年、科挙に及第、地方官として各地の民歌に触れ「竹枝詞」(ちくしし 湖南省民歌)などを文学作品に高めたことで知られる。
詩風は、五言詩にすぐれ、白居易と親しく詩を応酬し「劉白」と並称された。
著作に詩集「劉夢得(りゅうぼうとく)文集」(三十巻)




曹松


己亥岁  jǐ hài suì  (唐) 曹松  

泽国江山入战图 zé guó jiāng shān rù zhàn tú
生民何计乐樵苏 shēng mín hé jì lè qiáo sū
凭君莫话封侯事 píng jūn mò huà fēng hóu shì
一将功成万骨枯 yì jiāng gōng chéng wàn gǔ kū




【注 釈】

己亥(きがい)の歳(とし)

沢国(たくこく)の江山(かうざん) 戦図(せんと)に入(い)る
生民(せいみん) 何の計(けい)ありて 樵蘇(せうそ)を楽(たの)しまん
君(きみ)に憑(ねが)ふ 話(かた)る莫(な)かれ 封侯(ほうこう)の事
一将(いっしゃう)功(こう)成(な)りて万骨(ばんこつ)枯(か)る


【口語訳】

湖沼(こせう)ゆたけき 水郷(すいがう)の 
山河(さんが)は已(すで)に 戦場(いくさば)と化(か)し
庶民(もろびと)もはや 煮炊(にた)きを味(あぢは)ふすべもなし

願わくば おのが武勲(ぶくん)を 讃(たた)ふるなかれ
手柄(てがら)立てたる その陰(かげ)に 幾多(いくた)の兵の 
傷(いた)ましき 犠牲(ぎせい)の惨劇(さんげき)あればなり


【己亥岁】 jǐ hài suì  己亥歳(つちのといのとし)
唐の僖宗(きそう)の乾符(けんぷ)6年(879年)にあたる年。

875年、黄巣の乱が勃発して4年、戦禍は江南から北の地まで及んでいた。翌年には長安が陥落、
皇帝の僖宗は成都に逃れるという混乱の時代であった。
本作は、群雄が割拠して、人民は塗炭の苦しみをなめている、という戦乱の惨禍を訴えた作品。

【泽国】 zé guó  江南各地の水郷の国。 
【战图】 zhàn tú  戦場。 
【生民】 shēng mín  民衆。 
【何计】 hé jì   (反語)どんな手立てがあろう、何もない。
【樵苏】 qiáo sū  日常生活の営み。「樵」は木こり「蘇」は草刈り。 
【凭君】 píng jūn  君にお願いする。 
【封侯】 fēng hóu  戦功を立て諸侯に任じらる。 
万骨】 wàn gǔ  万骨。多くの兵卒の命。



曹松 cáo sōng (そうしょう)(830~901年)
晩唐の詩人。字は夢徴(むちょう)舒州 (じょしゅう 安徽省) の人。
「推敲」の故事で有名な賈島(かとう)について詩を学び、最晩年の七十歳を過ぎて
科挙の進士試験に合格した。その後間もなく世を去ったと伝えられる。

黄巣の乱の惨禍を嘆いて詠んだ七言絶句「己亥歳」(きがいのとし)は、千古の絶唱とされる。
著作に詩集「曹夢徴(そうむちょう)詩集」三巻。
また、清代に編纂された唐詩全集「全唐詩」に、140首の作品が収録されている。




崔顥


黄鹤楼  huáng hè lóu (唐)崔颢   

昔人已乘黄鹤去  此地空余黄鹤楼 xī rén yǐ chéng huáng hè qù  cǐ dì kōng yú huáng hè lóu
黄鹤一去不复返  白云千载空悠悠 huáng hè yí qù bú fù fǎn  bái yún qiān zǎi kōng yōu yōu
晴川历历汉阳树  芳草萋萋鹦鹉洲 qíng chuān lì lì hàn yáng shù  fāng cǎo qī qī yīng wǔ zhōu
日暮乡关何处是  烟波江上使人愁 rì mù xiāng guān hé chù shì  yān bō jiāng shàng shǐ rén chóu




【注 釈】

黄鶴楼(くわうかくろう)

昔人(せきじん) 已(すで)に 黄鶴(くわうかく)に乗(じょう)じて去り
此の地 空(むな)しく余(あま)す 黄鶴楼(くわうかくろう)

黄鶴(くわうかく) 一(ひと)たび去って 復(ま)た返(かへ)らず
白雲(はくうん) 千載(せんざい) 空(むな)しく悠々(いういう)

晴川(せいせん) 歴々(れきれき)たり 漢陽(かんやう)の樹(じゅ)
芳草(はうさう) 萋々(せいせい)たり 鸚鵡(あうむ)洲(しう)

日暮(にちぼ) 郷関(きゃうくわん) 何(いづ)れの処(ところ)か是(ぜ)なる
煙波(えんは) 江上(かうじゃう) 人をして 愁(うれ)へしむ


【口語訳】

昔語りを訪(たづ)ぬれば 武昌府(ぶしゃうふ)西方(さいはう)に二層(にそう)の楼台(ろうたい)ありて 
其の壁に一羽の黄鶴(くわうかく)の絵が画(ゑが)かれて居(ゐ)た

或る時一人の老翁(らうをう)腰に帯(お)ぶるところの笛を採(と)りて一吹(いっすい)すれば 
須臾(しゅゆ)にして其の黄鶴(くわうかく)壁より下りて 老翁の前に跪(ひざまづ)きたり

老翁(らうをう)遂(つひ)に 此の黄鶴(くわうかく)に跨(またが)りて 空(そら)駆けめぐる
其の楼台(ろうたい)を後にして いづくともなく飛び去りて 再(ふたた)び返り来(きた)らず

唯(ただ)漂(ただよ)へる白雲(はくうん)のみ 千年の久しきに 長(とこし)えに変わることなし

楼上(ろうじゃう)より遠(とほ)くを眺(なが)むれば 川の向かひの 樹々(きぎ)碧(あお)く 
中洲(なかす)に草の生い茂る 日の暮れて ふるさと遠く望めども もやにかすみて えも知れず



【黄鹤楼】 huáng hè lóu  黄鶴楼。湖北省武昌県の西端、長江に突き出した所にある楼台。

本作は、黄鶴楼に登り、対岸の漢陽、中洲の鸚鵡洲を眺め、日暮れの長江の悠々たる流れを見て、
望郷の念に堪えなくなった心境を詠う。

【昔人】 xī rén  伝説にある、昔この地に来たという老仙人。
【空余】 kōng yú  ただ虚しく(高楼のみが)残っているばかりだ。
【晴川】 qíng chuān  (阳光照耀下的晴明江面)晴れた長江の流れ。
【历历】 lì lì  (清楚可数)はっきり見えるさま。
【萋萋】 qī qī  (草木茂盛)生い茂っているさま。
【鹦鹉洲】 yīng wǔ zhōu  鸚鵡洲。湖北省漢陽県の西南、揚子江の中洲。
【烟波】 yān bō  (暮霭沉沉的江面)川面を覆う靄(もや)



崔顥 cuī hào  さいこう(704~754年)
盛唐の詩人。河南省汴州(べんしゅう 現在の開封市)の人。
723年進士に合格し、742年司勲員外郎(しくんいんがいろう 皇帝の護衛)となった。

秀才であったが素行が修まらないところがあり、妻を何遍も取り替えたという。
若い時代の詩は軽薄とされたが、年をとるとともに気骨のある詩をつくるようになった。
特に「黄鶴楼」の詩は李白に激賞され、唐代七言律詩中第一の名声を得た。
作品集としては、清代に編纂された唐詩全集「全唐詩」に、42首が収録されている。




(寒山)

(寒山詩164)  (寒山詩129)  (寒山詩140)  (寒山詩126)
 

寒山诗164   (唐) 寒山    

粤自居寒山  曾经几万载  yuè zì jū hán shān céng jīng jǐ wàn zǎi
任运遁林泉  栖迟观自在  rèn yùn dùn lín quán xī chí guān zì zài
寒岩人不到  白云常爱逮  hán yán rén bú dào bái yún cháng ài dài
细草作卧褥  青天为被盖  xì cǎo zuò wò rù qīng tiān wèi bèi gài
快活枕石头  天地任变改  kuài huó zhěn shí tou tiān dì rèn biàn gǎi



【注 釈】

寒山詩164

粤(ここ)寒山(かんざん)に居(す)みてより
曾(かつ)て 幾万歳(いくまんさい)をか経(へ)たる

運に任せて 林泉(りんせん)に遁(のが)れ
棲遅(せいち)して 観(くわん)ずること自在なり

寒岩(かんがん) 人(ひと)到らず
白雲(はくうん) 常(つね)にあいたいたり

細草(さいさう)を臥褥(がじょく)と作(な)し
青天(せいてん)を被蓋(ひがい)と為(な)す

快活(くわいかつ)に石頭(せきとう)に枕(まくら)し
天地の変改(へんかい)するに任(まか)す


【口語訳】

わしが寒山に移り住み 幾万年経ったであろうか
運に任せ隠遁して以来 悠然と物事を観じておる
訪ねて来る者はおらず ただ白雲がたなびくのみ

青い草を敷き布団とし 青い空を掛け布団として
たくあん石を枕として のびのびと寝っころがる
天地がどう変わろうと わしの知った事ではない


【粤自居寒山】 yuè zì jū hán shān  さてこの寒山に住みてよりこのかた
「粤」は、新たに話題を持ち出す際に用いる接続詞。さて、ここに

【寒岩人不到】 hán yán rén bú dào  この冬枯れの岩山を訪れる者はいない

寒山は、蘇州の寒山寺で修行し、晩年は天台山(浙江省)に隠棲したとされる禅僧だが、その経歴は、
謎に包まれており、寒山詩と呼ばれる、竹木石壁に書きちらした詩三百余首のみが残っている。

それらは奔放自在、高い超越的境地を語るかと思えば、みにくい世態に鋭い観察を示した作品もあり、
漢詩文学における一大孤峰として異彩を放っている。




寒山诗129   (唐) 寒山       

雍容美少年 博览诸经史  yōng róng měi shào nián bó lǎn zhū jīng shǐ
尽号曰先生 皆称为学士  jìn hào yuē xiān sheng jiē chēng wéi xué shì
未能得官职 不解秉耒耜  wèi néng dé guān zhí bù jiě bǐng lěi sì
冬披破布衫 盖是书误己 

dōng pī pò bù shān gài shì shū wù jǐ



【注 釈】

寒山詩129

雍容(ようよう)たる美少年 諸経史(しょけいし)を博覧(はくらん)す
尽(ことごと)く号(がう)して先生と曰(い)ひ 皆称(しょう)して学士と為す
未(いま)だ能(よ)く官職を得ずして 耒耜(らいし)を秉(と)ることも解せず
冬破れた布の衫(ひとえ)を披(き)て 蓋(けだ)し是れ 書が己を誤(あやま)らせるなり


【口語訳】

その青年はりっぱな人物であり 古典も広く読んでおる
誰もが彼を 先生とか 学士様などと呼んでいる
それでも 未だに職がなく 百姓さえやれず
着ているものは 冬でも麻のボロ まったく死に学問


【雍容】 yōng róng  (优雅而从容)ゆったりと落ち着いている
【诸经史】 zhū jīng shǐ   もろもろの書物(経書や史書)
【秉耒耜】 bǐng lěi sì  鋤(すき)を手にする
【盖是】 gài shì  けだし。要するに
【书误己】 shū wù jǐ  読書が身を誤らせる

本を沢山読んでも自分の人生に活かせない学者を嘲ったもの。
寒山詩には、世俗の称号や権威を風刺した作品が多い。




寒山诗140   (唐) 寒山       

城北仲家翁 渠家多酒肉  chéng běi zhòng jiā wēng qú jiā duō jiǔ ròu
仲翁妇死时 吊客满堂屋  zhòng wēng fù sǐ shí diào kè mǎn táng wū
仲翁自身亡 能无一人哭  zhòng wēng zì shēn wáng néng wú yī rén kū
吃他杯脔者 何太冷心腹 

chī tā bēi luán zhě hé tài lěng xīn fù



【注 釈】

寒山詩140

城北の仲家(ちゅうけ)の翁(おきな)渠(そ)の家は酒肉多し
仲翁(ちゅうをう)の婦(つま)死せる時 吊客(てうかく)堂屋(だうをく)に満つ
仲翁自身の亡くなるや 能く一人の哭(こく)するもの無し
他(かれ)の盃臠(はいれん)を喫(きっ)する者 何ぞ太(はなは)だ 心腹(しんふく)の冷(つめ)たきことか


【口語訳】

世にときめく仲家翁の妻君が死んだ時には 弔問客が家中いっぱいになった
しかして本人が死すれば もはや用は無しとて 弔問客も無し
何ともはや 世人の交わりの軽薄なことは 昔も今もかはりは無し


【渠家】 qú jiā    (那家)その家は
【杯脔】 bēi luán    酒や肉。宴席
【冷心腹】 lěng xīn fù    (冷心肠)血も涙もない

権勢のある人の家族が亡くなると、こういう時にご機嫌を損じてはならぬと、
弔問客がどっと押し寄せるが、その人が死んだ時は、誰一人、訪れなくなる。

この詩も、皮肉たっぷりに世俗の習いを嘲ったもの。
見返りがなければ見向きもしない。他人とはそういうものである。




寒山诗126   (唐) 寒山       

新谷尚未熟 旧谷今已无 

xīn gǔ shàng wèi shú jiù gǔ jīn yǐ wú

就贷一斗许 门外立踟蹰  jiù dài yī dòu xǔ mén wài lì chí chú
夫出教问妇 妇出遣问夫  fū chū jiāo wèn fù fù chū qiǎn wèn fū
悭惜不救乏 财多为累愚 qiān xī bù jiù fá cái duō wèi léi yú



【注 釈】

寒山詩126

新穀(しんこく)尚(な)ほ 未(いま)だ熟さず 旧穀(きうこく)今や已(すで)に無し
一斗許(ばか)り 貨(くわ)りに就(つ)かむとて 門外に 踟蹰(ちちゅう)して立つ
夫は出でて 婦(つま)に問はしめんとし 婦(つま)は出でて 夫に問はしめんとす
慳惜(けんじゃく)にして 乏(とぼ)しきを救はず 財多くして 累愚(るいぐ)を為す


【口語訳】

新米まだとれず 古米ももう切れた 一升借りにゆき 戸口でもたついた
亭主は 家内に話してくれ と言ひ おかみは 主人に話してくだされ と言ふ
客は困り果てて すごすご去れば 夫婦相ひ見て ぺろりと舌を出す
何ともはや 物を惜しみて けちけち言い逃れ 物持ち これバカのうちなり


【踟蹰】 chí chú    行きつ止まりつして
【悭惜】 qiān xī    出し惜しみ
【累愚】 léi yú    恥の上塗り

貧民が金持ちの門前で米を求める有りさまを描いたもの。
応対した夫婦はいずれも物惜しみの権化で、貧民はすごすご引き下がる。
金持ちは決して貧窮を救わざることを罵倒して、小気味よく痛快の極み。



寒山 hán shān   (かんざん)  (680~793年)
盛唐の詩人、禅僧。天台山(浙江省)に住み、世俗を超越した奇行が多く、
また文殊菩薩の化身と称せられ、後世に水墨画の題材とされた。
なお、寒山の逸話について、森鴎外が「寒山拾得(かんざんじっとく)」として作品化している。
著作に詩集「寒山詩集」(一巻)